東野圭吾作品論

東野圭吾『パラレルワールド•ラブストーリー』「自分の中の世界」と「世界の中の自分」

 人は「謎」に直面した時、本能的にその謎が生じた「原因」と「結果」との結びつきを解くことに意識を向ける。

 ところが、そうして解けた謎にいったんは納得しても、私たちはまた別の可能性を考えてしまう。

 本当に謎は解けたんだろうか。解けたように見えて、もっと全然別の原因と結果を私は見逃しているのではないだろうか。こうではない結果は絶対にありえないのだろうか。もしくは、自分がスッキリしたいから一番お手軽な原因と結果を探し出して満足しているだけなんじゃないだろうか…。





読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)/河出書房新社
 哲学者の黒崎宏は、因果関係は任意に設定されていると論じている。たとえば、家が倒壊した。ところが、その原因は一つには決められないと言うのだ。家が倒壊した原因は「地震のため」と答えることもできるし、「家のつくりが弱かったから」と答えることもできるし、あるいは「地球に重力があったから」と答えることさえできるはずなのだ。すなわち「原因」として何をあげるかは、客観的に決まっている訳ではない、ということを物語っている。「原因」として何を挙げるかは、基本的には、それに関わる人間の問題意識に依存するのである。」
(「カッコ」は黒崎宏『ウィトゲンシュタインから道元へ』)
石原千秋『読者はどこにいるのか--書物の中の私たち』より








 ミステリ小説の「謎」の解明にスッキリしても、読み終わった後ふとその「解決」に「本当にそれで謎は解けたんだろうか」と感じてしまう人は案外多いように思える。

 おそらく純文学に慣れ親しんだ人にこの感想を持つ人が多いのではないだろうか。

 東野圭吾『パラレルワールド•ラブストーリー』では、主人公の記憶の混乱の原因と真相が終盤で明らかになる。会社ぐるみの隠蔽工作と、親友の思惑、三角関係にあった彼女の板挟みの思いが交錯して悲劇は起きた。

 なぜ地震が起きたのかは、東野圭吾の鮮やかな手つきで見事に解き明かされるのだ。

 しかし東野圭吾は一方で読者に対して「解けない謎」を置き土産として残して行く。最後の最後に自分の記憶を記憶改変装置を使って作り変え、その堪え難い三角関係の起こした悲劇の苦しみから逃れることにした主人公のこの悲痛な独白がそれだ。

「嫌なこと、悲しいこと、辛いことを経験したことによる心の痛みを、すべて忘れるという方法で解決していいものだろうか。むしろ人間はそうした心の痛みを、一生抱えて生きていくべきではないのか」
『パラレルワールド•ラブストーリー』


 これは、親友の彼女をとったとかいう三角関係の「道徳的」問題よりももっと深い、「倫理的」な問題だ。
 言い換えれば、主人公は「自分の中の世界」の問題には自分なりに筋道をつけられたのだが、もっと大きな「世界の中の自分」の抱える「謎」には明確に自分を納得させられる「原因と結果」を見出せていないということになる。


 純文学とミステリ小説に明確なジャンル分けの線を引くことはだんだん難しくなってきているし、そもそもそんな区分けはナンセンスなのかもしれない。
 しかし、あえて図式化すれば、この『パラレルワールド•ラブストーリー』の倫理的置き土産のパンドラの箱を開くことにこだわるのが純文学なのかもしれない。

「僕はここに残ろうと思うんだ」

 影はまるで目の焦点を失ったようにぼんやりと僕の顔をみていた。

「よく考えたことなんだ」と僕は影に言った。

村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』






『パラレルワールド•ラブストーリー』の主人公の過去の記憶は消滅し、その瞬間に世界は終わりを告げ、「自分の中の世界」は完結する。

 一方『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の主人公は薄れゆく記憶にこだわり「世界の中の自分」と向き合う。





 そして、読者の私たちは小説を閉じた後、なんとも言えない余韻に浸りながら、私自身が抱える「自分の中の世界」と「世界の中の自分」の「謎」に思いをめぐらせるのだ。





東野圭吾『パラレルワールド•ラブストーリー』謎と倫理(下)「自分の中の世界」と「世界の中の自分」

(o^—^)ノ
ゆっきー
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