ホリスティックス

「破」( 3 / 5 )

○月○日 木 最高気温29 イ農村

 やや涼しいのだが,雨模様。畑には誰もいない。農家の名残のある家々に、洗濯物を干す人もいない。全然達成感なし。十時半。



○月○日 金 最高気温33 ロ住宅

 ゴミ収集日ということで、角々に人の姿がまだある。

 中年の奥さんが雑草の入ったゴミ袋を置きに来たので、ためらわず近づいた。


 おはようございます、暑くなりそうですね、と通りすがりの人のように軽く話しかけた。奥さんの反射的な反応からすると、人なつこいなと思って、チラシをさっと手渡した。無料ツボ押しをさせてもらってるんです、とボクはニコニコした。


 奥さんは目を落として、あら馬場さんとこね、と良い反応だ。


「で、腕はどうなの」

「修行中ですが、経験は十分ですよ」

「結局、お宅に診察に行け、って目的でしょ」

「まあそれもありですが、それはご自由ですから」


 そんなことを言いながら、歩き出した奥さんにくっついていく。お宅はすぐそこだ。門のところでボクは立ち止まり、奥さんの顔を見た。

 手の平をひらっと振ってついて来るように合図された。ラッキー。

ボクは楽しい気分になった。

 無料、というのがやはり好まれるのだ。ボクもその方が気楽だし。


 少し芝生があり全体的に手入れの行き届いた感じの良いお庭である。縁側のガラス戸を開けて、奥さんはボクに脊を向けて正座した。何かしろ、ということらしい。


「四十肩っていうのかしらん、痛くてね」

 内心、これは困った、と思った。すぐには直せない。ちょっと、と言いながらウェットティッシュを取り出し、ゆっくりと両手を拭う。奥さんは横目で見ている。


 肩甲骨をまず触る、失礼します,と言う。大分いびつである。

 背筋が大分歪んでいる、年齢相応ともいえる。座っている骨盤が、どうも傾いでいる、よくあることだ。


 肝心の四十肩は関節を動かすにしかず、というほどの施療しかなかったのだが、最近テレビでボクは見たのだ。

 西洋医学の医者が仕組みを説明し、解消法を実演していた。勿論実証済みである。ボクも環境のせいか、こんなことはすぐに頭に入れることができる。


 肩甲骨の背後に小さな筋肉があり、それが肩関節と接続して動かしている。そこが老化で弱まると、関節の動きが異常になり神経を挟んでしまう。

 運が悪いととんでもなく痛い。しかもその筋肉を鍛えるのが難しい。ゴムバンドなど使う方法もあるが,最も簡単で毎日できるので効果的な運動がある。


 まず、指2本で左右の肩口を、つまり袖の上の付根を、軽くつまむ。これが重要であって、あとは鋭角に曲がっている肘を大きく、肩甲骨ごとぐるぐる回す。予防にもなる。

 ボクは秘かに頷いて、まずは奥さんの頭皮をあちこち動かした。

 マッサージではない。親父がボクの頭に日々施してくれた。実に気持がよくリラックスできる。

 首筋を、例によりほぐす。みんなここが凝っている。重たい頭を無理に働かせているからだ。

 背骨に添って押しながら、固い部分をほぐす、これは腰から来ているな,と思う。


「破」( 4 / 5 )

 腰に無理がかかるのは骨盤が傾いているからだ。それが問題なのだよな。

 これは寝てもらわないとなあ。


「背骨が歪んでいてですね、骨盤もちょっとね。今少し凝りをほぐしてから、肩にいきますから」

 凝りをほぐすとは血行を良くすることだが,これだけではまだ足りない、リンパ液も活発にしなくてはならないのだが、今日はそのことを告げるに留めておこう。 奥さんはなるほど、とすぐに納得する。


 そこで四十肩の小さな筋肉を鍛える動きを教える。なんのこともない。もっとも肩口をそうしてつまむことも痛みが妨げる。奥さんはそれに耐えて頑張って数回ずつ肩を回した。


「暇を見て、回してみるときっと痛みがとれてくるはずです。でも余り一生懸命しないで下さいよ。過ぎたるはなんとかってね」


 立ち上がって、肘を回していた奥さんは、少し声をひそめて言った。

「あのね、また寄ってくださる?」

「火曜日に寄りましょうか」

「お願いします。あ、ちょっと待って」

 奥さんは冷たいプラムをひとつ呉れた。ボクは深々と一礼して立ち去った。12時。




○月○日 土最高気温33 ハ小売店

 少し遅めに家を出た。お袋が弁当を作るのを止めた。この暑さでは止めた方がいいかも、と言って。

 お袋はがんと頭を殴られたように動きを止めた。やっぱり、何も言わないけどおれって心配かけてんだよなあ。


 申し訳ない気がして、いや、実はこれまで申し訳ない、とかあまり考えが至らなかったのだ、「いつもごめんな、コンビニ弁当買うから」と、付け加えた。


 うちわをぱたぱたさせていた何でも屋のご主人が、自分から呼びかけて来た。自分から人に寄って行くのは勇気がいるが、呼ばれたら素直に相手ができる。


 たちどころに三人の凝りをほぐした。そこの奥さんと、魚屋さんのご夫婦と。

 それぞれの匂いのする老年の肩を最後にすっすっと撫でて終わる。


 いやあ、今日はよく働いた。それにしても只、という効果は凄い。それに自分もけっこう上手いからなあ、と自画自賛も少し。


 しかし、と歩きながら考えた。これで生活して行くのは簡単ではない。お袋は今でも清掃会社のスタッフだ。これでボクさえ自分の分を稼げばなあ、只じゃあなあ。

 ま、いい。今のところは引き蘢りを脱することに集中。

 ボクはだらしなかっただけだ。

 現実の生活のいろいろなことを体験して、脳に刺激を与える、ゲームの世界は刺激的だったけど、生身の人間や社会の情報がボクには完璧欠けてしまった。これからは自分の意思を働かせて、自分を制御して行くのだ。


 決意だけはある。十二時半、公園の木陰でコンビニ冷麺。

「破」( 5 / 5 )

○月○日 月 最高気温27 イ農家

 もう時には秋風が吹く。日誌は途切れている。


 最初の一週間を真面目にこなした後で、まあ無理も無いけどどっと疲れて、ショック状態だった。暑さも暑し。しかしあの一週間をこなした、ということはハードルを上げることになった。


 このふた月は、籠っていたのではなく、午後をパートに使っていたのだ。

 週に三日、夜にかけてのうどん屋勤務だった。

 注文はアイパッドを使って間違いも起こらず、ボクはこの手のことは勘が働くし、丼洗いも綺麗好きなので問題無し。


 接客は、余りにうやうやしくて、へりくだった感じがちょっといやだった。

 そのうち、お客さんひとりひとりの良いところを引き出すのが接客だと気付いた。こちらが心を開けばただの店員と客ではなくなる。

 数秒のコンタクトでも楽しめるし、親しい感情を抱く、笑顔と率直さがうまくミックスするとわかった。


 しかし、あの引き蘢り状態、億劫さ、他人への恐怖、自信の無さ、無力感、逃避、何だったのだろう。明日への圧倒的な絶望。


 待てよ、そんな心理は要因じゃないとわかったんだ。


 放送大学で何気なく見始めた認知脳神経学講座で、心理はむしろ脳神経の不具合の結果の症状だと悟ったのだ。

 結果だけをみて変えようとしてもなかなかうまくいかない。


 かと言って、脳の仕組みはなかなか解明が難しいので、こうしろという案があるわけではない。ただ、わかっているのは脳神経は可塑性があり訓練できるということだ。

 少しずつ何度も試せば、出来ないと思っていたたとえば外出機能も強化されて来るのだ。


 「自分の大脳皮質にコントロールと回復の仕事をさせるんだ」という、感情に巻き込まれない認識が得られたことが大きな一歩であった。

 認知行動療法とこの内的な発見がボクを引揚げてくれた、あのメタメタな生活から。


「急」( 1 / 3 )

「急」 


 「馬場さん」


 その声は昭の心を浮き立たす。満面の笑みが湧いてくるままに振り返り、いつまでも眺めていたい顔を見つける。

 じっと目を話さない。梨絵も視線をはずさない。


 住宅地域で最初に昭を使ってくれた山市さんの娘である。


 梨絵の兄、時人があれから昭と接触し、今も治療中である。同じひきこもり状態であった。昭のようにゲームに引き込まれたのではなく、勉学に打ち込み過ぎ将来を考えすぎ、悲観して対人恐怖になったということだった。


 「症状はいろいろ出ますけどね,ボクもよくわかります、どうしてこんなに自分は、とか訳分からないでしょう。ちょっと頭の配線が偏ったんじゃないですか、絶対治りますよ,自己治癒力を確信してくださいよ」


 昭は、相手のいつ髪を洗ったかわからない悪臭を気にせず、その肩に触れた。

 まずはストレッチだな、と思った。つぎは深呼吸だ。そしてマッサージとリンパ節プラスツボ押しだ。


「ボクに任せてください、できるだけ頭はシャットアウトです」

 一時間も施療すると、時人が、お風呂にはいろうかな、と呟いた。山市のお母さんは狂喜した。


 一進一退の日々が続いたが,肝心なのはそれに心を惑わされないことである。誰かがそう忠告してくれると、ついはまり込んでいた絶望から脱出できる。


 昭の両親は、口うるさくなかった。それをいいことにふとゲームに陥り怠惰に沈んだのだったが、時人の場合、万全の教育体制がしかれ、素直な時人がそのレールを問題なく進んだ時、ふと親も知らなかった現実が立ちはだかっていたのだ。

 研究職に残る厳しさであった。彼がそこでひるんでしまったのは、性格やこれまで余りに庇護されてきたことからくるストレス耐性の弱さであったろう。

 時人は自分を全否定してしまった。



 すぐに、何か明るい色が山市家に存在するのに昭は気付いた。

 時人の妹、梨絵の服や笑い声、そして時々挨拶する目と歯の輝きであった。

 最初はその一瞬だけで、目が合わないようにしていた。じっと見詰めていても合いそうになるとさっとそらしたものだ。


 そのうちに、時人は馬場治療院に通うことになった。梨絵がついて来た。


 その時,昭と梨絵はこころゆくまで瞳を見詰め合った。はずれてもすぐにすがるように戻った、たがいの瞳の中に。


「薬はお医者さんにもらってるんですね」

 院長である昭の父が、横たわった背中を押しながらたずねた。時人が頷く。


東天
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