昭の勉強は日に日に進んだ。
頭が冴えるように心身共に施療しながら。
宣言した翌春には山梨の県立医大に合格した。
六年もかからずに卒業する予定だった。しかしそれからが本格的な学びと実践なのだ。
こんな昭をそばで見ていた梨絵も、将来の職業を決めた。英語教師である。しかも日本人の幼児、小学生のための教師である。
日本人がとくにエルとアールの発音のせいで聞き取りができず、したがって発話に遅れをとるのは周知の事実であり、しかもすでに一歳にしてこの聞き分け能力は完成されると言う。絶対的なハンディキャップである。
しかし、条件が整えばなんとかかなりの程度まで克服できるのも実情だった。
脳には可塑性があるのでやり方によっては希望がある。しかし問題は、そのやり方、であり、正しい発音の出来る教師であった。もちろんネイティヴをそれに当てることは必要だ。そしてもう少し、日本人向けの教材が欲しいところだ。これも差し迫った必要性である。
梨絵はそんな教材の開発者になることを目ざした。そのために自身ができるだけ完璧な知識と能力を獲得しなければならない。
世界で引目を感じずに英語で渡り合える、そんな人材をたくさん作ろう、英会話は基礎に過ぎないが,それ以上の考え方の変革を伴うかもしれない。
「でもね、あたしナショナリストじゃないから。祖国のために、とか願っているわけじゃなくて、ここにハンディを背負った集団がいるから。世界の平等に貢献するだけよ」
「うん、いいね、爽やかな立場だよ。ボクも負けないようにしなくちゃ」
二人は微笑み合った。 昭は、梨絵がもはやのんびりと学生生活を楽しむ方向にはいないことを誇らしく思った。
婚約をし、愛し合ってはいたけれども、それに依存している暇はなく、お互いの生き方故に尊敬もし合っている二人は、ためらいもなく前進した。
傍らに恋人はいないが、居るも同然なのは携帯電話やスカイプのおかげであった。
時に二人きりになれる時は、一瞬も離れなかった。そこには経済的にも援助してくれる両親の理解があった。
「りえこ、あれ、少し肥った?」
信州から昭が言った。
「うん、、、そうなんだけど」
梨絵はボストンから言った。
「そうじゃないの?」
「そうよ、ただ、ただね。あたし悪阻らしいの。それで気持悪くて浮腫んでしまった」
「ええっ、つわり、って、つまり妊娠したの? だ、だってちゃんと避妊したよ」
「わかってる。でも授かっちゃった」
梨絵は笑った。何故か授かる、と言ってしまって可笑しかった。
「授かってしまったの! そうなのか! ボクらの意思とは関係なくやってきたのか!」
「そうよ、素敵でしょ。私達の赤ちゃんよ」
梨絵はいわゆるシングルマザーであることに何ら不安を持たなかった。普通に見かけることだった。ここで産むつもりだ、と平気な声で言った。母には来てもらうかも。
梨絵の父は亡くなっているので、留学のために必要なお金は遺産でまかなえていた。勿論母親は喜んで援助をしてくれる。
実際には、やはり昭が分娩に付き添うことが出来た。医学生であり、理解している事柄ではあったが、梨絵が痛がるのにはショックを受けた。
骨盤がみしみしと開いて変形して行くのだ。梨絵自身も「あんまりだわ」と思った。そうして子宮口がやっと開き切ってからの、分娩の姿勢といい、息むうなり声といい、医者や看護師がともにはげます掛け声など、修羅と喧噪の場である。
嬰児にとっても恐らくストレスそのものであろう。突然明かりの真ん中に引き出され、肺胞が一瞬で膨らむ、命のプログラムであった。
深い息をついている梨絵の頭を昭は包み込み励まし讃えた。そして新生児が連れて来られた。もう叫んではいない。特殊な静謐な状態にあった。
初めて見る外の世界の光と陰を瞳を動かして追っている。その目はつやつやと濡れていた。
そのとき、両親の脳からオキシトシン産出の命令が溢れ出た。
二人は本能的にこれによってこの子を守り育てるのだ。
黒い無心の瞳は神の瞳のようだった。
「再びの序」
人類という集団が、いつの時代も自動的に大きな都市をつくりあげ、自然を食いつくし、森を破壊し、植民地を探し,人と自然を搾取し、宗教故に戦争が止まらず、地球を破壊する道を辿っている。
そんな人間の心は、脳の各部の連係により意識化される。あるいは無意識と関連し合って現れる。
電流が走り回り、化学物質が放出され、あらゆる反応が同時的に進行し、体からの情報が一斉に雪崩れ込み、同時に記憶が出し入れされる。
こんな脳の認知活動の解明は進んでいるのだが、こんな風な存在としての我々の命とは何であり、何のためにあるのか、それは永遠のテーマである。
昭が思うに命は細胞同士がエネルギーを交換し結びついている状態、即ちエネルギーの場である。医学の知識で細菌を叩いたとしても、その後の回復は自己治癒力のエネルギーに頼っている。
今や癌や自己免疫病など不治の病のみが残るであろう。
自己治癒力という命のエネルギーを高める医療が必要とされるはずだ。
昭のために、未知の未検証の分野が残されている。ひとつの結びつきとして関連し合う心身の仕組みを科学するという。
了