本邦のテレビ放送開始は本当は1940年からだった?! 時は1936年8月。ベルリン・オリンピックが開催されました。
- 「当時隆盛を誇っていたアドルフ・ヒトラー総統は、当初オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとして開催に難色を示したが、側近から大きなプロパガンダ効果が期待できるとの説得を受けて、開催することに同意した。」
ウィキペディア:ベルリン・オリンピック
この大会では日本人も結構金メダルをとってます(^^)
金メダル受賞者 遊佐正憲・杉浦重雄・田口正治・新井茂雄(競泳男子800m自由形リレー)
前畑秀子(競泳女子200m平泳ぎ)
葉室鐵夫(競泳男子200m平泳ぎ)
寺田登(競泳男子1500m自由形)
田島直人(陸上男子三段跳び)
孫基禎(陸上競技男子マラソン) この時ヒトラー政権はオリンピックの模様をテレビ中継しますた。はっきりいってアナウンサーの声が無かったら誰が一位になったのかわからないといった映像レベルだったそうですが、それでもこの事実に衝撃を受けたのが当時のNHKだったのです。
この時のテレビが映りが悪かったのは、
機械式テレビと呼ばれる方式だだったためでした。
のちに世界の受信技術を席巻することとなる
ブラウン管技術で鮮明な映像を世界で初めて映しだしたのは、我が国の技術者高柳健次郎その人でした。
この高柳健次郎の研究を全面的にバックアップしたのがNHK。
当時NHKは電波出力も弱かったので、会社の体制はそれぞれの地域で電波圏内の放送を流していて、東京、大阪、名古屋に完全に分かれて活動していました。
これに異を唱えたのが日本近代史の超大物、東京放送局初代総裁でもあった
後藤新平。国家の財力を後ろ盾として、NHKを全国規模で統一しようとしてました。
- 「人類は本来ひとつの文明に統一されるべきもので、その間に区々とした人種差別があってはならない。その意味からすれば、地球上には放送局が一局あれば足りる」
さすがは南満洲鉄道初代総裁だなあ、と思いますが、高邁で気宇壮大な言葉の裏には
「後藤は早くからメディアの”力”を見抜き、これを国家がコントロールすることが国をとますと考えていた」(『幻の1940年計画』p137-138)という思惑もあったのでしょう。
その後藤が掲げたのが、世界一鮮明な映像で東京オリンピックを世界中継することでした。
こうしてベルリン・オリンピックに対抗すべくプロジェクトXは立ち上がったわけなのですが、さすがは高柳教授。勤務先の静岡大学(現在の)兼任のままNHKに大学の研究仲間20人を引き連れ、NHK技術陣、無線機器メーカーからの出稿技術者など総勢190名を束ね、1937年の着任からタイムリミットを1940年東京オリンピックでの放送とおしりを区切られた中で、
見事世界初のブラウン管による放送の受像に成功します。
ところが… そうです。残念ながら東京オリンピックは中止になってしまいました。
しかし、その遺産は満州の映画コンテンツ産業に着実に連結され、当時人気の高かった李香蘭主演の映画放送などに活かされました。
この項終わり
このシリーズ最後は、あの幻の超特急についてです。