1940年代という未来

1940年に幻の万国博覧会もあった

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幻の東京オリンピックだけじゃない!

1940年=皇紀二千六百年日本万国博覧会は前売り券まで発売されてた!?

この博覧会の前売り券は10円で販売されており、大量に市中に残されていた。そのため特例で、1970年に大阪府で開催された日本万国博覧会、および2005年に愛知県で開催された2005年日本国際博覧会(愛・地球博)で使用可能であった(券面番号確認後に各博覧会の招待券が発行され、券そのものは返却された)。なお、日本万国博覧会では約3000枚、2005年日本国際博覧会では約90枚使われたという。

             http://ja.wikipedia.org/wiki/紀元2600年記念日本万国博覧会


 1970年と2005年に使った人もいるというのだから、これは私が無知なだけなのかな。

 でもびっくりしました。これは東京オリンピックのように返上したのではなくて、「1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争の影響を受けて、資材不足などを理由として、東京オリムピックが返上されたのと同じ日に、”延期が決まる”」ということだったのでした。

  太字は『幻の1940年計画―太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した』p119


これがそのチケットです!おー感動してしまう!



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  ロンドン万博やパリ万博など、万博というのは開催都市の名前を冠するのが普通。でも日本は、日本万国博覧会と国家の名を冠してで登録した。これは『幻の1940年計画』の筆者によれば、一等国のステータスとしての世界最大のお祭りに日本中が酔いしれることが目的であって、新技術の披露や開催都市の整備とその万国への紹介という万博の企画ではなかったのだとのこと(p100あたりをまとめました。ゆっきー)



 

 いずれにしてもこの時代は後世の私たちのイメージ、戦争突入前の暗い時代etc...とは多少違う世界だったようです。




 続く…

幻のオリンピックテレビ中継

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本邦のテレビ放送開始は本当は1940年からだった?!



 時は1936年8月。ベルリン・オリンピックが開催されました。

「当時隆盛を誇っていたアドルフ・ヒトラー総統は、当初オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとして開催に難色を示したが、側近から大きなプロパガンダ効果が期待できるとの説得を受けて、開催することに同意した。」

               ウィキペディア:ベルリン・オリンピック 


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この大会では日本人も結構金メダルをとってます(^^)
金メダル受賞者
遊佐正憲・杉浦重雄・田口正治・新井茂雄(競泳男子800m自由形リレー)
前畑秀子(競泳女子200m平泳ぎ)
葉室鐵夫(競泳男子200m平泳ぎ)
寺田登(競泳男子1500m自由形)
田島直人(陸上男子三段跳び)
孫基禎(陸上競技男子マラソン)




 この時ヒトラー政権はオリンピックの模様をテレビ中継しますた。はっきりいってアナウンサーの声が無かったら誰が一位になったのかわからないといった映像レベルだったそうですが、それでもこの事実に衝撃を受けたのが当時のNHKだったのです。


 この時のテレビが映りが悪かったのは、機械式テレビと呼ばれる方式だだったためでした。

 のちに世界の受信技術を席巻することとなるブラウン管技術で鮮明な映像を世界で初めて映しだしたのは、我が国の技術者高柳健次郎その人でした。



 この高柳健次郎の研究を全面的にバックアップしたのがNHK。

 当時NHKは電波出力も弱かったので、会社の体制はそれぞれの地域で電波圏内の放送を流していて、東京、大阪、名古屋に完全に分かれて活動していました。

 これに異を唱えたのが日本近代史の超大物、東京放送局初代総裁でもあった後藤新平。国家の財力を後ろ盾として、NHKを全国規模で統一しようとしてました。


「人類は本来ひとつの文明に統一されるべきもので、その間に区々とした人種差別があってはならない。その意味からすれば、地球上には放送局が一局あれば足りる」


 さすがは南満洲鉄道初代総裁だなあ、と思いますが、高邁で気宇壮大な言葉の裏には「後藤は早くからメディアの”力”を見抜き、これを国家がコントロールすることが国をとますと考えていた」(『幻の1940年計画』p137-138)という思惑もあったのでしょう。


 その後藤が掲げたのが、世界一鮮明な映像で東京オリンピックを世界中継することでした。




 こうしてベルリン・オリンピックに対抗すべくプロジェクトXは立ち上がったわけなのですが、さすがは高柳教授。勤務先の静岡大学(現在の)兼任のままNHKに大学の研究仲間20人を引き連れ、NHK技術陣、無線機器メーカーからの出稿技術者など総勢190名を束ね、1937年の着任からタイムリミットを1940年東京オリンピックでの放送とおしりを区切られた中で、見事世界初のブラウン管による放送の受像に成功します。



 ところが…


 そうです。残念ながら東京オリンピックは中止になってしまいました。

 しかし、その遺産は満州の映画コンテンツ産業に着実に連結され、当時人気の高かった李香蘭主演の映画放送などに活かされました。








 この項終わり
 このシリーズ最後は、あの幻の超特急についてです。

幻の新幹線

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新幹線は実は1940年に計画されていた?!


 その列車は車輪が直径2メートル30センチ。最高速度はゆうに150キロを超える予定だったというからすごーい。しかし驚くのはまだ早いのだ!

 その列車はどこを走る予定だったと思いますか?

 東京大阪?いっそ博多まで伸ばすか、それならまさに現在の新幹線と同じ、まさか最初からそこまでやろうとしないよね・・・

 え!?それ以上やる!





 列車は、午前6時に東京駅を出発した後、東海道都山陽道を下り、午後3時に下関に到着。そこから関門トンネルをくぐり、小倉・博多を経由して、佐賀の呼子から再び海底トンネルへと潜り、壱岐・対馬を経て朝鮮半島に上陸する。釜山から京城へと半島を北上し、満州国の奉天を経由して、翌日の朝に北京に到着。ざっと24時間の鉄道の旅。これが、1940年に立案された「弾丸列車」の行程である

『幻の1940年計画―太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した』p156-157



 まいりました・・・。


 1943年までに東京から下関までの実に27%の用地が確保され、それと同時にトンネル工事も平行して推し進められました。1941年には新丹那トンネルと、翌42年には京都の新東山トンネルの工事にも着工。

 そして絵空事っぽく思える対馬海峡と朝鮮海峡の海底トンネルの地質調査もしっかりと1941年に行われています。基本的に対馬までま従来工法で掘れるということがわかり一安心。そしてその先の対馬と釜山を結ぶ深海250メートルの海底が難物。そこで海底を掘るのをやめて、チューブ型のトンネルを海底に設置し、列車はその中を通るようにすることにした(これって実現してたらすごいですよね、水族館みたいに旅の車窓から深海くじらとか、巨大あんこうとか見えるわけですよね・・・すげーです)。




 しかし戦局の悪化で物資人員共に不足し、工事の延期はやむなし。

 東海道新幹線がわずか5年で完成したのは紛れもなくこの時のノウハウの蓄積があったから。意外に重要だったのが、難航しそうな一直線ルートの民間用地買収を昭和の日本人の先輩方がやってくれたってこと。






 すごい時代でした。

 しかし、これまで見てきた東京オリンピック、万博、テレビ放送、弾丸列車は残念ながらいずれも実現はしなかった。

 そして時代は一気に戦時色を強めていきます。



 2014年、日本経済もようやく長いデフレを脱することが出来そうな薄明かりが見えてきました。

 できれば世界中の国と仲良くしながら次のオリンピックを迎えたいものです。





一冊使って一冊書評シリーズ『幻の1940年計画』終わりです('-^*)/
(最後の文章加筆)
 
ゆっきー
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