アメブロ卒業日記(笑)

教養とコメントスパム

 コメントスパムの文章アップしたことがきっかけで、久しぶりにコメント欄で懐かしい方々とおしゃべりできて、ちょっぴり気持ちが上向きの私です。数ヶ月、一年喋ってなくてもすっとお互いの文脈が一瞬混じる瞬間は、私にとってブログのおつきあいならではの歓びです。

 朋あり遠方より来たるみたいな感じです。ありがとうございました。

 


 そんな歓びを感じながら愛読書を読み返してたら、こんなところに自分で引いた赤線を見つけた。

 マルクスは、こんなことを言っている(『経済学批判序説』)。

  ホメロスの叙事詩に『オデユツセイア』とか『イリアス』がありますね。

 ギリシア最古の詩人と言われるくらいですから、マルクスの生きた時代から見ても、かなり昔の ーーーおよそ二六OO 年ほど過去に遡った人ーーー ということになる。

 そんなに時が隔たっているのに、マルクスは、ホメロスの叙事詩を読んで感動してしまう。

  どうして今なお自分たちにとって、ホメロスは芸術的な快楽や喜びの源泉になるのか。

『オデユツセイア』とか『イリアス』のような作品は、特殊な歴史的文脈の中で書かれ、そうした文脈に深く規定されていることは間違いありません。

  その歴史的文脈とは、初期のギリシア社会です。
  そうした作品が、どうして、現在のわれわれに対しても訴求力を持つのでしょうか。
  これは不思議じゃないかと、マルクスは言うわけです。

大澤真幸『正義を考える』NHKブックス



 この答えとしてよくあり、かつ私が最も違和感を感じるのは「その人にはギリシャ古典文学の教養があるから」というものです。

 私は文学に限らずクラシック音楽であれ油絵であれおよそ古典と呼ばれるものの受容にいささかの「教養」が必要だとは思いませんし、それどころか教養が大事だという考えを持つ人をまったく信用してません。そういう人にはすごい抜き難い偏見を持ってるのです(爆)。

 偏見は深けれど理由は単純で、それは端的に、そういう人に限って「共感」ということをトンチンカンな風に信奉してるように見えるからです。




「オイディプス王」は、テパイの王様の話として読むからこそ感動するわけです。
  私の生活にはテパイの王様と似ているところなどありません。

「境遇がそっくりだ、よく考えてみると私も王様になる予定だ」などという人は一人もいない。
にもかかわらず、感動する。
『同書』



 では、教養を積んで王様のように精神的に高貴になったらその時こそオイディプス王に共感できるのでしょうか?それならば、人殺しにならないとハムレットには感動できないし、再びオイディプス王に戻るなら近親相姦してみないと彼の苦悩は分からないかもしれないという理屈になる。

 これはあきらかにトンチンカンに思える。





「共感」というのは、そうでしかあり得なかったその人の人生や作品上の文脈上の必然性に心を動かされるのであって、それは辞書を引くようにその人に当てはまる喜びや苦悩の対応関係を探すことではないと思う。

 教養フリークのいう教養を高めるというのは、芸術作品や他者の人生をもってして自分の人生上の教訓を無理に都合良く引き出すという下心を隠しつつ、たかだかその辞書的な語彙を増やすということに他ならず、その動機と認識は、収録語数の多い中辞典は小辞典に勝り、大辞典は中辞典に、百科全書は大辞典に勝るという理屈にあるとしか私にはみえない。

 そして語彙が増えることで自分との接点が増えたような錯覚に酔うことができる人もいる。

 そしてその時の「錯覚」とはいうまでもなく悪い意味での「共感」と同義だ。





 
 するとコメントスパムも同じに見えてくる。

 ツールを使ってあらゆる文脈と無縁なところから、強引に接点を探して(判で押したような文末のお互い更新頑張りましょう、という前向きな(嘆)文言などに如実)共感のための共感を装ってそれはやってくる。

 これは、ギリシャ悲劇やシェイクスピアを読む時に、どこに感動したら良いかを粗雑な解説書(これが彼らの教養書だ)でこっそり確かめながら、それを見つけた!と錯覚した瞬間、とりあえずその感動を表明しておくというのとそっくりに見える。そして、それをタネに自分のサイト(内面)に勝手にリンクをはる。

 そういう時、教養フリークは文学作品や哲学書、絵画や音楽に触れて「元気をもらいました。あしたからも頑張れそうです」ということを言うのだけど、それってコメントスパムの「更新頑張りましょう」とそっくりなので笑える。

 彼らの好きな夏目漱石やゲーテ、ゴッホやモーツアルトにはあきらかに、生きて行く元気をいったん根底からすっかり奪ってしまうようなひどい(=すばらしい)作品があるけど、そういう作品にも教養フリークは「元気をもらいました。あしたからも頑張れそうです」と目をキラキラさせて言ってる。

 そんな接点はそういう作品は断じて求めてない。



 幸せなことに、私が密かに訪問してるブログの中にもあきらかに生きて行く元気を根底から奪うような作用をするブログも少しある(爆)。そういう人は処世術からだと思われるが、めったにそういうエントリーを書いてくれないのだけど、そうじゃない記事でも空気でわかる。

 当たり前だが、そういうとてつもないブログに普通の意味での教養も共感もいらない…し、歯が立たない。

 というか、あまりの衝撃であわてて自分の手持ちの教養の助けを求めたくなったり、実は危ない部分で共感してしまう自分に慄いたりする良い(すばらしい)意味での共感はあるのだ。内容は別に「教養」溢れるものでなくても、お笑いだったりエロだったりする場合もある。しかしそれは遠いところで、オイディプス王やハムレットに感じるものと似てたりする。

 


「教養」や「コメントスパム」はそういう良い意味での共感を私たちからどんどん奪っていくんじゃないかな、と思える。

 そして多分ブログは急速に今後そういう方向にいくのだろうな、と、今朝もまた読者登録してるすばらしい小説ブログがコメントスパムで穢されているのを発見してしまった私は思うのであった。

 なぜなら、コメントスパムをする人が増えるのと同じく、コメントスパムをネチケットで(死語?)教養的に非難する人もまた増えこそすれ減りはしないだろうと思えるからである。
( u_u)



【関連記事】教養とデータベース読書


 

 

教養とデータベース読書

 別ブログで久しぶりにエッセイ教養とコメントスパム を書いた。

 古くからの読者の方(朋)にはウケてたのですが、少々ヤリ過ぎ(笑)の感もあったので補足的なことを別の切り口で書いておこうと思うのだった。





 向こうのブログでの主張の部分を抜き出すとこんな感じになります。

「共感」というのは、そうでしかあり得なかったその人の人生や作品上の文脈上の必然性に心を動かされるのであって、それは辞書を引くようにその人に当てはまる喜びや苦悩の対応関係を探すことではないと思う。

 教養フリークのいう教養を高めるというのは、芸術作品や他者の人生をもってして自分の人生上の教訓を無理に都合良く引き出すという下心を隠しつつ、たかだかその辞書的な語彙を増やすということに他ならず、その動機と認識は、収録語数の多い中辞典は小辞典に勝り、大辞典は中辞典に、百科全書は大辞典に勝るという理屈にあるとしか私にはみえない。

 そして語彙が増えることで自分との接点が増えたような錯覚に酔うことができる人もいる。

 そしてその時の「錯覚」とはいうまでもなく悪い意味での「共感」と同義だ。

 


 ミステリ小説でも同じような問題が提起されてます。



 "典型的な探偵小説マニア"は、読みながら推理などしない。彼らはこれまでの読書体験に基づいた、トリックを格納したデータベースを持っていて、それを検索するだけなのだ。
 例えば、密室ミステリを読む時、「ドアのしたに隙間があった」という描写が出てくると、読者は、自分が過去に読んだミステリから、ドアの隙間を利用した密室トリックを検索する。「容疑者の一人がドアを破って入った」という描写が出てくると、この容疑者が犯人だった場合に可能な密室トリックを検索する。ーーーというのが"典型的な探偵小説マニア"の読み方なのだ。(p100)

飯城 勇三 『エラリー・クイーン論』論創社









 要するに推理小説と言いながら、ここで求められるのは推理力ではなくして、単にデータベースの辞書量だということになります。ここでやはり、少ない語彙より多い語彙が要請されることになります。

 飯城勇三氏はエラリークイーンのミステリ小説はこうした辞書量に左右されない、推理そのものの妙味を追求したものであり、「意外な結末」ではなく「意外な推理」を構築したものであるとしています。

 借り物で無い読者の自分自身の推理力が必要なエラリークイーン、というわけです。

 

 純文学でも探偵小説でも読書に作品そのものを読解するために必要なのは、辞書的なデータベースではない何かだとは思います。

 じゃあ、いったいそれは何かということなのですが、それはまた別の機会に書こうかと思ってます。

 一つ言えるのは、それは読者の主体的な読書姿勢、みたいなものでは絶対ないということである。選んだように見えて実は選ばされた諸現実を前にして、果たしてそういう態度が可能かどうか答えは明らかだし、そんなのはもう一つの教養的読書に他ならないから。

桜の季節にさようなら(o^—^)ノ

 いつかこういう文章を書く日が来るだろうなと漠然と思ってましたが来ました( ̄ー ̄)



 自分の成長記録のようなこのブログを読み返してみて、いくつかの思い入れのある記事がありました。
 そして、最後に書いた「教養とコメントスパム」(あれを書いてる時は最後になると思ってなかったのですが、そういうものかもしれないなあとか今は思ってる)は、収穫とは少し違ってしまったものの、この四年間の私の結論かなと思いました。

 別ブログのご挨拶と一部重なりますが、ブログでしかできないこと、またブログでは難しいことなどいろいろなことをたくさん学ぶことができました。そしてそれらいいこともそうでないことも、これからしばらく自分の認識は変化しないだろうな、というのが閉鎖する理由です。つまり、言葉のやりとりを惰性でなんとなくは続けたくなかったのでした。


 
 多分リアルの世界では見かけないような、ヘンな(爆)女の子にお付き合いくださったみなさま、ありがとうございました(私もリアルではこんなにも正体さらしません(笑))。

 生きてく上で繰り返し思い出しては、少しづつ前に進めそうな、そんな思い出をありがとうございました(o'ー'o)ノ



 書きかけの小説はまたいつか全文を引き継ぐ形でどこかで再開するかもしれません。

 インターネットの海のどこかで見かけたら声をかけてくださいね!






 

 春を待ち まだ咲きもせず 桜花
 つぼみの中に 散るぞめでたき


(´▽`)
ゆっきー
アメブロ卒業日記(笑)
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