さて、では法然の仏説とはどんなものなのでしょうか。
前回の続きには、にはこんな風におどろおどろしく描かれています。
- 慈円のいぶかしげな表情にうなずいて、良禅は言葉を選ぶようにゆっくりという。
「法然は、区別なく、という立場で人びとに念仏を説いております。富者、貧者の区別なく、善人、悪人の区別なく、僧侶、俗人の区別なく、戒、破戒の区別なく、男、女の区別なく、すべて念仏することで救われる、と」
「それはわかっておる。だからこそ、身分の高いかたがたのところへも招かれれば出向き、また女人や、賎しき者たちをも区別せずに受け入れておるのであろう。仏の前ではすべての人びとに区別はない。われらもそこを学ぶべきだとわたしは、ずっというてきた」
「そのとおりでございます。しかし、それは法然のたてまえではないか、とわたしは疑っております」
「では、本心は?」
「選択本願念仏集、に」
「なるほど」
五木寛之『親鸞』
法然の隠された本心は「選択本願念仏集」にあり。
ふむふむ、じゃあ選択本願念仏集ってどんな危険な思想が盛ってあるのだろう?
…となります。
五木寛之さんの『親鸞』が好評なのは、ひとつにはこうした専門的な分野に素人の私のような読者を誘ってくれるたくみな筆致にもありそうです。
さっそく前回もお世話になった松岡正剛さんの文章を参照してみましょう。
- 『選択本願念仏集』がどういう構成になっているかというと、ざっといえば、最初に道綽の『安楽集』にもとづいて仏教を「聖道門」と「浄土門」に分け、深遠難解な哲理による聖道門はあまりにも困難な修行がともなうが、往生を重視するなら浄土門に帰入すべきだということを述べます。
ついで、浄土に往生するには善導の『観経疎』に大いに注目すべきだということを何度も強調する。引用も多くなります。そして称名念仏の重要性を「正行・雑行」などの分類をもって説明しながら、その発心は「至誠心」「深心」「廻向発願心」という三心(さんじん)によっているのだから、それをもって「恭敬修・無余修・無間修・長時修」といった四修(ししゅ)に臨むといいというふうに解説していく。
三心は阿弥陀仏の浄土に往生したいと思う気持ちの持ち方のこと、四修は浄土宗には安心(あんじん)・起行(きぎょう)・作業(あごう)という実践プログラムがあるのですが、その作業のメソッドのことです。
だいたいこのようなことを説いていって、そこから阿弥陀仏とはどういうものであるかというクライマックスにさしかかり、さきほど説明した「散善」との関係を説くのです。これを何度かにわたって多重に「選択」していく。それが『選択本願念仏集』の構成であって、仕組みです。
なるほど、これは親切です。簡単にいうと構成的にはこうなってるということでしょうか。
1 修行には難しいのと簡単なのがありますが、簡単な浄土門でも効果があります
2 三心の核心を説いてるお経を拾い読みしてみよう
3 今読んだことをさっそく四修で実践してみよう
4 分かった!つまり阿弥陀仏ってこうなんだ!
よく本屋に並んでる
「今日からやさしく始める○○入門」というのにてる気がします。
どうもこれを読む限り別段危ないことはなさそうに思います。
どうやら仏説そのものの危うさというよりは、偉い人も悪人も仏の前ではみな平等だし、悪人であっても念仏を唱えれば往生できるという考え方が、当時の社会不安背景にして社会的権威、宗教的権威を失墜させ、社会秩序を混乱させる温床になるのではないか、というのが正解のようです。
いわば、
悪人向けにハウツー本を書いて出版しちゃったことが危険だということでしょう。『国税OBが伝授する 税務署をギャフンと言わせる脱税のやり方』とか、『元刑事が教える カンタン改造拳銃の作り方』とかそういう本が危険だというのと似てるかもしれません。
悪人向けである、というのが良禅のいう「選択本願念仏集」にあらわれた法然の「本心」というわけです。
思想性の危険を感知する良禅の視線は、法然思想をさらに深読みして実践しようとしている親鸞に向けられます。
- 「善信(親鸞)は師の教えの示した道を、さらに一歩ふみだすことで、もっとも忠実な弟子となろうとしているのではないでしょうか」
「さらに一歩とは?」
「悪人、善人の区別さえつけないという考えのように思えます」
「なるほど」
慈円はため息をついていった。
「それは、とほうもなく危うい考え方だ」
良禅はうなずいた。
五木寛之『親鸞』
さて、だんだんと
この読書メモのテーマである親鸞が法然から受け継いだものが表に出てこようとしています。
悪人、善人の区別さえつけないという考えは何がそんなに危ないのでしょうか。
続く…