地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街70 『地下鉄のない街』

 踏切の音がする

 あの時の金属音もだ

 だんだん大きくなってくる…。

 また…か?


 電車の長く持続する急ブレーキの音が警笛の絶望的な低音と混じり合った。踏切のカンカンという音が誰も踊らない舞踏の伴奏をしているかのように滑稽に鳴り続けている。

 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。



 姉さん?

 逃げよう

 ここは危ない。

 あの時の神田の踏切だ。

 何やってるんだよ姉さん、向こうを見てないでこっちを向いてくれ!




 トニー、父さん、母さん、何でみんなここにいるのさ?

 とにかくここは危ないんだ。

 もうすぐ列車がここに突っ込んでくる。

 ダメだってば、踏切をくぐっちゃ!



 木島先生、隣にいるのは…もしかして先生の高校時代の親友だった青田君?君からも言ってくれ。そうだよ、ここは君が身を投げたあの踏切だ。

 何だってみんなこっちに来ようとするんだよ。集団自殺でもやらかそうっていうのかい?

 神崎先輩、西村さん、佐藤さん…。どうしたんですか?涙まで浮かべて…。「ありがとう?」僕がですか?何のことだかわかりません、それよりこっちに来ちゃだめです!

 春日井生の横にいる白衣を着たあなたはあなたは?やっぱり春日井生の弟さんか?「心配いらないって?」あなた何者なんですか?みんな列車に轢かれて死んでしまうんですよ!!




  電車の長く持続する急ブレーキの音が警笛の絶望的な低音と混じり合った。踏切のカンカンという音が誰も踊らない舞踏の伴奏をしているかのように滑稽に鳴り続けている。

 



 姉さん!みんなに避難するように言って!

 下を向いて何をやってるんだよ。





 僕は姉さんの肩を荒々しくつかんでこちらを向かせた。

 姉さんは何か分厚いファイルのようなものを読んでいたらしい。

 姉さんの大粒の涙が頬を伝ってファイルの読みかけのページににポタリポタリと落ちた。



 ファイルを取り上げて表紙を見る。

 『地下鉄のない街』





 目次…。

 これまでの僕と姉さんの不思議ない世界の旅、タイムトラベルによって見聞きしてきたものが、どうやら順番に書いてあるらしい。

「姉さん、これは一体?」

 僕は頭が変になりそうだった。

 今こうして経験していることが、活字になって存在しているってどういうことだ?

 目次は今までの出来事が順番に章立てで並んでいる。

 最終章は「君島健太郎からみんなへ」とあった。

 この少し前に「春日井先生の真実?」という章がある。さっきの出来事はもうこのストーリーの終盤らしい。

 僕はその途中の章の「春日井先生の真実?」というページを震える手でめくってみたここには、今僕と姉さんが途中まで聞いた西村と皆川君の会話が…?


 あった。

さっきの出来事までが書いてあり、その先は白紙のページがただ続いていた。


 一体この『地下鉄のない街』っていうファイルは何なんだ…?




 「あ!」

 鈍いブレーキの制動音とともに列車が突っ込んだ。





 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。


「みんな無事か!?」

 僕は薄れゆく意識の中でみんなの声を聞いた。






「ああ。無事だよ。本当にありがとう、健太郎君」

  




 

地下鉄のない街72 交差する時空間

「眠りって…この世界は現実じゃないのかい?」

 皆川君は僕の問いかけに静かに微笑した。そうだとも頷かず、首を横にも振らなかった。

 じっと僕を見つめる皆川君の目の焦点からぼんやりとピントを外すと、僕は意外なことに気がついた。

「ねえ、皆川君。君は皆川君には違いないけど、高校生の皆川君じゃないね。さっきは気が動転していて分からなかった。若々しいけどもうしっかりした大人だね。」

 皆川君は今度はゆっくりと頷いた。表情は僕がそのことを分かったことが嬉しそうでもあり、そして不思議なことに同時に悲しそうでもあった。



「君がさっき後ろ姿をみた君のお姉さんも、それまでの高校生のお姉さんではないよ。もっとずっと後、君がサラリーマンになってある日神田の街から地下鉄が消えてしまったあの頃の年齢さ」

 じゃあ、姉さんも皆川君が自殺せずにそのまま歳を重ねたのと同じように、もし生きていたとして、さっきの後ろ姿の姉さんは三十代前半ということになる。




「高校生の君が保健室の前で西村さんに殴られそうになった時、僕は高校生の自分自身を廊下の影からみたよ。それと同じように、20年後の皆川君や20年後の姉さんが、高校時代の僕たちを観ているというのかい?」

 皆川君は何度も小刻みに頷いた。面倒な話がすっと伝わってホッとしたといった感じだった。

「そうなんだ。次にこのファイルを書く春日井先生もあれから20年後の先生なんだよ。だからすごく綺麗ではあるけれど、もう熟女だね」

 僕はあの春日井先生のことを皆川君が熟女なんて形容したことがおかしくて、笑出してしまった。皆川君もおかしそうに笑った。

「さっき君にありがとうって言ってた人たちも、それぞれに歳を重ねてる」




 僕はふとさっき皆川君が書いていた『地下鉄のない街』の一節を思い出して口にしてみた。

「『観ることは赦すこと』ってあったね。大人になった僕たちが、高校生の頃の僕たちを観ているのかい?」

「そうかも知れないね…」

「何を赦す?」

「……。すべてさ」

「最後にわかるのか」

「ああ。まるでミステリー劇場だね」

「なんとなくハッピーエンドではなさそうで怖いけど…」

「すくなくともアガサ•クリスティの『そして誰もいなくなった』みたいなことはないよ。」

「そう願いたいね…」





 皆川君が『地下鉄のない街』のファイルをそっと僕に渡す。書いてある最後のページをめくると白紙のページの中に病院の風景が浮かんで来た。西村はもう帰ったようだ。皆川君が夕暮れの日差しの中、ひとりポツンと小さな文庫本を手にしていた。
 
 題名は見えなかった。

 ドアのノックの音がして高校生の包帯まみれの皆川君が「どうぞ」と言った。お客さんがくることがわかっていたらしい。

 背中しか見えなかったけれどすぐに分かった。若い頃の春日井先生だ。




「遅くなってゴメンなさい」

「いえ、いいですよ。暇だったんで読みかけの推理小説を読んでました」

 皆川君はベッドの布団の上に分厚い小説をぽんと放った。

 クリスティの『そして誰もいなくなった』だった。






 僕の横に成人した皆川君はもういなかった。

 手元の『地下鉄のない街』もいつの間にかなくなっていた。

 姉さん?

 「ここにいるよ」

 暖かい掌がすっと僕の手を上から包んだ。

地下鉄のない街28 遠眼鏡

「お姫様がその後どういう事情で吉原の住人になったのかはその物語には書いてなかったんだ。でもあたしはそれで正解だったと思うんだよね。あたしが子供ながらにその物語に異様にのめり込んで、でもなんだかとても怖くて大好きな健太郎にも結末までは話せなかったは、お姫様が人並みに苦労してそれまでの幻想の中を生きてきたことは無意味だったんだとかいう教訓めいた話を読み取ったからじゃなくて、遠眼鏡を大事にし続けたお姫様のことに心が奪われちゃったからなんだ」

 さっきまでの春日井先生は消えてなくなり、今度はそのお姫様が姉さんの形を借りて何かを語りかけようとしているように思えた。

「お姫様は普通にお客をとっていたつもりだったんだけど、もともとがそういう出自だし、器量や気立ての良さもそういう環境でも全く汚されなかったみたいでね、お姫様は吉原の女帝のような存在に祀り上げられそうになってたの」

「そうになっていたというのは、じゃあ実際にには違うんだね」

「うん。お客さんや遊郭の実力者たちの受けが良くても、いまでいう同僚、遊女たちの受けがあまりよくなかったみたい」

 姉さんは寂しそうな顔をしてうつむいた。

「やっかみとかあったかな」

 顔を上げた姉さんはよくぞ言ってくれたといわんばかりの顔をしていたので、僕は一瞬たじろいでしまった。

「お姫様はね、お客がいないとき、ううん、いるときでもぼんやりとあの遠眼鏡を使っていつもそこから見えるお城を見てたんだ」

「お城って自分が住んでいたお城かい」

「ううん。吉原からは江戸城しか見えないから違うんだけど、何も見えないはずの海がある方向に遠眼鏡を向けて、お客さんが何を見ているのか訝しがるまでずっと楽しそうに飽きずに眺めていたんだ。何が見えるんだいと聞かれると、いつでも綺麗なお城が見えるって」

 僕はさっき姉さんが寂しそうな顔をしたわけがわかった。お姫様は昔舞台だと思っていた側の遊郭の欄干に、はだけた赤い襦袢をなびかせながら自分がいたお城を今度は舞台のように眺めていたんだろう。

「それじゃあ、贔屓のお客さんは大目に見てくれても、他の遊女たちには受けはよくないかもしれないね」

「うん。とても気味悪がられていたらしい。それとああいうところだから妙な迷信とか信じる人も多くて、性病が流行ったりとか、仕送りしている田舎で大飢饉があったりとか、そういうことがいつの間にか全部このお姫様のせいだみたいな話になっていったんだ」

「気味が悪いを通り越しちゃったんだね」

「うん。遠眼鏡で見えないお城を見ている時のお姫様はそれこそ昔の本当の大名のお姫様だった時のように神々しかったみたいで、お客にしたらそれも一興、でも遊女たちにとったらほとんどヨーロッパの魔女狩りの魔女みたいな不気味さだったんじゃないかな」

「そっか。男にとっては聖女。でも実際には悪魔と契約した厄災を撒き散らす魔女・・・か」

「実際ね、五十歳過ぎくらいになってもお姫様はどう見ても二十代くらいに見えたらしい。それもこれも・・・」

「遠眼鏡で怪しい妖術を使っていたみたいな?」

 僕は姉さんがなぜ皆川くんやトニー、そして僕の話からこのお姫様の話を連想したのか分かった。

「自分たちとは別の世界を持っている人間。お姫様はね、ある日長時間にわたって拷問のように苛まれた状態で隅田川に浮かんじゃたんだ」

 そっか、やっぱり・・・。

「遠眼鏡はめちゃくちゃに壊されて、バラバラの破片が巾着に入れられてお姫様の首に巻きつけてあったそうよ」




 皆川くんの学校一の脚力
 
 トニーのアメリカ

 僕の姉さん


 お姫様の遠眼鏡・・・。


 僕はそろそろ僕の犯した許しがたい罪を告白する時が来たんだと思った。

地下鉄のない街 42 春日井先生のトラウマ

「君の中ではまだ解決してないのかい」

 春日井先生のすすり泣きに木島の声が混じった。

「木島君気がついていたよね。相談に乗るうちに青田君がだんだんとあたしに精神的に寄りかかった状態になっていったこと」

 木島のかすかな溜息が聞こえた。

「ああ。横で見ていてよく分かったよ。僕たちが付き合っていることはクラスの人間は知ってたからね、青田も最初は遠慮があったと思うんだけど、だんだんと僕と三人であっている時にも君への精神的な依存を隠そうとしなくなっていったように見えたよ」

「そうね。」

「最初は三人で何とかして行こうっていういい雰囲気だったのにね。俺も教師たちの手のひらを返したような態度は許せなかったし」

 春日井先生が少しだけ笑った。

「あたしには分かるよ。いろいろ頑張った木島君が結局青田君を救えなくてどれだけ自分のこと責めたか。」

 木島の自嘲気味の苦笑が聞こえた。

「いや、あの時の自分の心理状態はそんな立派なものじゃないんだ。一言で言って幼かったんだけどさ、僕は青田が僕の前でもどんどん君に寄りかかって行くのが我慢ならなくなっていったんだ。『青田、もっと強くなれ、逆境なんか跳ね返せ』って励ましたり、教育委員会に直訴に行ったりっていうのは、多分青田を君から引き離したかったっていうのもあったと思うんだ」

 僕は衝立越しの木島の声にある種の痛いほどの悲壮さを感じてトニーを見た。トニーはかすかに頷いた。トニーも多分単純で狡猾な学校権力の犬だと思っていた木島の意外な肉声を聞いて、僕と同じような気持ちになったのかもしれない。

「だから僕は青田を救って苦しんだとかいう風に自分のあの頃を振り返ることはできないんだ。力もないくせに、しかも自分の嫉妬心も混じった感情で中途半端な行動をしていたんだ。何か自分がとてつもないいいことをしているような気になってね。今僕が生徒たちに、昔の僕みたいな青臭い余計なことを考える暇もなく学校の管理教育の中に埋没して生活していくようにしているのは、やっぱりあの頃の自分の中途半端さを処罰したいからなんだと思う。中途半端な青臭い中高生の反抗ほど、学校生活の中で大きな悲劇を生むものはないんじゃないかと思ってるから・・・」


「あたしはどうすれば良かったのかな」

「ごめんな。春日井さんにもずいぶんひどいこと言った。実は青田と俺と二股かけてるんじゃないかとか言ったこともあったね。今思い出しても自分が嫌になるよ」

 すすり泣きをいったんリセットするように春日井先生が小さく鼻を鳴らした。

「いいんだよ。そう言われても仕方ないような態度、あたしもとってたもん。何か精神的に頼られてしまうと断ることができない、自分の中にそういう自分でどうしようも無い弱い部分があるってあの時はっきりわかったんだよ。だから、誘われるままにホテルにも・・・あの時は言われちゃったよね。まるで君は聖女か娼婦みたいだって。」

「・・・僕も君と別れることになった後もずっと、うん、高校や大学に入ってからもそのことを本で探して読んだりしたよ。やっぱり幼い時の弟さんのことから来てるのかな」




 また少し沈黙が流れた。

「そうだね。活発で明るい弟だったんだけどね、何だか学校生活がうまく行かなくなっちゃった。部屋にひきこるようになってしまって、たまに訪問してくれる先生やクラス委員の子や、しまいにはうちの両親との接点は全部あたしを通してっていうことになっちゃってた」

「口にしにくいことだったんだと思うんだけど、僕には教えてくれたね。その時もっともっと君の心の傷について僕は深く受け止めるべきだったんだ」

「ううん、いいんだ。それは。でもね、やっぱりあの時のことからずっと続いているんだと思うんだ。ある日の夜。夕ごはんを届けに弟の部屋に行くとそのまま手を取られて部屋の中に入れられた。すこし思いつめた表情だったな」

「ご両親は結局気づいてなかったんだっけ」

「お盆に載せた夕食をおっことして大きな音がしたから母親が廊下まで来たよ。大丈夫って・・・」

「うん・・・」

「しばらくベッドの上に押し倒されたままになってたんだけど、あたしはその母親の声を聞くまでは、なんとなくそうして弟を胸に抱いているのが自然のような気さえしてたんだ。でも、母親の声を聞いた途端、自分でも気が付かないうちに弟を着き飛ばしてた・・・もし、あのままそっと気の済むまで抱いてあげてたら・・・」




 僕の頭の中に、蝉の声が鳴った。




「その夜以来弟さんに会ってないんだよね」

「うん。最初は怯えたような小動物みたいな目。次に、あたしが今まで出会った人間の目で一番悲しそうな目をした。そして最後は絶望かな・・・。あたしを突き飛ばして外に出ていってしまった」

「捜索願も出したけど、それ以来・・・」

「そう。もう7年以上たってるから届出を出せば死亡扱いになるんだけど、いまだにそうしてないんだ。両親はまだ弟の失踪をきっかけに始めた新興宗教の教えを守ってるからね。祈り続けて帰ってくるのを待ってるわ」


 二人の話は一段途切れた。中居さんが飲み物のおかわりを聞いている。木島がビールを追加したようだった。


「今日僕が誘ったわけは分かるよね」

「うん。分かる」

「弟さん、青田くん、そして・・・」

「うん、そうだよね。今度は皆川くんだよね。」

「ああ。僕が心配しているのは皆川くんの問題に直面することで、君はまた過去の辛いことを繰り返すんじゃないかっていうことなんだ。君は僕は僕自身を罰するよりはるか以前に弟さんのことで自分を罰し続けてきたんだよ。だから、青田に対してもああいう態度になったんだと思う」

「うん・・・」


 蝉の声はまだ僕の頭の中になり続けていた。
ゆっきー
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