魔球 (講談社文庫)/講談社
「だいたい俺たちは本当に甲子園に行ったのか?」
「甲子園に行ったのは、北岡と須田の二人だけじゃないのか?」
「あの二人以外は、別に俺たちでなくてもよかったんだ。ユニフォームを着てれば誰だってよかったんだよ。所詮付録さ。二人に連れて行ってもらった甲子園なんて、なんの感激もなかったね」
チームのキャプテンだったキャッチャーの北岡明君が殺されたあと、野球部がまずやった事は新しいキャプテンを選出する事だった。
順当に行けば、というかまともに考えるならば、無名校を甲子園に導いたエースの須田武志キャプテンが満場一致で誕生だろう。
しかし部員のほぼ全員がそれに反対した。反対の音頭をとったのは、肝心な場面で致命的なエラーを犯し好投須田を敗戦投手にした張本人だった。
彼らの出した結論はこうだ。
「主将は須田以外の者。方針は、部員全員が楽しめるようなチーム作りをする、ということだ。全員野球で勝つという方向だな。スターはいらない」
須田武志と北岡明の孤独はここに極まる。
よくスポーツ選手が「モットーは楽しむことです」とインタビューで爽やかに答えているシーンがテレビで映し出されるけど、あのシーンがとんでもない偉業を成し遂げたヒーローへの勝利者インタビューであるという事実は重要だと思う。
負けた方が同じセリフをいうことは許されない。あれは勝者のみに許された特権的謙遜なのだろう。敗者があれを言っちゃったら単なる負け犬の遠吠えのはずだ。ましてや彼の働きによってしか全員野球どころか甲子園というという土俵にすらあがれなかった彼らが、その栄光の遺産を自分の小狡さで台無しにすることはどう考えても許されないだろう。
しかしそれが正論となって堂々とキャプテン選出の基本方針という世論になる場所で、一連の悲劇は最悪の形で人間の前に現れたのだった。
ネタバレになるのではっきりは書けないけど、犯人の北岡明殺害の動機はこの「ぬるい民主主義」だった。
そしてこの小説の重要なサブストーリーである、元東西電気社員芦原誠一の爆破テロ未遂事件の動機も、会社の事故隠しと責任の芦原への押し付けで事態を丸く収めようとした「ぬるい民主主義」が根底にある。
さらには、重要証言を翻すことになり、結局恋人とも破局してその街から姿を消さざるをえなくなった開陽高校教師手塚麻衣子と、それを守りきれなかった森川教諭。ここにも世間体から逃れられない「ぬるい民主主義」が引き起こす悲劇がみえる。
小説のラストで読者は、須田武志の一連の行動が普通に考えれば非難に値するものであったと知ることになるのだが、それでもなおこの孤高の、人から同情を受けることと一切無縁な青年に同情することを禁じえない、いや、同情されたくなくても、同情することを許して欲しいとさえ思えてくるのだ。それは須田武志が徹底的にこの「ぬるい民主主義」を拒絶して生きてきた、そして生き抜いたその生き様への畏敬の念に他ならない。
そして同時に読者は、結局ぬるい同情でしか須田武志と分かり合えない自分も発見してしまう。それでもなお、彼のことをわかりたいと思う。彼のようには生きられないと思いつつ、彼に拒絶されるのはわかりきっているのに、彼にこの自分のやるせない気持を分かってほしい。一読者として小説の登場人物の彼に伝えたいと思ってしまう。
弟勇樹への武志の最後の手紙は涙なしには読めない。でもそんな涙を須田武志は微塵も受け付けてはくれない。
戦場でみんなで解決はありえない。戦場で同情している暇はない。戦場で自己実現など噴飯ものである。
須田武志はきっとそう言うに違いない。
でも人はいうだろう。「ここは戦場なんかじゃない。グラウンドは戦場なんかじゃなくてスポーツの舞台だ。生きることは楽しむことだ」と。
そこに再び須田武志の孤独が極まる。もし彼の人生が、ある生い立ちが彼に強いた戦争そのものだったとしたら、グラウンドが戦場でないわけはないのだ。その生い立ちをあらん限りの利他の精神で甘受し、最後まで聖戦を貫いた彼の生き様は読者に不思議な読後感をもたらす。
それはなんというか心地の良い、完璧な敗北の潔さのようなものだ。
「兄貴は」
勇樹がぼんやりと窓の外を見ながらいった。「いつも一人だった」
終章の兄を尊敬してやまない弟の、万感の思いを込めた一言が印象的だ。