地下鉄のない街86 僕のせい?
「K君が変わったって、もう少し具体的に聞いていい?」
さっきと同じように先生は窓の桟にお尻をちょこんと乗せてコーヒーを啜る。
「あ、はい。・・・そうですね、やっぱり生き生きしたところがなくなりましたね。活発さ、明るさ、エネルギーがなくなったみたいな」
「K君は自分では何が変わったって?」
「前みたいに空気が読めなくなったって」
「それまではそうじゃなかった?」
「そうですね。空気を読むことに関してはKは天才的でしたね。相手に気を使うとかいうレベルじゃなくって、その一歩も二歩も先をいくような感じ。個別に一人一人なに考えてるか、どんな気持ちか正確に把握するだけじゃなくて、微妙に、というか絶妙にその場の全員の空気を調整できるんです。いやできたんです、Kは。完璧に」
「どんな時?」
先生は皆川君の熱心にしゃべる様子に相槌を打つ。
「例えば誰かクラスで委員を決める時とか、十個くらい委員を決めなくちゃいけない時なんか、みんな勝手なこと言い出して大変ですよね」
「そうね。あの委員は絶対嫌だとか、あいつと一緒ならやってもいいとかね」
「そうですね。そういう時Kが仕切るとごく短時間でさっと決まるんです。みんな気持ち良く何の後腐れもなく、最初は委員をやるなんて考えてもいなかったやつまで、気持ち良く引き受けたり・・・まるで最初からその委員に立候補したみたいに」
「へえ、それはすごい才能だわ。教師でも、いや普通の教師になんか絶対無理かも」
「ですよね、神業と言ってもいいんです。そういうのが…」
「なくなっちゃったんだ」
「はい。それで…」
「ん?それでどうしたの?」
皆川君はまた下を向いてしまった。そしてそれについて何か考えていたようだが大きく頭を何度も振った。
「やっぱり理解できません」
「どういうこと?」
「Kはそれが僕のせいだって、はっきりは言わなかったんですけど…」
「そう言いたそうだった?」
「はい」
皆川君はまた大きく一度頭を横に振った。
地下鉄のない街89 Mさんの言葉
「Kが事件を起こしてしまって学校は蜂の巣をつついたようになったわけですけど、そんな中で事件の裏にはKとMさんとの、なんていうか週刊誌的に言うと"男女のもつれ"みたいのがあったらしいって噂が広まりました」
「どっから噂になったんだろう…」
「どうやらKの日記帳か何かを見たKの親が、うちの息子をこんな風にさせたのはあの女子生徒だ、みたいに学校に訴えたらしいです。これも噂なんですけど」
「うん。まああり得る話かもね」
「どんなことが書いてあったのかしらね」
「わかりません。もしかしたら僕のことも書いてあったかもしれませんね」
ふぅっと春日井先生がため息をついた。
「ややこしい話になったわね。Mさんはどうなったの?」
「クラスでもその話で持ちきりで、教室にMさんが来ると授業にならないとかあって、Mさんはいわゆる保健室登校っていう形になりました」
「そっか」
「保健室の先生というのが、養護の先生でもあり、スクールカウンセラーの資格もあって、Mさんはそこで毎日カウンセリングを受けてたみたいです」
「Mさんに聞いたの?」
「はい。時々電話で話をしましたから」
「そう…」
「午前中カウンセリングがあって、それ以外は一応普通のクラスで当日行われている授業の内容について、課題みたいなのを提出するということみたいでした。空いた時間には静かに本でも読んでるっていう感じで」
「Mさんはどう思ってたんだろ」
「退屈だって言ってました」
「K君のことは?」
「悪いとはもちろん思うけど、K君の方でだんだん壊れて行ってしまったと言ってましたね。K君の方でも殴るまでいかなくても、多少暴力的なこともあったそうです」
「Mさんに?」
「そうらしいです」
「カウンセリングでちゃんと言ったのかしら」
「それが言わなかったらしいですよ」
「なぜ?」
皆川君は一瞬言い淀んだ。
「ん…どうしたの?」
「あ、すいません。保健室の先生は所詮学校の手先だから言いたくない…と」
春日井先生が右手を口元にもっていき苦笑した。
「そっか」
「いえ、すいません。先生は別ですけど、話を聞いて僕も憤慨しました。ちょうど警察の調書作るみたいな感じであらかじめ用意されてる、『あたしが悪かったです、反省してこれからはまっとうな学校生活送ります』みたいな反省文を書くのがカウンセリングみたいだったようなんです」
「なるほどね、ありそうな話だわ」
先生は外国映画にあるような、オーマイガーみたいな仕草をした。それを見て皆川君も少し笑った。
「皆川君は?枯葉になってたのね」
「はい。でもどこからか僕とMさんのことも噂になって、陰湿ないじめが続きました」
「そっか…。どんなことかは言わなくていいわよ。思い出したくないだろうから」
「はい…」
皆川君は下を向いて拳を握っていた。
「僕は卒業までそうしているのも僕の罰みたいなものだと思っていましたけど、うちの親とMさんの親が話し合って、この際本当の解決ではないかも知れないけど、お互い別々の学校でやり直した方がいいんじゃないかということになりました。」
「そっか、それでうちの高校に…」
「ええ、学校も申し出があったら渡りに船みたいな感じです。あれよあれよという間に転校が決まりました」
「そっか、じゃあ、Mさんとはちゃんと話しできなかったのかな」
「そうですね、もう二度と会わないと硬く相互の両親に約束させられましたから」
「そう…。じゃあそれっきり?」
「はい。最後に手紙もらいました」
「うん」
「こんな言葉が書いてありました」
皆川君へ
私は別の選択をするもう一人の私のために、
もう一人の私を生み出すために、
もう一人の私の人生のために、
転校を受け入れることにしました。
それを選択することはこれまでの私の否定であり、
これまでの私の「死」を意味します。
この私が私に死をもたらそうとすることで、
もう一人の私が誕生することでしょう。
この私は私を犠牲とすることで、
もう一人の私に新たな生をもたらすのです。
「正直よく分からなかったです。でも不思議と忘れられない言葉で、こうやって一字一句正確に覚えてしまいました。いつか多分、この言葉の本当の意味を正確に理解できる時が来るんだろうなって、そんな予感がするからです。その時僕はきっと…」
皆川君が言葉を飲み込んだ。
「先生!だいじょうぶですか、先生!」
春日井先生が真っ青な顔をして、そのまま皆川君の足元のベッドに崩れ落ちるようにして気を失った。
地下鉄のない街90 先生の秘密
「先生どうしたんですか、先生しっかりしてください」
慌ててベッドから起き上がった皆川君は、ベッドに崩れ落ちるようにうつ伏せになった春日井先生の背後に回って肩を抱いた。
倒れこんだ時のような顔の青さは徐々に退いて、表情には眠っているような穏やかな表情が現れた。それを確認した皆川君は先生の左脇のしたに手をくぐらせ、華奢な先生を抱くようにしてベッドの上に寝かせた。
ちょうどけが人の皆川君が、見舞いに来た先生を看るような格好になってしまった。
「先生、ナースコールしますからちょっと待ってくださいね」
ようやくホット一息つけたところで皆川君が眠ったままの先生に声をかけて枕元のボタンに手を延ばした。
「ごめん。もう大丈夫だから呼ばなくていいわ」
春日井先生が自分のひたいに手をやって、ふーぅっと深呼吸して言った。
「気がついたあ、よかった」
皆川君の安堵の声に応えるように、先生が起き上がろうとした。
「ちょっと待ってください。なんか逆になっちゃって変なんですけど、しばらくそうしていて下さい。先生は平気って言いましたけど、僕心配です」
先生は笑って首を振りながら状態を起こした。
「ごめんね、大丈夫なのよ。実はよくある発作なの」
発作という言葉に皆川君顔が曇る。
「どこかからだお悪いんですか」
「違うのよ、精神的なものなの。こういう発作みたいな症状なんだけど体の方が原因じゃないのよ」
「そう…ですか…」
精神的なもの…。もちろん皆川君も僕も知らないことだった。先生は少しためらった様子だったけれど、話し始めた。
「実はね、これは学校への書類の既往症欄にも申告してないんだけど、あたしはまだ学生の頃から精神科の医者にずっとかかってるの」
「え、あ…すみません」皆川君は驚いて声をあげた後慌てて謝った。
「いいのよ。生徒の体や心のケアする保健室の先生が精神科に通院してるなんて驚くわよね」
自嘲気味に言った春日井先生は体を完全に起こして、ベッドに腰掛けながら、足を床につけた。
「ごめんね、びっくりしたでしょ。さっきのMさんの言葉が引き金になったみたい」
「ごめんなさい、ぼく…」
「あ、ごめんなさい、そういう意味じゃないのよ。ちゃんと説明するわ」
先生は自分の横のベッドのスペースをポンポンと叩いた。
「座って。ごめんね、皆川君のベッド取っちゃって」
やっと先生らしい笑い顔に戻った様子をみた皆川君は、頷いて横に座った。
「じゃあ、もう一回あたしが話す番ね」
「はい」
皆川君は隣の先生の目を不安げに覗いた。
地下鉄のない街82 男らしさ
「Tは根が単純で分かりやすいやつでした。彼の考え方や行動の価値基準は一言でいうと"男らしさ"ってことに尽きるんです」
少しうんざり顔で皆川君はベッドの白いシーツをポンと叩いた。
「粗暴な不良の男らしさ…ね」
春日井先生も苦笑する。皆川君の気持ちがその一言で十分に伝わったようだった。
「Tが教室で何かというと大きな声を出したり乱暴な言葉を使ったり女の子に嫌がらせをするのも、彼にとっては男らしさということみたいだったんです」
今度はため息混じりだ。
「なんかそのMさんと衝突しそうね」
「まさにそういうことが起きたんです。僕はその場にいなかったんですが、Mさんは何かのきっかけでTのそういう態度に腹を据えかねて、Tのやってることの愚かしさを教室のみんなの前で延々と叩きのめしたらしいです。しかもかわいく…」
「かわいく叩きのめした…」
春日井先生が大きな声で笑いそうになるのをこらえながら頷く。
「先生分かるでしょ、その光景が。あのTがあのMさんに…かわいく…」
皆川君はつられて笑いが止まらない。
「それでT君は?」
激しく頷きながら先生がフチなしのメガネを外してまなじりを抑えた。笑いすぎて涙がでたらしい。
「逆上したTは、じゃあこのクラスで一番男らしいのは誰だって詰め寄ったらしいんです」
「そっか、そうきたか…。」
笑いにため息が混じり、やっと先生の笑が落ち着いてきた。
「はい。Tは『Kみたいなのが男らしいっていうのか』ってMさんに詰め寄ったらしいです。」
「う~ん。K君に決闘でも申し込みかねないわね」
「はい。でも最初は取り合わなかったMさんだったんですが、逆上したTがあまりにもしつこかったんで名前を言ったんですが…」
「K君ではなかったのね」
「はい」
「皆川君だった」
「そこにいた全員が驚いたそうです。僕にはそれが目に浮かびます。先生はさっき僕のことを好意的に言ってくれましたけど、少なくとも"男らしさ"っていうのはまるでなかったと思います。Mさんの感受性だと当然Tを男らしいと思うことはあり得なさそうですが、思う対象はやっぱり僕じゃなくてKのはずだと思います」
けれんみもなく言った皆川君に先生は軽く頷く。
「それが我慢ならなくて、皆川君にわざわざ言いにきたんだ」
「はい。よりによってMさんに好意を寄せてるKがいる前でです。『俺は男らしいっていうのがKなら俺のライバルだから許せるけど、男らしいのがお前っていうのは納得がいかない』と…」
「ライバル…」
今度は春日井先生はおでこに手をやってはっきりため息をついた。
「うん。それで?」
「TはMさんに多分しつこく、『だったらお前は皆川のことが好きなのか』とか問い詰めたんだと思うんです。Mさんがはっきりと皆川君が好きだと言ったTに言ったそうです。Mさんとしては、しつこいTとの話を打ち切るために話を合わせたんじゃないかと」
「実際はどうだったのかしら」
「あまりにもうるさかったのでついにKが『じゃあ、これから三人でMさんのところに確かめに行こう』と言いました」
皆川君の表情にかすかに苦渋の色がにじむのを春日井先生はちらっと見たあと、視線をそらした。
「内心気が気じゃなかったかな、K君」
「はい・・・多分。ややこしいことになりました」
「コーヒーいただいていいかな」
「あ、どうぞ」
春日井先生はベッドの脇ある、来客用の白いソーサーに乗ったカップにインスタントコーヒーをサラサラと入れてお湯を注いだ。