地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街68 佐藤先輩の開けた箱

「木島先生と春日井先生と青田くん。この部屋にあたしが来る前からずっとかざってあるこの写真の三人はとて仲良しに見える」

「ああ、実際に仲がよかったさ。もっとも現実には俺と春日井先生が付き合ってて、青田くんが微妙な立場だったけどね」

「微妙…。途中から青田くんが春日井先生に思いを寄せ始めてって話ね」

「ああ。春日井先生…春日井さんは…僕は精神科医でも何でもないからよく分からないんだけど【断れない病気】らしくてね。本人がそう言ってたんだけど…」

「優柔不断とは違うんだよね」

「ああ。例えば人から何か相談を受けていると、いつのまにか自分とその人との境い目が無くなっちゃうらしいんだね。」

「どういうこと?」

「いわゆる感情移入のしすぎっていうのかな。僕らもテレビや映画なんか観ていて、知らないうちにスクリーンの俳優に自分を重ね合わせてる事ってあるだろ」

「うん」

「それの極端なやつらしいんだ」

「区別がつかなくなっちゃうの?」

「ああ。でももうちょっと複雑で、例えば誰かが自分に激しく片思いしてるとする。」

「うん」

「自分が片思いされているにもかかわらず、まず相手の片思いに同情しちゃうんだ」

「何か普通はあり得ないよね。それで?」

「私がこの人の苦しみを救ってあげないといけないっていう気持ちで一杯になるらしい。春日井さんの言葉を使うと、その感情に自分が乗っ取られるって言ってた」

「今付き合ってる人がいるのに?」

「ああ、そういうこと。本人は誰も弄んでるつもりはないし、いい気になっているわけでもない。これは多分本当の事だ。嘘はない、どうしてかっていうと…」

「いいよ。分かるから。先生がそれで青田くんに春日井先生を取られちゃったってわけなんでしょ」

 静かに話が続いていた中に、佐藤先輩の優しい笑後が混じった。木島先生も照れたように笑っている。
 最初に二人が木島先生のアパートの部屋にいる光景をみた時は信じられない気持ちがすべてだったけれど、この二人には何か確かな落ち着いた結びつきがあるようにも思えた。

「でもさ、別に先生の過去の思い出にケチつけるわけじゃないんだけどさ」

 佐藤先輩が笑い声の混じった声で続ける。高校をやめたせいもあるのかもしれないけど、陸上部マネージャーだった頃に比べてとても大人びて見えた。木島先生に対してもなんだかすごく余裕が感じられる。それはこのアパートの部屋の二人の間に、そういうゆったりとした時間がいつも自然と流れているからなんだろう。

「何だい?」

「あのさ、先生だって最初に春日井先生に同情されちゃって付き合い始めたのかもしれないじゃない」

「ん?」

「だからあ」

 佐藤先輩はくくくっ笑をこらえながら、芝居かかったような仕草でピッと木島先生のことを指差した。

「ズバリ、春日井先生は誰かのことを思っていたのに先生の気持ちに同情して、誰かを振って先生と付き合い始めたかも知れないってことよ」

「あ!」

 鳩が豆鉄砲を食ったような・・・そんな光景だった。





 隣の姉さんが思わず吹き出した。

 僕も笑い声をこらえた。

 教師と元教え子。最初はびっくりしたけどいい関係だな。僕もねえさんもそう思い始めていた。






 しかし、笑い返すはずの木島先生の声は聞こえてこなかった。少し気まずい沈黙が部屋に流れかかった。



「ごめんなさい。傷ついたの?」

 佐藤先輩が申し訳なさそうに俯いた。

「いや、ごめん。そんな大人げない事じゃないんだ」

 佐藤先輩はホッとしたような目をして「じゃあ、どうして」と小さく口を動かした。どうして突然深刻な顔をして黙り込んでしまったのかということなのだろう。

「春日井さんにとって家出した弟さんだなそういう存在は…もちろん変な意味じゃなくて。弟さんがの苦しみを受け止めきれなかった自分を常に罰し続けてる。僕はどうしてそこに気づかなかったんだろう。そうすればもう少し彼女に別の接し方ができたかも知れないのに…」

「どういうこと?」

「…うん」

「今まですべてバラバラだった事がだんだんと繋がってきた。そうか、だから西村は春日井先生の過去に興味を持ったのか…」

「え?全く分からないよ、西村くんがどうしたっていうの?」

「実はね、今度の競技会で今日西村が病院送りにした皆川が公式にデビューするんだけど、それについて西村がちょとした陰謀を企んでるんだ」

「陰謀をってまた神崎くん絡みの…」

「そう。君が神崎と別れる事になったあの事件の再現だ。何がなんでも神崎を抜かす記録を部員が出さないようにするといううちの陸上部の「護送船団方式」維持の儀式だね。だから君には黙っていようと思ったんだが、今の話で嫌な予感がしてきた。西村はもっと大掛かりな陰謀を企んでるかも知れない…」

「それが春日井先生のこととどんな関係があるの?」

「うん、落ち着いて話を整理しながらしゃべるよ。そうか…二年の君島健太郎を巻き込もうとしていたのにも何か別の意味があるのか?」







 二年の君島健太郎を巻き込む?

「なんか怖いよ。パンドラの箱みたいだ・・・」

 姉さんが不安を隠しきれない緊張した面持ちで僕の手をそっと握った。

地下鉄のない街69 春日井先生の真実?

「どうしても嫌かい。八百長は?」

 木島先生と佐藤先輩の声がすっと消え、西村の声が背後で聞こえた。僕と姉さんは驚いて後ろを振り返った。

 病院?

 包帯で顔の右半分が隠れた皆川くんに西村さんが話しかけている。

「お前はなんのために走るんだい?」

 西村が話しかけても皆川くんは無言だった。

「なあ、皆川。この世の中みんなでつき通す尊い嘘で成り立っていると思わないか?」

 皆川くんの表情が動いた。

「どういう意味です?」

「俺が神崎さんがすごいなって思うのはさ、あの人は自分より早く走れるやつがいるって分かってるのに自分が偽者のスターでいた方が陸上部がうまく回っていくっていうことを知っててその役割やってるって事だと思うんだ」

 穏やかでまるで親友に語りかけるような口ぶりだった。

「お前に宗教ごっこって言われちゃったうちの教団もな、こんなことここだけの話だけど、教団代表の父親も教祖の母親も神様なんて信じちゃいないのさ。それでも信者を騙してるわけじゃない。信者にとっては必要なんだよ、教団も教祖も。あってくれないと、いてくれないと困る。」

「西村さんのご両親と神崎さんは同じだと?」

 無表情な顔で皆川君が答える。ただ少し話に興味がでたようでベッドから状態を起こそうとした。西村が皆川君の脇を抱えるようにしてそれを助けた。

「ああ。顧問の木島先生も同じさ。あの人は高校の時親友を死なせてる。波風立てずにやり過ごせば良かったのに学校や教育委員会と喧嘩して、力足らずにその親友の学校での立場を悪い方向に追いやってしまった。本当の事を訴えるなんていうこと、本当の事を暴きたてることなんてガキのやる事さ。」

「僕が入部する前にも記録を巡って騒動があったそうですね」

「ああ。あの時はマネージャーの佐藤さんが、もうこういうことはやめようって騒いだな。」

「佐藤さんって昔は西村さんと付き合ってたんですよね」

「あれ?誰かおしゃべりなやつがいるんだな。まあ、いいや。付き合ってるというかオレの一方的な思いだったかもしれないけどな」

「尊敬する神崎さんに譲ったってわけですか」

「譲るも何もないわけだけど、神崎さんのしんどさ分かってくれるたらいいなと思ったよ」

 皆川君は少しの間無言だった。

「僕はただ、この高校に自分がちゃんといたっていう思い出が欲しいだけなんですよ。僕もどっちかというと実は人に求められるままに自分の本当の思いとか、自分の姿なんて隠してやってきたんです。いわゆるいじめにあってた状態ですけど、僕はいじめられてるとは思ってなかった。誰か標的が必要なんです。誰でもいいから誰かいじめておけば、とりあえず自分はいじめられない。ある日なんでもないことからいじめられた僕は、次の標的を探してバトンタッチするのはやめようって思ったんです。」

 西村は頷いた。

「ああ。皆川がそういう人間だっていうのは俺はわかってたよ。みた瞬間からな。」

「でもね、春日井先生と接しているうちに思ったんです。あの人と接していると自分の中の、このまま表には出さないでやって行こうと思っていたものが表にでたがってくるっていうか、そんな気持ちになるんですよ。別にカッコつけたいとかじゃないんです。そんな気持ちにさせる人なんです。ああ、そういう風に本当の自分になって生きてみるってこんなに嬉しいことなのかって、大げさにいえば生きてる実感がもらえるんですよ。春日井先生の笑顔をみてしゃべっていると」

 西村が立ち上がって病室の窓の方にやってきた。

 窓の外から見ている僕と姉さんは一瞬ドキッとしたが、どうやら気がつかないらしい。

「じゃあ、俺も皆川が知らない真実とやらを一つ教えようか」

「何です?」

「春日井生が数えきれないほど男子生徒との色恋沙汰の問題行動を起こして、その度ごとに学校を追われてこの学校にやってきたということ。この学校に限ってみても君の前にそういう問題を引き起こして厳重注意受けて自宅で謹慎していたという時期があったという真実さ」


 皆川君がかすかに震えて、少し引きつった顔で唾を飲み込もうと喉仏を動かそうとしているのが見えた。

「佐藤さんが陸上部と学校を辞める結果になったこと、その後君は知らないだろうが木島さんと暮らしているということ、その引き金になったのは…」

「僕の前に、神崎さんよりいい記録出そうとしたというのは…」

 西村はまた親友に接するようなに笑いかけた。

「そう。そいつも保健室が大好きだった」

地下鉄のない街70 『地下鉄のない街』

 踏切の音がする

 あの時の金属音もだ

 だんだん大きくなってくる…。

 また…か?


 電車の長く持続する急ブレーキの音が警笛の絶望的な低音と混じり合った。踏切のカンカンという音が誰も踊らない舞踏の伴奏をしているかのように滑稽に鳴り続けている。

 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。



 姉さん?

 逃げよう

 ここは危ない。

 あの時の神田の踏切だ。

 何やってるんだよ姉さん、向こうを見てないでこっちを向いてくれ!




 トニー、父さん、母さん、何でみんなここにいるのさ?

 とにかくここは危ないんだ。

 もうすぐ列車がここに突っ込んでくる。

 ダメだってば、踏切をくぐっちゃ!



 木島先生、隣にいるのは…もしかして先生の高校時代の親友だった青田君?君からも言ってくれ。そうだよ、ここは君が身を投げたあの踏切だ。

 何だってみんなこっちに来ようとするんだよ。集団自殺でもやらかそうっていうのかい?

 神崎先輩、西村さん、佐藤さん…。どうしたんですか?涙まで浮かべて…。「ありがとう?」僕がですか?何のことだかわかりません、それよりこっちに来ちゃだめです!

 春日井生の横にいる白衣を着たあなたはあなたは?やっぱり春日井生の弟さんか?「心配いらないって?」あなた何者なんですか?みんな列車に轢かれて死んでしまうんですよ!!




  電車の長く持続する急ブレーキの音が警笛の絶望的な低音と混じり合った。踏切のカンカンという音が誰も踊らない舞踏の伴奏をしているかのように滑稽に鳴り続けている。

 



 姉さん!みんなに避難するように言って!

 下を向いて何をやってるんだよ。





 僕は姉さんの肩を荒々しくつかんでこちらを向かせた。

 姉さんは何か分厚いファイルのようなものを読んでいたらしい。

 姉さんの大粒の涙が頬を伝ってファイルの読みかけのページににポタリポタリと落ちた。



 ファイルを取り上げて表紙を見る。

 『地下鉄のない街』





 目次…。

 これまでの僕と姉さんの不思議ない世界の旅、タイムトラベルによって見聞きしてきたものが、どうやら順番に書いてあるらしい。

「姉さん、これは一体?」

 僕は頭が変になりそうだった。

 今こうして経験していることが、活字になって存在しているってどういうことだ?

 目次は今までの出来事が順番に章立てで並んでいる。

 最終章は「君島健太郎からみんなへ」とあった。

 この少し前に「春日井先生の真実?」という章がある。さっきの出来事はもうこのストーリーの終盤らしい。

 僕はその途中の章の「春日井先生の真実?」というページを震える手でめくってみたここには、今僕と姉さんが途中まで聞いた西村と皆川君の会話が…?


 あった。

さっきの出来事までが書いてあり、その先は白紙のページがただ続いていた。


 一体この『地下鉄のない街』っていうファイルは何なんだ…?




 「あ!」

 鈍いブレーキの制動音とともに列車が突っ込んだ。





 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。


「みんな無事か!?」

 僕は薄れゆく意識の中でみんなの声を聞いた。






「ああ。無事だよ。本当にありがとう、健太郎君」

  




 

地下鉄のない街72 交差する時空間

「眠りって…この世界は現実じゃないのかい?」

 皆川君は僕の問いかけに静かに微笑した。そうだとも頷かず、首を横にも振らなかった。

 じっと僕を見つめる皆川君の目の焦点からぼんやりとピントを外すと、僕は意外なことに気がついた。

「ねえ、皆川君。君は皆川君には違いないけど、高校生の皆川君じゃないね。さっきは気が動転していて分からなかった。若々しいけどもうしっかりした大人だね。」

 皆川君は今度はゆっくりと頷いた。表情は僕がそのことを分かったことが嬉しそうでもあり、そして不思議なことに同時に悲しそうでもあった。



「君がさっき後ろ姿をみた君のお姉さんも、それまでの高校生のお姉さんではないよ。もっとずっと後、君がサラリーマンになってある日神田の街から地下鉄が消えてしまったあの頃の年齢さ」

 じゃあ、姉さんも皆川君が自殺せずにそのまま歳を重ねたのと同じように、もし生きていたとして、さっきの後ろ姿の姉さんは三十代前半ということになる。




「高校生の君が保健室の前で西村さんに殴られそうになった時、僕は高校生の自分自身を廊下の影からみたよ。それと同じように、20年後の皆川君や20年後の姉さんが、高校時代の僕たちを観ているというのかい?」

 皆川君は何度も小刻みに頷いた。面倒な話がすっと伝わってホッとしたといった感じだった。

「そうなんだ。次にこのファイルを書く春日井先生もあれから20年後の先生なんだよ。だからすごく綺麗ではあるけれど、もう熟女だね」

 僕はあの春日井先生のことを皆川君が熟女なんて形容したことがおかしくて、笑出してしまった。皆川君もおかしそうに笑った。

「さっき君にありがとうって言ってた人たちも、それぞれに歳を重ねてる」




 僕はふとさっき皆川君が書いていた『地下鉄のない街』の一節を思い出して口にしてみた。

「『観ることは赦すこと』ってあったね。大人になった僕たちが、高校生の頃の僕たちを観ているのかい?」

「そうかも知れないね…」

「何を赦す?」

「……。すべてさ」

「最後にわかるのか」

「ああ。まるでミステリー劇場だね」

「なんとなくハッピーエンドではなさそうで怖いけど…」

「すくなくともアガサ•クリスティの『そして誰もいなくなった』みたいなことはないよ。」

「そう願いたいね…」





 皆川君が『地下鉄のない街』のファイルをそっと僕に渡す。書いてある最後のページをめくると白紙のページの中に病院の風景が浮かんで来た。西村はもう帰ったようだ。皆川君が夕暮れの日差しの中、ひとりポツンと小さな文庫本を手にしていた。
 
 題名は見えなかった。

 ドアのノックの音がして高校生の包帯まみれの皆川君が「どうぞ」と言った。お客さんがくることがわかっていたらしい。

 背中しか見えなかったけれどすぐに分かった。若い頃の春日井先生だ。




「遅くなってゴメンなさい」

「いえ、いいですよ。暇だったんで読みかけの推理小説を読んでました」

 皆川君はベッドの布団の上に分厚い小説をぽんと放った。

 クリスティの『そして誰もいなくなった』だった。






 僕の横に成人した皆川君はもういなかった。

 手元の『地下鉄のない街』もいつの間にかなくなっていた。

 姉さん?

 「ここにいるよ」

 暖かい掌がすっと僕の手を上から包んだ。
ゆっきー
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