地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街69 春日井先生の真実?

「どうしても嫌かい。八百長は?」

 木島先生と佐藤先輩の声がすっと消え、西村の声が背後で聞こえた。僕と姉さんは驚いて後ろを振り返った。

 病院?

 包帯で顔の右半分が隠れた皆川くんに西村さんが話しかけている。

「お前はなんのために走るんだい?」

 西村が話しかけても皆川くんは無言だった。

「なあ、皆川。この世の中みんなでつき通す尊い嘘で成り立っていると思わないか?」

 皆川くんの表情が動いた。

「どういう意味です?」

「俺が神崎さんがすごいなって思うのはさ、あの人は自分より早く走れるやつがいるって分かってるのに自分が偽者のスターでいた方が陸上部がうまく回っていくっていうことを知っててその役割やってるって事だと思うんだ」

 穏やかでまるで親友に語りかけるような口ぶりだった。

「お前に宗教ごっこって言われちゃったうちの教団もな、こんなことここだけの話だけど、教団代表の父親も教祖の母親も神様なんて信じちゃいないのさ。それでも信者を騙してるわけじゃない。信者にとっては必要なんだよ、教団も教祖も。あってくれないと、いてくれないと困る。」

「西村さんのご両親と神崎さんは同じだと?」

 無表情な顔で皆川君が答える。ただ少し話に興味がでたようでベッドから状態を起こそうとした。西村が皆川君の脇を抱えるようにしてそれを助けた。

「ああ。顧問の木島先生も同じさ。あの人は高校の時親友を死なせてる。波風立てずにやり過ごせば良かったのに学校や教育委員会と喧嘩して、力足らずにその親友の学校での立場を悪い方向に追いやってしまった。本当の事を訴えるなんていうこと、本当の事を暴きたてることなんてガキのやる事さ。」

「僕が入部する前にも記録を巡って騒動があったそうですね」

「ああ。あの時はマネージャーの佐藤さんが、もうこういうことはやめようって騒いだな。」

「佐藤さんって昔は西村さんと付き合ってたんですよね」

「あれ?誰かおしゃべりなやつがいるんだな。まあ、いいや。付き合ってるというかオレの一方的な思いだったかもしれないけどな」

「尊敬する神崎さんに譲ったってわけですか」

「譲るも何もないわけだけど、神崎さんのしんどさ分かってくれるたらいいなと思ったよ」

 皆川君は少しの間無言だった。

「僕はただ、この高校に自分がちゃんといたっていう思い出が欲しいだけなんですよ。僕もどっちかというと実は人に求められるままに自分の本当の思いとか、自分の姿なんて隠してやってきたんです。いわゆるいじめにあってた状態ですけど、僕はいじめられてるとは思ってなかった。誰か標的が必要なんです。誰でもいいから誰かいじめておけば、とりあえず自分はいじめられない。ある日なんでもないことからいじめられた僕は、次の標的を探してバトンタッチするのはやめようって思ったんです。」

 西村は頷いた。

「ああ。皆川がそういう人間だっていうのは俺はわかってたよ。みた瞬間からな。」

「でもね、春日井先生と接しているうちに思ったんです。あの人と接していると自分の中の、このまま表には出さないでやって行こうと思っていたものが表にでたがってくるっていうか、そんな気持ちになるんですよ。別にカッコつけたいとかじゃないんです。そんな気持ちにさせる人なんです。ああ、そういう風に本当の自分になって生きてみるってこんなに嬉しいことなのかって、大げさにいえば生きてる実感がもらえるんですよ。春日井先生の笑顔をみてしゃべっていると」

 西村が立ち上がって病室の窓の方にやってきた。

 窓の外から見ている僕と姉さんは一瞬ドキッとしたが、どうやら気がつかないらしい。

「じゃあ、俺も皆川が知らない真実とやらを一つ教えようか」

「何です?」

「春日井生が数えきれないほど男子生徒との色恋沙汰の問題行動を起こして、その度ごとに学校を追われてこの学校にやってきたということ。この学校に限ってみても君の前にそういう問題を引き起こして厳重注意受けて自宅で謹慎していたという時期があったという真実さ」


 皆川君がかすかに震えて、少し引きつった顔で唾を飲み込もうと喉仏を動かそうとしているのが見えた。

「佐藤さんが陸上部と学校を辞める結果になったこと、その後君は知らないだろうが木島さんと暮らしているということ、その引き金になったのは…」

「僕の前に、神崎さんよりいい記録出そうとしたというのは…」

 西村はまた親友に接するようなに笑いかけた。

「そう。そいつも保健室が大好きだった」

地下鉄のない街70 『地下鉄のない街』

 踏切の音がする

 あの時の金属音もだ

 だんだん大きくなってくる…。

 また…か?


 電車の長く持続する急ブレーキの音が警笛の絶望的な低音と混じり合った。踏切のカンカンという音が誰も踊らない舞踏の伴奏をしているかのように滑稽に鳴り続けている。

 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。



 姉さん?

 逃げよう

 ここは危ない。

 あの時の神田の踏切だ。

 何やってるんだよ姉さん、向こうを見てないでこっちを向いてくれ!




 トニー、父さん、母さん、何でみんなここにいるのさ?

 とにかくここは危ないんだ。

 もうすぐ列車がここに突っ込んでくる。

 ダメだってば、踏切をくぐっちゃ!



 木島先生、隣にいるのは…もしかして先生の高校時代の親友だった青田君?君からも言ってくれ。そうだよ、ここは君が身を投げたあの踏切だ。

 何だってみんなこっちに来ようとするんだよ。集団自殺でもやらかそうっていうのかい?

 神崎先輩、西村さん、佐藤さん…。どうしたんですか?涙まで浮かべて…。「ありがとう?」僕がですか?何のことだかわかりません、それよりこっちに来ちゃだめです!

 春日井生の横にいる白衣を着たあなたはあなたは?やっぱり春日井生の弟さんか?「心配いらないって?」あなた何者なんですか?みんな列車に轢かれて死んでしまうんですよ!!




  電車の長く持続する急ブレーキの音が警笛の絶望的な低音と混じり合った。踏切のカンカンという音が誰も踊らない舞踏の伴奏をしているかのように滑稽に鳴り続けている。

 



 姉さん!みんなに避難するように言って!

 下を向いて何をやってるんだよ。





 僕は姉さんの肩を荒々しくつかんでこちらを向かせた。

 姉さんは何か分厚いファイルのようなものを読んでいたらしい。

 姉さんの大粒の涙が頬を伝ってファイルの読みかけのページににポタリポタリと落ちた。



 ファイルを取り上げて表紙を見る。

 『地下鉄のない街』





 目次…。

 これまでの僕と姉さんの不思議ない世界の旅、タイムトラベルによって見聞きしてきたものが、どうやら順番に書いてあるらしい。

「姉さん、これは一体?」

 僕は頭が変になりそうだった。

 今こうして経験していることが、活字になって存在しているってどういうことだ?

 目次は今までの出来事が順番に章立てで並んでいる。

 最終章は「君島健太郎からみんなへ」とあった。

 この少し前に「春日井先生の真実?」という章がある。さっきの出来事はもうこのストーリーの終盤らしい。

 僕はその途中の章の「春日井先生の真実?」というページを震える手でめくってみたここには、今僕と姉さんが途中まで聞いた西村と皆川君の会話が…?


 あった。

さっきの出来事までが書いてあり、その先は白紙のページがただ続いていた。


 一体この『地下鉄のない街』っていうファイルは何なんだ…?




 「あ!」

 鈍いブレーキの制動音とともに列車が突っ込んだ。





 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。


「みんな無事か!?」

 僕は薄れゆく意識の中でみんなの声を聞いた。






「ああ。無事だよ。本当にありがとう、健太郎君」

  




 

地下鉄のない街72 交差する時空間

「眠りって…この世界は現実じゃないのかい?」

 皆川君は僕の問いかけに静かに微笑した。そうだとも頷かず、首を横にも振らなかった。

 じっと僕を見つめる皆川君の目の焦点からぼんやりとピントを外すと、僕は意外なことに気がついた。

「ねえ、皆川君。君は皆川君には違いないけど、高校生の皆川君じゃないね。さっきは気が動転していて分からなかった。若々しいけどもうしっかりした大人だね。」

 皆川君は今度はゆっくりと頷いた。表情は僕がそのことを分かったことが嬉しそうでもあり、そして不思議なことに同時に悲しそうでもあった。



「君がさっき後ろ姿をみた君のお姉さんも、それまでの高校生のお姉さんではないよ。もっとずっと後、君がサラリーマンになってある日神田の街から地下鉄が消えてしまったあの頃の年齢さ」

 じゃあ、姉さんも皆川君が自殺せずにそのまま歳を重ねたのと同じように、もし生きていたとして、さっきの後ろ姿の姉さんは三十代前半ということになる。




「高校生の君が保健室の前で西村さんに殴られそうになった時、僕は高校生の自分自身を廊下の影からみたよ。それと同じように、20年後の皆川君や20年後の姉さんが、高校時代の僕たちを観ているというのかい?」

 皆川君は何度も小刻みに頷いた。面倒な話がすっと伝わってホッとしたといった感じだった。

「そうなんだ。次にこのファイルを書く春日井先生もあれから20年後の先生なんだよ。だからすごく綺麗ではあるけれど、もう熟女だね」

 僕はあの春日井先生のことを皆川君が熟女なんて形容したことがおかしくて、笑出してしまった。皆川君もおかしそうに笑った。

「さっき君にありがとうって言ってた人たちも、それぞれに歳を重ねてる」




 僕はふとさっき皆川君が書いていた『地下鉄のない街』の一節を思い出して口にしてみた。

「『観ることは赦すこと』ってあったね。大人になった僕たちが、高校生の頃の僕たちを観ているのかい?」

「そうかも知れないね…」

「何を赦す?」

「……。すべてさ」

「最後にわかるのか」

「ああ。まるでミステリー劇場だね」

「なんとなくハッピーエンドではなさそうで怖いけど…」

「すくなくともアガサ•クリスティの『そして誰もいなくなった』みたいなことはないよ。」

「そう願いたいね…」





 皆川君が『地下鉄のない街』のファイルをそっと僕に渡す。書いてある最後のページをめくると白紙のページの中に病院の風景が浮かんで来た。西村はもう帰ったようだ。皆川君が夕暮れの日差しの中、ひとりポツンと小さな文庫本を手にしていた。
 
 題名は見えなかった。

 ドアのノックの音がして高校生の包帯まみれの皆川君が「どうぞ」と言った。お客さんがくることがわかっていたらしい。

 背中しか見えなかったけれどすぐに分かった。若い頃の春日井先生だ。




「遅くなってゴメンなさい」

「いえ、いいですよ。暇だったんで読みかけの推理小説を読んでました」

 皆川君はベッドの布団の上に分厚い小説をぽんと放った。

 クリスティの『そして誰もいなくなった』だった。






 僕の横に成人した皆川君はもういなかった。

 手元の『地下鉄のない街』もいつの間にかなくなっていた。

 姉さん?

 「ここにいるよ」

 暖かい掌がすっと僕の手を上から包んだ。

地下鉄のない街28 遠眼鏡

「お姫様がその後どういう事情で吉原の住人になったのかはその物語には書いてなかったんだ。でもあたしはそれで正解だったと思うんだよね。あたしが子供ながらにその物語に異様にのめり込んで、でもなんだかとても怖くて大好きな健太郎にも結末までは話せなかったは、お姫様が人並みに苦労してそれまでの幻想の中を生きてきたことは無意味だったんだとかいう教訓めいた話を読み取ったからじゃなくて、遠眼鏡を大事にし続けたお姫様のことに心が奪われちゃったからなんだ」

 さっきまでの春日井先生は消えてなくなり、今度はそのお姫様が姉さんの形を借りて何かを語りかけようとしているように思えた。

「お姫様は普通にお客をとっていたつもりだったんだけど、もともとがそういう出自だし、器量や気立ての良さもそういう環境でも全く汚されなかったみたいでね、お姫様は吉原の女帝のような存在に祀り上げられそうになってたの」

「そうになっていたというのは、じゃあ実際にには違うんだね」

「うん。お客さんや遊郭の実力者たちの受けが良くても、いまでいう同僚、遊女たちの受けがあまりよくなかったみたい」

 姉さんは寂しそうな顔をしてうつむいた。

「やっかみとかあったかな」

 顔を上げた姉さんはよくぞ言ってくれたといわんばかりの顔をしていたので、僕は一瞬たじろいでしまった。

「お姫様はね、お客がいないとき、ううん、いるときでもぼんやりとあの遠眼鏡を使っていつもそこから見えるお城を見てたんだ」

「お城って自分が住んでいたお城かい」

「ううん。吉原からは江戸城しか見えないから違うんだけど、何も見えないはずの海がある方向に遠眼鏡を向けて、お客さんが何を見ているのか訝しがるまでずっと楽しそうに飽きずに眺めていたんだ。何が見えるんだいと聞かれると、いつでも綺麗なお城が見えるって」

 僕はさっき姉さんが寂しそうな顔をしたわけがわかった。お姫様は昔舞台だと思っていた側の遊郭の欄干に、はだけた赤い襦袢をなびかせながら自分がいたお城を今度は舞台のように眺めていたんだろう。

「それじゃあ、贔屓のお客さんは大目に見てくれても、他の遊女たちには受けはよくないかもしれないね」

「うん。とても気味悪がられていたらしい。それとああいうところだから妙な迷信とか信じる人も多くて、性病が流行ったりとか、仕送りしている田舎で大飢饉があったりとか、そういうことがいつの間にか全部このお姫様のせいだみたいな話になっていったんだ」

「気味が悪いを通り越しちゃったんだね」

「うん。遠眼鏡で見えないお城を見ている時のお姫様はそれこそ昔の本当の大名のお姫様だった時のように神々しかったみたいで、お客にしたらそれも一興、でも遊女たちにとったらほとんどヨーロッパの魔女狩りの魔女みたいな不気味さだったんじゃないかな」

「そっか。男にとっては聖女。でも実際には悪魔と契約した厄災を撒き散らす魔女・・・か」

「実際ね、五十歳過ぎくらいになってもお姫様はどう見ても二十代くらいに見えたらしい。それもこれも・・・」

「遠眼鏡で怪しい妖術を使っていたみたいな?」

 僕は姉さんがなぜ皆川くんやトニー、そして僕の話からこのお姫様の話を連想したのか分かった。

「自分たちとは別の世界を持っている人間。お姫様はね、ある日長時間にわたって拷問のように苛まれた状態で隅田川に浮かんじゃたんだ」

 そっか、やっぱり・・・。

「遠眼鏡はめちゃくちゃに壊されて、バラバラの破片が巾着に入れられてお姫様の首に巻きつけてあったそうよ」




 皆川くんの学校一の脚力
 
 トニーのアメリカ

 僕の姉さん


 お姫様の遠眼鏡・・・。


 僕はそろそろ僕の犯した許しがたい罪を告白する時が来たんだと思った。
ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
0
  • 0円
  • ダウンロード

67 / 133

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント