地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街~8 君島由紀子

 僕はだんだん不安になっていった。


 行ってはいけないところに、行けない所に行ってしまうような恐怖がわき起こって来るのが感じられた。

「お父さんのこと赦してあげてね。お父さんももう年だしさ」

「そんなことは今はいい。誰なんだ君は」

「あなたの姉よ。あなたのお姉さんの名前由紀子でしょ。だから君島由紀子」


 深夜のマンションのパソコンの中で、懐かしい姉の名前「君島由紀子」という文字が浮かび上がった。交通事故で死んだはずの姉の名前だ。



「だからお父さんに会ったんだって言ったの。あたしのね」

「ははは。何をバカなこといってるんだ、君まだ17歳だろう」

「そうよ。嘘はついていないわ。あたしが死んでしまった年ね」





 怖い。笑うしかなかった。





「久しぶりね」

「なんだよ姉って、そんなバカな話あるものか」

「今日神田行きの地下鉄が無くなったっていったでしょ」

「うん。あしたまた確かめるけど」

「昔はなかったわ、あなたの会社から神田まで地下鉄なんて」

「昔っていつ?」

「あなたが生まれたころ」






なにを言っているんだろう・・・。

「かわいかったよ。お風呂に入れてあげようとして、浴槽にぶくぶくってすべって顔つけちゃってごめんね。あの日のことはずいぶん言われちゃったわね。」

「なんで、死んだ姉のその話のこと知ってるの?」

「だから、あたしはあなたのお姉さん」

「一度会って話をしたいよ」

「いいわよ。終わりの始まりね・・・」

「どういう意味?」

「ううん、なんでもない」

「どこに行ったらいいの?」

「神田にしましょう」

「神田?いいけど、どの辺?」

「千鳥が淵公園でどう」

「いいよ。あした土曜日だけど、1時くらいに会えないかな」

「いいわよ。地下鉄ないから、驚かないでね」

「また、消えてるの?なんでそれが君に分かるの?」

「会って話すわ」

「分かった」

「じゃあね」

「じゃあ」











 文字だけの会話・・・。

 君島由紀子

 ぼくはスクロールで消えてしまったカーソルに自分自身でその文字を打ち込んでみた。

 明日だれがいるんだろう。千鳥が淵公園に・・・。





続く

地下鉄のない街~9 二十年のボロボロ

 翌日やっぱり地下鉄はなかった。

 地下鉄の九段下で降りれば千鳥ヶ淵公園はすぐなのに。でも神田までは行ける。ちょっと歩くけどな、千鳥が淵まで。

 ニコライ聖堂の横を通って駿河台あたりを過ぎる時予備校生らしい集団とすれ違った。志望校についていといろ大声で話をしている。共通一次試験という言葉が聞こえる。センター試験の間違いではなかった。やはり時間が過去にさかのぼっているようだった。



 ぼくはどこに向かって歩いているんだろう。本当に公園に彼女はいるんだろうか。

 ああやっと着いたぞ。

 ずいぶん歩いたな。しまった、服装の特長とか聞いておくの忘れたから、どの子か分からないや。まぬけだなあ。



「こっちよ」

 明るくて、まぶしいかわいい女の子が手招きをしていた。頭が真っ白になる。ありえない。姉さんだ。でも・・・。

「ああ、君が由紀子さん。はじめまして。よくぼくのことが分かったね」

 僕はなぜだか姉さんと呼べなかった。姉さんと呼んでしまうと、この現実がすうっと消え去ってしまいそうだったから。



「当たり前じゃない。でも・・・ま、いっか」

 姉さんはそんな僕の気持ちを察してくれたようだった。気が付かないふりをするならそれに付き合ってあげようか、そんな風に姉さんの顔がわらった。


小説 『音の風景』 空から降る木漏れ日の中、ぼくたちは、恋人同士のように千鳥ヶ淵公園を散歩した。

「いろんな話したねえ。パソコンで」

 姉さんがうれしそうに話す。

「そうだね、なんだか初めて会った気がしないや」

 

 生きていればもう姉さんも37歳か。

「初めてじゃないから」

 目の前の17歳の姉さんはクククッとわらう。昔のように。おかしさが弾けるように控えめに体の中からわらい声が出てくる。屈託の無い、澄んだ真水のような声。







 僕はとりあえず、この姉さんの生き写しの、そして姉さんしか知らない過去を知る人と初めて出会ったという自分を演じることにした。

 それは、本当の姉さんと向き合うとこの刹那の幸せが消えてしまうのではないかという不安だけでなく、あれから二十年年経った自分、それなりには成長もした自分を大好きな姉さんにわかって欲しかったからだった。それを成長と呼べるのであればだけどさ・・・姉さん。


 僕を知る唯一の人。

 これまでも、これからも。

 僕が僕であることの唯一の証の姉さんに、会えなかった二十年分のボロボロの僕を知って欲しかったから。

 あの頃の思い出を語る前に、姉さんの知らない所で生きてきた僕を知ってほしい。

 いつも姉さんが見ていてくれていることだけを支えに生きてきた僕のことを・・・。







 かさかさという少し哀しげな音を立てる枯葉を踏みながら、千鳥が淵公園を僕らはゆっくり歩いた。 秋のやわらなか木漏れ日が優しく包んでいた。





「今日も地下鉄なかったでしょ」

「うん、なかった。どうしてなんだろ」

「知りたい?」

「うん。それになんか変だ。この公園歩いているおんなの人の髪型とか、服装とか、ものすごく昔のかんじがする。来る途中に予備校生が共通一次試験って言ってたよ」

 
 17歳の姉さんはそっと頷いた。面の前の姉さんは二十近くも年下なのにやはり姉さんらしく年上のように優しく頷いた。知っているんだね。何もかも・・・。





「ねえ、あそこの喫茶店でお茶でも飲みましょう」

 こんもりとなだらかに盛り上がった道の先に木々に埋もれるように喫茶店らしき店が見えた。

「いいね。行こうか」

 ぼくはなだらかな坂道を早足に歩いていく姉さんの後を追った。





 坂道の鬱蒼とした木々の中を抜けると、急に視界が晴れた。

 陽射しがまぶしく、まるで懐かしい別世界のようだった。






続く

地下鉄のない街~10 父親のこと

「こんにちはー」

「いらっしゃいお嬢さん。今日はお父さんは一緒じゃないの?」

 五十代くらいの柔和なマスターが、笑顔で迎えてくれた。常連さんなんだな。

「今日は彼氏といっしょよ」

「あ、それはそれは」

 他意のない笑顔で、ぼくの方を見てくれた。なんだか恥ずかしい。

「いや違いますよ、彼氏じゃないです。今日初めてあったんですから」

「ははは、なにどぎまぎしてるのよ。初めてじゃないって言ってるでしょ」

「・・・」

 いいから座ろう。あたしはモカ。なんにする?

「いやコーヒーのこと詳しくないから」

「そうだったね。じゃあ、モカ二つお願いします」

「はいかしこまりました」

 カウンター越しから、マスターが小さく応答していた。




「お待ちどうさまです」

 アルバイトの店員の手は開いていたが、さあどうぞ、といった感じでマスターが自分で運んできてくれた。

「あいかわらずちっちゃいね、このカップ。量が少ないよ」

 ぼくはヒヤヒヤする。姉さんはいつも大人にもこんな喋り方をしてたっけ。

「また、そんなこと言って。お父さんもあなたも、おいしいおいしいって言ってくれるじゃないですか」

 マスターの柔和な笑顔と二人のあけすけな雰囲気は、17歳の姉さんがこの店にいつも来ていることを物語っていた。

 喫茶店でコーヒーを一緒に飲んだことは・・・確か無かった。

$小説 『音の風景』 「お父さんのこと好きじゃないの?健太郎は」

 ポンとボールを投げてよこすように突然、でもちゃんとそれを取りやすい胸の位置にさりげなくねえさんが言葉を投げかけてくる。

 この時だけは時間が停滞する。父さんの話になる時だ。

 外に飛んでいる鳥の声が急に大きくなって、少しそれに気を取られた。

 どのくらいたっただろう、三十秒か三分か、もっとかもしれない。




「聞いてるの?健太郎」

「ああ、聞いてるよ」

 僕は切ない思いで返事をした。そうか・・・やっぱり。

 チャットで一度も使ったことのない僕の下の名前だ。



「お父さん、健太郎のこと好きだよ。あなたもそうでしょ。だから地下鉄消えたんだよ。あたしとも会えたしね」

「悪いけどいろいろあって、ぼくは素直になれない。昔も姉さんが死んでからもさ」

「でもあなた地下鉄消してここにこれたじゃない。思いが通じたのよ、お父さんの」

「よく分からないや。言っていることが」

 不安を打ち消すように、ぼくは少しぶっきらぼうなしゃべり方で答えた。

「ここは地下鉄では来ることができない神田よ、はるか昔の」

「ああ分かってるさ」

 僕が答えると姉さんは寂しそうに笑った。





 しばらく間が空いた。





「コーヒー終わったし、また今度会おうね。今日は楽しかったわ」

 姉さんは唐突に言った。

「うん。今度はいつどこで会えるの?」

 僕はそれを止めようとはしなかった。もっとこの世界にいたかったけれど、それはたぶん無理なんだとわかっていた。姉さんがそれを促すのならそろそろ僕は元の世界に帰るべきなんだ。

「来週の土曜日でもいいわよ。ただ場所は神田だけ」

 そうか。

 あのチャットのときに文字から伝わってくるさびしそうなニュアンスは、この表情なんだね。

 姉さんの姿がすっと薄くなって、パソコンのカーソルが僕と姐さんの間で透明に点滅しているようだった。





「分かった。」

「さよなら。あたしはもしばらくここにいるから」

「そうなのか」

「そう」

「うん、わかった」

「またね、さようなら。地下鉄で帰ってね」

「そうするよ」






 あとはよく覚えていない。

 九段下の駅から地下鉄に乗って自分の家のある駅で電車を降りた。

 長いエスカレーターを登って地下鉄の通路を出ると、見慣れた町並みが広がっていた。




続く

地下鉄のない街~11 夢に堕ちる

$小説 『音の風景』「ただいま」

「といっても誰もいないけどな」

 しんとした、独り住まいのアパート。

 ベッドの脇の灯りをつけると現実にようやく完全に引き戻された。

 そうだ、なくなった姉さんの写真を見てみよう。

 たしかに亡くなったのは17歳だな。久しぶりに開けるな、このアルバム。

 写真が沢山残っていてよかった。

 あれはやっぱり・・・。確かめるまでもないかもしれない、でもそれを僕は認めていいんだろうか。

 もしこの部屋と神田の街しかなかったとしたら、僕はそれでもいい。






 でも・・・。

 多分そうは行かない。

 今日の現実は、日常世界の非現実なんだ。

 たぶん・・・

 そうじゃないと、あの世界は壊れてしまう。

 いっそ僕が頭がおかしくなったのでもいいんだ。

 それならこの頭のおかしくなった自分を大事にしたい。

 チャットの時間と、神田の時間・・・。

 それがあれば、この先もこの世界で頑張れるだろう。

 もし、頑張ることに意味があるならばだけど・・・。







 だめだ、眠すぎる。

 夢に引きずり込まれる・・・

 あの悪夢のような日の、磨り減っていった人生の始まりの日の。




 悪いのはおまえじゃない
 悪いのは、だれでもないんだ
 誰も悪くない
 だから誰も責められない

 ほんの冗談
 冗談を誰も責められない
 おまえもそうだよな
 冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ

 自殺はしないよ
 自分のためじゃない
 おれが自殺したら、お前が困るだろ
 悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ

 どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
 おまえにこういえたらどんなに楽だろう
 でも、誰に言ったらいいんだろう
 いつもおれをいじめるおまえか?

 ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
 だれににやらされているわけでもない
 やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
 相手のいないところへ向かって自己主張はできない

 敵はどこにもいないんだ
 ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
 何かをすることは不毛なんだ
 悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない

 しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
 何も考えていないとは、だれもいえない
 たとえ、何も考えていなくても
 何かしゃべらないといけないように

 だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
 だれもいないとは誰もいえない
 たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
 だれかを標的にしないと生きていけないからね

 黙っていることができるところ
 姉さん、あなたはこの世の中で唯一の場所だった
 でも遠いところに行ってしまったね
 いつか、教えてね 死ぬことの意味を


   もう一度会えたらな・・・
   ・・・姉さんに





続く
ゆっきー
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