「序」
「そんなこと言われてもなあ」
目の前の白い驟雨をぼやけてくるまで注視しながら、昭は肩からずり落ちそうになっているビニール鞄を無意識にかけなおした。白シャツの袖がずりあがって、露わになった肌に涼しさがあった。
雨がまもなく小降りになる気配を感じたらしい野良猫が足元からすっと雨脚の中へ出て行った。向かいの門をくぐっていく。するととりわけ小さく見える雀も一羽、隣りの屋根に飛んで来て、猫を見下ろしているらしくひと声鳴いた。
そんな驟雨の朝だったが、一回りして、公園の木陰で休憩する頃には太陽が照りつけていた。真上にあるので陰は小さく濃い。
引き蘢りを三年近く続けていた昭が、カウンセリングひとつと数冊の関連する本を読んで、昼間も散歩できるまで回復した時、ツボ治療院を営んでいる親父が待ちかねたように言ったのだ。
「なあ、昭。散歩のついでにさ、このチラシをやな、庭や畑でゴソゴソしてるおじさんおばさんに渡してくれい。わざわざ探したり、ピンポンせずともいいからな、あ?」
その黄色いコピー用紙を見たのは休憩のときだ。
ろくに中味を知りもせず三人に配布した。
はあ? と言いながら得になるものかと思っているらしく受け取ってくれた。
多分、昭がきれいな歯並みを見せたからだろう。それ以外とりえはないのだが、と自分でも思う。
読んでみて驚いた。
親父の筆跡が大きく「地域の馬場ツボ治療院です! ツボ押しをお試しください、無料!!!」とやたらに叫んでいる。
確かに患者は少ない。谷川町には大通りがなく、この手の可能性としては、いずれも駐車場の無い楢橋骨折院と馬場ツボ治療院しか3ない。バスの便も悪く,整形外科や内科の医院には車が無いとなかなか辿り着けない。
さらに驚いたことには、その見出しの下には昭の戯画化した似顔絵と自己紹介文があった。文はパソコンで打ち、プリントしたのを貼付けたものらしい。
「僕は院長の息子の馬場昭というものです!! 二十四歳です。この度地域サービスの無料ツボ押しを始めました。
腕は鍛えてあり、そこそこなのでご安心を。
ちょっと気分よくなること請け合います。立ったままで庭先、畑でもやらせてください。
僕はおしゃべりは余り得意ではありませんが、どうぞお気軽におつきあいください!」
その下には、簡単な地図が描いてあり、もちろん手書きだが、区域をイロハに分けて、週二回は同じ地域をサービスして回るように通告している。
渡された鞄にはその他、ウエットティッシュが充分入っている。おにぎり、冷たいお茶。なるほど。
あんたの企みわかったって、と昭は泣きたい,笑いたい困ったという顔になる。
散歩できるようになったのを見て、あっという間にこんな道筋を考えたのだ。
笑うでも笑わないでもない、しかしすぐにも笑いそうな親父の真面目顔が浮かんだ。昭にはそれは不愉快ではない。で、この無料の仕事が愉快かと言うとそうでもないが、自分がやれそうなことではあった。
チラシをハイ、と渡し、相手がまた言葉をかけてくるのを待つ。
近頃流行の引き蘢り、一人っ子の昭にはしかとした原因はなかったと思う。
親父の伍郎も母親の咲子も昭を溺愛した。妙に自由放任主義だった。欲しがる玩具はできる限り買ってくれた。成績も余り気にせず市立高校で大満足だった。
県立女子大だったのが男子も入学できることとなり、昭はうまくそこに入って、独り住まいを始めた。
世の中には、親に操られ、塾通いなど必死にさせられて、自由になった途端に崩れてしまうという結果もあるが、昭の場合、それとは違う要因が重なったのだ。
今から思えば明らかだった。生活と体調を崩したのは外でもない、漫画よりパチンコより、生身の女よりずっと迫力のある、非常に面白過ぎる、現を忘れさせてしまうゲームの世界であった。これは心身を消耗させる。
また、自己制御というものを主体的にはもちろん、親からの強制ないしはしつけとしても昭は受けて来なかった。この二つが条件であった。
昭が思うに、愛も自由も能力も親から授かった点では父の伍郎と同じであったのだが、伍郎の時代にはゲームはなかった。
このひとつの違いが伍郎をリアルな世界の冒険家となした。
伍郎は第二団塊世代の頃の出生であった。好奇心にかられ、またそれを追究することを許され、結局小さな店舗に落ち着いたのだが、それとても自分の好奇心の結果であった。伍郎自身も、このように自分の人生を結論づけていた。そんな受け取り方がすでに伍郎の諦観かつ無欲の現れであった。
「破」
昭は字を書くことを厭わなかった。美しく気持の良い字を気持よく書いた。字の上手下手の原因は多々あろうが、脳からの影響もなお不明ながらあるはずである。
ゆっくりと線を楽しみながら書く、大学の講義を素早く書き写すのには適していなかったが、あわてずあせらず、頭の中に響きとして残る声を書き出していって、結局書き残しは余り生じなかった。昭が講義に出席したら、の話であるが。
○月○日 月 最高気温32℃ イ地区
一枚、トマト畑の夫婦に「読んでみて下さあい、宗教じゃありません」とニコニコして渡す。眼を細めて読む努力、とみえた。
一枚、縁側にこしかける媼にゆっくり歩み寄りつつ、「おはようございます。暑くなりそ7うですね。指圧の宣伝なんですが、一枚よろしいですか」 自動的に受け取りながら小首を傾げている。
ほんのときたま、風が吹くと汗が気化して助かる。気楽に気楽に、遊び半分でやろう。
○月○日 火 最高気温33℃ ロ地区
二枚、古くからある住宅地。老夫婦だけが残っている典型。シンとしている。
角で立ち話の中年婦人二人、明るく挨拶して、出張指圧のお知らせ差し上げていいですか?と、母親が教えたように付け加える。
肩こり、あるわねえ。 そうねえ、更年期だもの、フフ、と笑い合っている。仲良しらしい。
あなたがやるの? 若いわねえ。 ええ、親父がやってるんですが,ボクも本腰いれようかなと。
二人が読み始めているので、金曜日にまた通りかかりますよ。少し逃げ腰になっていたかな。
その後誰にも会わない。
○月○日 水 最高気温33℃ ハ地区
ゼロ ジリ貧という予感。
この地区はスーパーあがり屋の回りに駐車場、空き地、また駐車場とやたらに広々している。しかし裏手の路地はかなり雑多で、老夫婦の何でも屋、理髪屋美容院、珍しいことに魚屋なんてものも。何でも屋には地場産の採れたて野菜も並んでいる。安いのだろうな、この値段では。
ボクはこれまで縁が無かったので、何となく気弱になって通り過ぎて行く。
三枚。元来た道を帰る。幸運にも何でも屋の前に人影があるので、おはようございまあす、暑くなりそうですね、と話しかける。
がんこそうな目つきの翁、らっしゃい。
何か買わなきゃ、という雰囲気になり、トマトを二個、時間をかけて選ぶ。
そうだ修正リボンと思い出したのが嬉しくそれも手に取る。そこで、おもむろに「ご主人、出前で指圧をしているんですが」とチラシを差し出す。
翁はお金を期待していたのだろう、出した手を引っ込めるわけにいかず、ボクのチラシを受け取った。
「ああ、あの馬場治療院の人かい」
「あ、ご存知でしたか。息子なんですよ。修行のために無料でここで指圧させて頂きますが」
するとお客のひとりが、媼だが、「じゃ、ちょっとあたしの首を押してくれる?」ときた。ボクは飛び上がるようにして、「勿論ですとも」と若い声で言い、若い笑い声をあげた。
深い呼吸をして心を落ち着け、静かにそのよじれた脊を見た。
なんでも只がいい性格、という感じのタンバク質を余り摂取していない脊である。優しく肩を撫で、親指の腹で首筋の筋肉、というほども残っていないが、そこを優しく押した。
媼はへぇというよな音をたてた。息を吐いたのだ。ボクが押すごとにへぇと言い、みるみる血行がよくなったらしい。
「どうですか」「頭がすっきりしてきたわよ、へぇ へぇ」
「じゃ、俺にもやってみてくれるかい」と店の主人が興味を持った。
「いいですとも。ちょっと待って下さいな」ボクは急いでウェットティッシュを出して、両手を拭いた。
そして両手を振って乾かしながら、店主の顔を真正面から見詰める。かなり偏っているなと思って、首筋を立て直し、頭皮をセオリー通りに順番にほぐしていった。
「うぁ、気持いいなあ」
「そうでしょう、ここから凝っているんですよ」
こんな出会いが嬉しくてたまらなくなった。自分のすることがこの人をリラックスさせて行くのだ。頭蓋に添って顔の周囲のツボを押して行く。耳の後ろの頭蓋も押す。歯の蝶番を押す。顎の骨を押して行く。それで十分近くかかった。
店主ははっと我に返り、「おう、ありがとう。しゃっきりしたぜ」とボクの手を止めた。少し照れくさそうだ。
さっきの背の曲がった媼がにやにやしている。
「トマトはサービスだ、物々交換ってわけだ」
「いえいえ、そんなことしたら親父に叱られますって。そもそも無料なんですから」
さらに支払いはごたごたしたが、ここは先途とボクはきっちり支払った。彼の生活がかかっているのだから。
結局、もうひとりの男性客にもチラシの手渡し成功。こちらは逞しい体格で、肩こりとは縁遠いようだったが、何故が興味を持ったようにみえた。十一時。