「こんにちはー」
「いらっしゃいお嬢さん。今日はお父さんは一緒じゃないの?」
五十代くらいの柔和なマスターが、笑顔で迎えてくれた。常連さんなんだな。
「今日は彼氏といっしょよ」
「あ、それはそれは」
他意のない笑顔で、ぼくの方を見てくれた。なんだか恥ずかしい。
「いや違いますよ、彼氏じゃないです。今日初めてあったんですから」
「ははは、なにどぎまぎしてるのよ。初めてじゃないって言ってるでしょ」
「・・・」
いいから座ろう。あたしはモカ。なんにする?
「いやコーヒーのこと詳しくないから」
「そうだったね。じゃあ、モカ二つお願いします」
「はいかしこまりました」
カウンター越しから、マスターが小さく応答していた。
「お待ちどうさまです」
アルバイトの店員の手は開いていたが、さあどうぞ、といった感じでマスターが自分で運んできてくれた。
「あいかわらずちっちゃいね、このカップ。量が少ないよ」
ぼくはヒヤヒヤする。姉さんはいつも大人にもこんな喋り方をしてたっけ。
「また、そんなこと言って。お父さんもあなたも、おいしいおいしいって言ってくれるじゃないですか」
マスターの柔和な笑顔と二人のあけすけな雰囲気は、17歳の姉さんがこの店にいつも来ていることを物語っていた。
喫茶店でコーヒーを一緒に飲んだことは・・・確か無かった。
「お父さんのこと好きじゃないの?健太郎は」
ポンとボールを投げてよこすように突然、でもちゃんとそれを取りやすい胸の位置にさりげなくねえさんが言葉を投げかけてくる。
この時だけは時間が停滞する。父さんの話になる時だ。
外に飛んでいる鳥の声が急に大きくなって、少しそれに気を取られた。
どのくらいたっただろう、三十秒か三分か、もっとかもしれない。
「聞いてるの?健太郎」
「ああ、聞いてるよ」
僕は切ない思いで返事をした。そうか・・・やっぱり。
チャットで一度も使ったことのない僕の下の名前だ。
「お父さん、健太郎のこと好きだよ。あなたもそうでしょ。だから地下鉄消えたんだよ。あたしとも会えたしね」
「悪いけどいろいろあって、ぼくは素直になれない。昔も姉さんが死んでからもさ」
「でもあなた地下鉄消してここにこれたじゃない。思いが通じたのよ、お父さんの」
「よく分からないや。言っていることが」
不安を打ち消すように、ぼくは少しぶっきらぼうなしゃべり方で答えた。
「ここは地下鉄では来ることができない神田よ、はるか昔の」
「ああ分かってるさ」
僕が答えると姉さんは寂しそうに笑った。
しばらく間が空いた。
「コーヒー終わったし、また今度会おうね。今日は楽しかったわ」
姉さんは唐突に言った。
「うん。今度はいつどこで会えるの?」
僕はそれを止めようとはしなかった。もっとこの世界にいたかったけれど、それはたぶん無理なんだとわかっていた。姉さんがそれを促すのならそろそろ僕は元の世界に帰るべきなんだ。
「来週の土曜日でもいいわよ。ただ場所は神田だけ」
そうか。
あのチャットのときに文字から伝わってくるさびしそうなニュアンスは、この表情なんだね。
姉さんの姿がすっと薄くなって、パソコンのカーソルが僕と姐さんの間で透明に点滅しているようだった。
「分かった。」
「さよなら。あたしはもしばらくここにいるから」
「そうなのか」
「そう」
「うん、わかった」
「またね、さようなら。地下鉄で帰ってね」
「そうするよ」
あとはよく覚えていない。
九段下の駅から地下鉄に乗って自分の家のある駅で電車を降りた。
長いエスカレーターを登って地下鉄の通路を出ると、見慣れた町並みが広がっていた。
続く