五木寛之『親鸞』を読む

五木寛之『親鸞』読書メモ

親鸞(上) (講談社文庫)/講談社
馬糞の辻で行われる競べ牛を見に行った幼き日の親鸞。怪牛に突き殺されそうになった彼は、浄寛と名乗る河原の聖に助けられる。それ以後、彼はツブテの弥七や法螺房弁才などの河原者たちの暮らしに惹かれていく。「わたしには『放埒の血』が流れているのか?」その畏れを秘めながら、少年は比叡山へ向かう。







親鸞(下) (講談社文庫)/講談社
親鸞は比叡山での命がけの修行にも悟りを得られず、六角堂へ百日参籠を決意する。そこで待っていたのは美しい謎の女人、紫野との出会いだった。彼が全てを捨て山をおりる決意をした頃、都には陰謀と弾圧の嵐が吹き荒れていた。そして親鸞の命を狙う黒面法師。法然とともに流罪となった彼は越後へ旅立つ。








 親鸞の悪人正機はとても関心があるのだけど、実は『教行信証』も『歎異抄』も読んだことがなかった。吉本隆明『最後の親鸞』に引用されてるものを読んだだけだった。

 主著の『教行信証』はまたいつか読むとして、光文社古典新薬文庫で現代大阪弁訳(笑)の『歎異抄』をめくりつつ、五木寛之『親鸞』を読んでる。



 五木寛之『親鸞』(上)(下)では修行時代のまだ親鸞を名乗る前の修行時代のことがメインだ(五木親鸞シリーズは「激動編」「完結編」と三部作)。



 修行時代に法然から何を受け継いだかが丁寧に活写されててとても面白かった。

 その辺りを少し何か書き残しておきたくなった。



 続く…
 

『親鸞』読書メモ1「悪人正機」の系譜

 さてでは、何回かに分けて読書メモを書きたいと思います。




 仏教を学んでらっしゃる方には何を今更、とお叱りを受けそうですが、私は「悪人正機」というのは親鸞が初めて考えついた独創的概念かと思っていましたが、それは違うようでした。

『親鸞』(上)冒頭付近「闇に生きる人々」では、忠範(親鸞の幼少の名)が夜中に弟たちを寝かしつけた後庭先の向こうから今様をうたう男女の声が聞こえてきます。




 弥陀の誓いぞ頼もしき
 十悪五逆の人なれど
 ひとたび御名(みな)をとなうれば
 来迎(らいごう)引接(いんじょう)うたがわず






 十悪五逆の人(悪人)でも来迎(らいごう)引接(いんじょう)(正機)する。




(上)の後半「黒面法師の影」では、同じ今様が後白河法皇が催した下人悪人大歓迎の大法会で大唱和されます。この時後白河法皇は群衆からは見えないところで狼藉者に殺されかかっているという緊迫した場面です。


 五人が十人、十人が百人、と歌声はふくれあがっていく。やがて歌声は暁の空を揺るがす大合唱となった。犬丸もうたっている。サヨも声をあわせてうたう。広場にあつまった非人、河原者、山僧、武者、百姓や、町衆まで、すべての者たちが頬をそめてうたっている。

 法勝寺の大伽藍が揺らぐほどの歌声だった。地鳴りとも、雷鳴とも思われるその歌声に、法皇も喉に刃をあてられたまま和してうたいだした。くり返し、くり返し、その歌はつづく。

 弥陀の誓いぞ頼もしき
 十悪五逆の人なれど
 ひとたび御名をとなうれば
 来迎引接うたがわず



 舞台に立つ範宴(親鸞の出家した頃の法名)の目に光るものがあふれ、頬につたうのを犬丸は見た。犬丸も胸が燃え出しそうな気持ちだった。こんな気持ちになったことは、これまでに一度もなかった。

 この広場に集ったひとびとのすべてが、自分の家族のように思われた。




 なんとも言えない名場面です。

 五木寛之さんはここで、それこそ実物の悪人たちが大合唱するのを聞いた親鸞が涙したと書いています。


 ここからも分かるように悪人正機とは仏典を教理として極め尽くした大僧正の頭から出てきた概念ではなく、「生きても地獄死んでも地獄」の悪人たちの心の声だったのでした。




 こうした原体験を親鸞は心に刻み、やがて将来を嘱望された名門延暦寺を勝手に下山してしまいます。念仏を唱えれば極楽に往生できるという、当時としてはとんでもない異端の仏説をとく法然の下で修行するためです。


 延暦寺の大秀才と言われながらも山を下り、悪人たちにも分け隔てなく一切念仏を説く法然に仕える中、親鸞は自分の原体験がいったい何であったのかを、じっくりじっくり確認していくことになります。



続く…

『親鸞』読書メモ2親鸞の師法然

 親鸞は法然に仕えるようになりますが、妻の恵信は親鸞に言います。

「(法然様は)世間のもっとも低いところに暮らしている人びとにむけて念仏を説かれる一方で、九条家をはじめとする身分の高い貴族や、高位高官のかたがたにも、決して背をむけようとはなさらない。わたしは最初、それが不思議でならなかったのです」


 親鸞は妻に頷いて、仏教の開祖釈尊その人が、盗人や遊女世間で卑しまれている人びととも家族のように接しながらも国王や貴族、商人や富豪にもこだわりなく自分の信念を説いたことを思いおこします。

 しかしそうは思っても、やはり親鸞自身の中にもなぜ法然が旧仏教と全面的に対立することを避け、支配階級ともうまくやっていこうとするのかその真意は図り兼ねていました。



 親鸞の妻が感じたこの法然の態度は、後に法然最古参の弟子である信空によって直裁に語られることとなります。

 入門してまだ四年ほどの親鸞が、何十年仕えている高弟でさえ許されるものが稀だった法然の『選択本願念仏集』の写経を許されることとなり、同席した信空は法然に訊ねられて法然の心を親鸞の前で推量します。

「あなたさまは、天台のお山をおりられたが、けっしてお山を去られたかたではない。こうしてちまたに念仏を説かれていても、やはりお山の子なのではありますまいか。家をつぐ子もいる。家を出る子もいる。お上人さまはあたらしい仏の道を求めて、家出をなされた。そして家風とは異なった教えを説かれてはいるが、どこかに生家のきずなを引きずっておられるのでしょう。」




 ここからは、五木寛之さんの小説を読んだ私の感想になります。

 悪人には悪人に生まれたが故の苦しみがあります。今現在極悪人として生きている者たちも、もし貴族の家に生まれていてば盗みや殺しなどはしないでも生きられた。そういう生まれながらの社会的環境の絶対性(『マチウ書試論』で吉本隆明のいう「関係の絶対性」)が、今の悪人を作り出している。

 悪人は善人に比べて圧倒的に不利な、社会的に規定された外部的要因を背負って行きているわけです。
 それゆえにこそ親鸞は「悪人正機」を説くのです。

 生まれが良かったばかりに悪事に手を染めることを強要されなかった、恵まれた存在である善人が往生するのであるからして、生きて行く上での障害のより大きな悪人が自分の運命に苦しんで頑張って生きているにもかかわらず、彼らが往生できぬわけがない。


 このように考えれば悪人が成仏するなんてもっての外、という考え方はいったん退けることができるでしょう。いったんというのは、そうした外部的な要因に甘えてしまって悪事を行うことに開き直ってしまった悪人はどうなるか、という問題はいぜんとしてあるからです。

 しかし、この自分ではどうしようもない環境という視点を導入することで見えてくるものも大きいと思います。


 私は、法然には生まれが良かったゆえの苦しみはなかったのだろうか、と考えました。

 生まれが悪かった故の苦しみは分かりやすいです。しかし、この世の定め、世間のルールにがんじがらめになった地位ある人のその生まれゆえの不自由さという不幸もあると思うのです。

 法然は一切を捨てずに、そうした社会的責任を捨てることが叶わず今ある自分の社会的環境を、悪人と同じように背負って行かねばならない善人たちの苦しみをも見放さないでいた、と言えないでしょうか。



 現代社会を生きる善人にもどうしようもない逃れられない悪があります。例えば会社に強要されて不正や犯罪行為に手を染める、断れば会社を首になって家族が路頭に迷うなどの苦悩は想像のしすぎではなく、多分目に見えているよりもはるかに多く表社会に潜んでいると思います。

 自分が誰かをいじめないと、自分自身がいじめられる、そのために心ならずもいじめに加担してしまう子どもは、善人の社会の中での関係の絶対性に苦しんでしまいます。
(だんだん『地下鉄のない街』になっちゃいましたが(笑))


 法然の善と悪との両方に足を突っ込んだ生き方にはそうした苦悩がありそうに私は思いました。



 さて、親鸞は師匠のそうした態度から何を学んだのでしょうか。



 続く…

『親鸞』読書メモ3もう一人の「善人」

「善信(親鸞)はすでに吉永(法然一派の本拠地)の念仏をはみだしております」

 良禅の言葉に、慈円は眉をひそめた。

「それはどういうことだ」

「さあ」

 良禅は顎に手をあてて、考え込むように頭をかしげた。やがて顔をあげると、まっすぐ慈円の目をみつめた。

「善信は、師の法然がひそかに心に抱いていながらも、みずからは声高には説かぬことをあえて語っておるのではございますまいか」

「話がようわからぬ」

五木寛之『親鸞』




 慈円はあの『愚管抄』の人。

 松岡正剛さんの目から鱗の卓抜な解説によるとこんな人です。

 慈円は1歳で母を亡くし、10歳で父を失い、13歳で出家した。20歳で大原に隠棲して天台法華を学び、翌年には比叡の無動寺に入って千日入堂をはたした。

 こういえば、いっぱしの仏道修行に励んだかのようだが、いや、実際にはそのような覚悟のある人物だったとおもわれるのだが、周囲の目がそうさせなかった。16歳ではやくも一身阿闍梨の称号を許され、いきなり法眼の位を与えられた。

 仏門や遁世を嫌ったのではない。慈円は25歳で比叡を下り、兄の九条兼実のもとに赴いて「遁世したい」ということを申し出るのだが、兼実に思い止まるように説得されてしまっている。隠棲への思いはあったのに、名門の出自を捨てるには至らなかったのだ。そればかりか、結局は<比叡山延暦寺の中央に摂関家から送りこまれた管理者のエースとしての役割を負わされた。




 この人もまた、社会的責任を捨てることが叶わず今ある自分の社会的環境を、悪人と同じように背負って行かねばならない善人たちの苦しみドアを負う人であった。


 吉川英治バージョンの『親鸞』ですと、この慈円と親鸞はもっと直接交流がたくさんあるのですが、五木寛之『親鸞』では終始すれ違いです。
 いずれにしても、慈円からすると天台改革の優秀な手駒として働かせたかった親鸞は、その期待には応えなかったということは言えるでしょう。

 さてでは、慈円の手駒の良禅がいう「師の法然がひそかに心に抱いていながらも、みずからは声高には説かぬこと」とは何だったのでしょう。



 次回それをみてみましょう。


 続く…
ゆっきー
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