別ブログで久しぶりにエッセイ
教養とコメントスパム を書いた。
古くからの読者の方(朋)にはウケてたのですが、少々ヤリ過ぎ(笑)の感もあったので補足的なことを別の切り口で書いておこうと思うのだった。
向こうのブログでの主張の部分を抜き出すとこんな感じになります。
- 「共感」というのは、そうでしかあり得なかったその人の人生や作品上の文脈上の必然性に心を動かされるのであって、それは辞書を引くようにその人に当てはまる喜びや苦悩の対応関係を探すことではないと思う。
教養フリークのいう教養を高めるというのは、芸術作品や他者の人生をもってして自分の人生上の教訓を無理に都合良く引き出すという下心を隠しつつ、たかだかその辞書的な語彙を増やすということに他ならず、その動機と認識は、収録語数の多い中辞典は小辞典に勝り、大辞典は中辞典に、百科全書は大辞典に勝るという理屈にあるとしか私にはみえない。
そして語彙が増えることで自分との接点が増えたような錯覚に酔うことができる人もいる。
そしてその時の「錯覚」とはいうまでもなく悪い意味での「共感」と同義だ。
ミステリ小説でも同じような問題が提起されてます。
"典型的な探偵小説マニア"は、読みながら推理などしない。彼らはこれまでの読書体験に基づいた、トリックを格納したデータベースを持っていて、それを検索するだけなのだ。
例えば、密室ミステリを読む時、「ドアのしたに隙間があった」という描写が出てくると、読者は、自分が過去に読んだミステリから、ドアの隙間を利用した密室トリックを検索する。「容疑者の一人がドアを破って入った」という描写が出てくると、この容疑者が犯人だった場合に可能な密室トリックを検索する。ーーーというのが"典型的な探偵小説マニア"の読み方なのだ。(p100)
飯城 勇三 『エラリー・クイーン論』論創社
要するに推理小説と言いながら、ここで求められるのは推理力ではなくして、単にデータベースの辞書量だということになります。ここでやはり、少ない語彙より多い語彙が要請されることになります。
飯城勇三氏はエラリークイーンのミステリ小説はこうした辞書量に左右されない、推理そのものの妙味を追求したものであり、「意外な結末」ではなく「意外な推理」を構築したものであるとしています。
借り物で無い読者の自分自身の推理力が必要なエラリークイーン、というわけです。
純文学でも探偵小説でも読書に作品そのものを読解するために必要なのは、辞書的なデータベースではない何かだとは思います。
じゃあ、いったいそれは何かということなのですが、それはまた別の機会に書こうかと思ってます。
一つ言えるのは、それは
読者の主体的な読書姿勢、みたいなものでは絶対ないということである。選んだように見えて実は選ばされた諸現実を前にして、果たしてそういう態度が可能かどうか答えは明らかだし、そんなのはもう一つの教養的読書に他ならないから。