五木寛之『親鸞』を読む

『親鸞』読書メモ3もう一人の「善人」

「善信(親鸞)はすでに吉永(法然一派の本拠地)の念仏をはみだしております」

 良禅の言葉に、慈円は眉をひそめた。

「それはどういうことだ」

「さあ」

 良禅は顎に手をあてて、考え込むように頭をかしげた。やがて顔をあげると、まっすぐ慈円の目をみつめた。

「善信は、師の法然がひそかに心に抱いていながらも、みずからは声高には説かぬことをあえて語っておるのではございますまいか」

「話がようわからぬ」

五木寛之『親鸞』




 慈円はあの『愚管抄』の人。

 松岡正剛さんの目から鱗の卓抜な解説によるとこんな人です。

 慈円は1歳で母を亡くし、10歳で父を失い、13歳で出家した。20歳で大原に隠棲して天台法華を学び、翌年には比叡の無動寺に入って千日入堂をはたした。

 こういえば、いっぱしの仏道修行に励んだかのようだが、いや、実際にはそのような覚悟のある人物だったとおもわれるのだが、周囲の目がそうさせなかった。16歳ではやくも一身阿闍梨の称号を許され、いきなり法眼の位を与えられた。

 仏門や遁世を嫌ったのではない。慈円は25歳で比叡を下り、兄の九条兼実のもとに赴いて「遁世したい」ということを申し出るのだが、兼実に思い止まるように説得されてしまっている。隠棲への思いはあったのに、名門の出自を捨てるには至らなかったのだ。そればかりか、結局は<比叡山延暦寺の中央に摂関家から送りこまれた管理者のエースとしての役割を負わされた。




 この人もまた、社会的責任を捨てることが叶わず今ある自分の社会的環境を、悪人と同じように背負って行かねばならない善人たちの苦しみドアを負う人であった。


 吉川英治バージョンの『親鸞』ですと、この慈円と親鸞はもっと直接交流がたくさんあるのですが、五木寛之『親鸞』では終始すれ違いです。
 いずれにしても、慈円からすると天台改革の優秀な手駒として働かせたかった親鸞は、その期待には応えなかったということは言えるでしょう。

 さてでは、慈円の手駒の良禅がいう「師の法然がひそかに心に抱いていながらも、みずからは声高には説かぬこと」とは何だったのでしょう。



 次回それをみてみましょう。


 続く…

『親鸞』読書メモ4 「選択本願念仏集」のまたその先に

 さて、では法然の仏説とはどんなものなのでしょうか。

 前回の続きには、にはこんな風におどろおどろしく描かれています。



 慈円のいぶかしげな表情にうなずいて、良禅は言葉を選ぶようにゆっくりという。

「法然は、区別なく、という立場で人びとに念仏を説いております。富者、貧者の区別なく、善人、悪人の区別なく、僧侶、俗人の区別なく、戒、破戒の区別なく、男、女の区別なく、すべて念仏することで救われる、と」

「それはわかっておる。だからこそ、身分の高いかたがたのところへも招かれれば出向き、また女人や、賎しき者たちをも区別せずに受け入れておるのであろう。仏の前ではすべての人びとに区別はない。われらもそこを学ぶべきだとわたしは、ずっというてきた」

「そのとおりでございます。しかし、それは法然のたてまえではないか、とわたしは疑っております」

「では、本心は?」

「選択本願念仏集、に」

「なるほど」

五木寛之『親鸞』



 法然の隠された本心は「選択本願念仏集」にあり。

 ふむふむ、じゃあ選択本願念仏集ってどんな危険な思想が盛ってあるのだろう?

 …となります。

 五木寛之さんの『親鸞』が好評なのは、ひとつにはこうした専門的な分野に素人の私のような読者を誘ってくれるたくみな筆致にもありそうです。

 さっそく前回もお世話になった松岡正剛さんの文章を参照してみましょう。



 『選択本願念仏集』がどういう構成になっているかというと、ざっといえば、最初に道綽の『安楽集』にもとづいて仏教を「聖道門」と「浄土門」に分け、深遠難解な哲理による聖道門はあまりにも困難な修行がともなうが、往生を重視するなら浄土門に帰入すべきだということを述べます。

 ついで、浄土に往生するには善導の『観経疎』に大いに注目すべきだということを何度も強調する。引用も多くなります。そして称名念仏の重要性を「正行・雑行」などの分類をもって説明しながら、その発心は「至誠心」「深心」「廻向発願心」という三心(さんじん)によっているのだから、それをもって「恭敬修・無余修・無間修・長時修」といった四修(ししゅ)に臨むといいというふうに解説していく。

 三心は阿弥陀仏の浄土に往生したいと思う気持ちの持ち方のこと、四修は浄土宗には安心(あんじん)・起行(きぎょう)・作業(あごう)という実践プログラムがあるのですが、その作業のメソッドのことです。

 だいたいこのようなことを説いていって、そこから阿弥陀仏とはどういうものであるかというクライマックスにさしかかり、さきほど説明した「散善」との関係を説くのです。これを何度かにわたって多重に「選択」していく。それが『選択本願念仏集』の構成であって、仕組みです。





 なるほど、これは親切です。簡単にいうと構成的にはこうなってるということでしょうか。


1 修行には難しいのと簡単なのがありますが、簡単な浄土門でも効果があります
2 三心の核心を説いてるお経を拾い読みしてみよう
3 今読んだことをさっそく四修で実践してみよう
4 分かった!つまり阿弥陀仏ってこうなんだ!



 よく本屋に並んでる「今日からやさしく始める○○入門」というのにてる気がします。



 どうもこれを読む限り別段危ないことはなさそうに思います。

 どうやら仏説そのものの危うさというよりは、偉い人も悪人も仏の前ではみな平等だし、悪人であっても念仏を唱えれば往生できるという考え方が、当時の社会不安背景にして社会的権威、宗教的権威を失墜させ、社会秩序を混乱させる温床になるのではないか、というのが正解のようです。

 いわば、悪人向けにハウツー本を書いて出版しちゃったことが危険だということでしょう。『国税OBが伝授する 税務署をギャフンと言わせる脱税のやり方』とか、『元刑事が教える カンタン改造拳銃の作り方』とかそういう本が危険だというのと似てるかもしれません。

 悪人向けである、というのが良禅のいう「選択本願念仏集」にあらわれた法然の「本心」というわけです。


 思想性の危険を感知する良禅の視線は、法然思想をさらに深読みして実践しようとしている親鸞に向けられます。


「善信(親鸞)は師の教えの示した道を、さらに一歩ふみだすことで、もっとも忠実な弟子となろうとしているのではないでしょうか」

「さらに一歩とは?」

「悪人、善人の区別さえつけないという考えのように思えます」

「なるほど」

 慈円はため息をついていった。

「それは、とほうもなく危うい考え方だ」

 良禅はうなずいた。

五木寛之『親鸞』




 さて、だんだんとこの読書メモのテーマである親鸞が法然から受け継いだものが表に出てこようとしています。


 悪人、善人の区別さえつけないという考えは何がそんなに危ないのでしょうか。




続く…

『親鸞』読書メモ5 善悪の彼岸

 では良禅は親鸞の思想性のどこに危険を見出したのでしょうか。

「善人、悪人の区別をつけないということは、この世に生きるすべてのものは、だれもみな心に深い闇をいだいていきている、ということでしょう。それを悪とよんでもよい。しかし、その闇をつよく感じる者と、ほとんど感じない者がおりまする。だが、いつかはだれでもが向きあうことになる。いま、念仏、念仏とさわいでおりますが、あのなかに、本当に念仏なしでは生きられない者たちが、どれほどいるのでしょうか。吉水に群れつどう人びとの大半は世の中の流行りで念仏となえている者たちでしょう。門弟たちもそうです。ですから、念仏をおそれることはないのです。われらはすべて悪人である、と、彼は人びとに説いております。その考えをそのまま受けとれば、高貴なかたがたも、立派な僧たちも、貴族も、人はみな悪人ということになりましょう」

 慈円はしばらく黙っていた。

五木寛之『親鸞』



 善人の中にも悪はある。当たり前のことという気もしますが、これは場合によっては深刻なことだろうと思えます。

 例えば善人が他の善人に人を千人殺しなさいと言ったらどうするか。国家間の戦争で自国の部隊に作戦を命令する時などはまさにこれでしょう。

 親鸞は弟子の唯円に言います。


 またあるとき聖人が、 「 唯円房はわたしのいうことを
信じるか 」 と仰せになりました。
そこで、 「 はい、信じます 」 と申しあげると、 「 それでは、
わたしがいうことに背かないか 」 と、重ねて仰せに
なたので、つつしんでお受けすることを申しあげました。

すると聖人は、 「 まず、人を千人殺してくれないか。
そうすれば往生はたしかなものになるだろう 」
と仰せに
なったのです。

そのとき、 「 聖人の仰せではありますが、わたしの
ようなものには一人として殺すことなどできるとは
思えません 」 と申しあげたところ、
「 それでは、どうしてこの親鸞のいうことに
背かないなどといったのか 」 と仰せになりました。

 続けて、 「 これでわかるであろう。どんなことでも
自分の思い通りになるのなら、浄土に往生する
ために千人の人を殺せとわたしがいったときには、
すぐに殺すことができるはずだ。

けれども、思い通りに殺すことのできる縁が
ないから、一人も殺さないだけなのである。

自分の心が善いから殺さないわけではない。
また、殺すつもりがなくても、百人あるいは
千人の人を殺すこともあるだろう 」

仰せになったのです。



 ここで親鸞のいう自分の思いとおりに殺す縁がある状態とは、例えば戦争中と置き換えることができますし、縁がないから殺せないというのは、平時においては殺人罪で捕まってしまう状況と読み替えることができます。

 自分の心が善いから殺さないわけではないというのは、まさに善人だから、悪人だから云々で善悪は決定できないという根本的な洞察だと思います。

このことはわたしどもが、自分の心が善いのは
往生のためによいことであり、自分の心が
悪いのは往生のために悪いことであると勝手に
考え、本願の不可思議なはたらきによって
お救いいただくということを知らないでいることに
ついて、仰せになったのであります。

浄土真宗聖典 歎異抄 現代語版
(平成10年発刊 本願寺出版社・11年3月第3刷)



 世の中の善悪はすべて相対的であると親鸞は喝破したわけです。

 良禅と慈円が親鸞を「それは、とほうもなく危うい考え方だ」とおののいたのも分かります。

 これはキリスト教世界におけるニーチェのような危険性と言えるでしょう。




 この善悪を超えた世界、善悪の彼岸についてもう少し掘り下げてみます。


 続く

『親鸞』読書メモ6 諦観の中の能動性

 親鸞の危険な思想はこのようにとても穏やかに語られます。たとえ話こそ大量殺人ですが、言っていることは落ち着いた諦念に満ちています。しかしその諦観は決して無気力なそれではなく、不思議と能動的に感じられるのはとても不思議です。

 そのことを吉本隆明氏はこういっています。


 人間は、必然の〈契機〉があれば、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、〈契機〉がなければ、たとえ意思しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だといって云るのだ。

 それならば、親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)とは、どんな構造を持つものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。

 もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意思して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけられた恣意の別名にすぎないからだ。

 真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかにすべがなかったという〈不可避〉的なものからしかやってこない。

 一見するとこの考え方は、受け身にしかすぎないとみえるかもしれない。しかし、人が勝手に選択できるようにみえるのは、ただかれが観念的に行為しているときだけだ。ほんとうに観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ〈不可避〉の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。

 そしてこの道を辛うじてたどるのである。このことを洞察しえたところに、親鸞の〈契機〉(「業縁」)は成立しているようにみえる。

吉本隆明『最後の親鸞』



 世界はただ〈不可避〉の一本道であり、私はこの道を辛うじてたどる

 字面だけみてこの言葉が決定論に思えてしまうとしたら、それは現代社会に生きる私たちが本当の「自由」ということを間違ってとらえてしまっているからでしょう。




 親鸞は目の前の救い難い現実を前にしてこのように言います。

 この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、
気の毒だと思っても、思いのままに救うことはで
きないのだから、このような慈悲は完全なものでは
ありません。

ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した
大いなる慈悲の心なのです。
 
 このように聖人は仰せになりました。

浄土真宗聖典 歎異抄現代語訳 本願寺出版社



 これは悪人として生まれた社会的制約、善人として生まれた社会的制約を思い起こすと理解が容易になるでしょう。

 法然は善人の悪を見捨てることができなかった。慈円は旧仏教の悪を見捨てることができなかった。その二つの意味では親鸞は自由でした。天皇にお目通りもできない下級貴族の生まれであったために貴族社会を捨てることが可能でしたし、将来を嘱望されたとはいえ慈円のように摂関家から送り込まれた天台のエースでもなかった。

 しかし、戦乱や天災で生き地獄を生きざるを得ない衆生とじかに向き合う自由はあっても、その者たちを今この場所で奇跡を起こして一気に救うという自由はなかったのでした。

 それが先ほどの「この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。」という諦観であり、「ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです」という自由な能動性に結びつくわけです。


 とはいえ、これが押しつけられた決定論的「受動性」ではないにしても能動性とまでいうのは言い過ぎではないかと思われる方もいるかもしれません。



 次回はこの能動性を往還の考えからみてみたいと思います。



 続く…
ゆっきー
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