地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街51 地の果ての水底のぬくもり

 僕はしばらく口がきけなかった。

 姉さんの口から語られた西村のラブレターの内容は恐ろしいほど正確だった。僕は単なる腰巾着だと思っていた西村の洞察力や観察眼に舌を巻いた。少し歪んでいる感じはするものの、その心の底、地の果ての水底に流れている西村の絶望を理解した。そしてその絶望に身を浸しきってしまうことから西村なりのやり方で身をかわす、ぎりぎりの研ぎ澄まされた生死を掛けたセンスのようなものを痛いほど感じた。

 そのセンスは言うまでもなく哀しかった。その哀しさは姉さんも理解するところだったと思う。だから、姉さんが西村を疎んじながらも、西村を理解していたことは間違いない。僕はそう思った。



「まあ、そういう内容だったわけ」

 姉さんは話し終わると、ベッドの上で膝を少し折って両手をその膝の上に置き、マーメードラインのベージュのスカートの先にのぞく自分の靴下あたりに焦点を当てて静かにそう言った。

 そしてこちらを向いて隣に座っている僕の目を見た。表情には果たして西村に対するいたわりのようなものが感じられた。


「西村さんも大変だったんだね」

 僕は姉さんの気持ちを口に出してみた。

「そうだね」

 姉さんは静かに同意した。

「健太郎は憎んでないの?」

姉さんは僕から目を逸らして、もう一度自分のきちんと揃えた両足の先に視線を落としてそう言った。

「誰を?」

 姉さんが喉の奥で少しだけ笑う。

「みんなのこと。あたしも含めて。あの時もっと何かできたのかもしれない」

 また何も言わずにまた喉の奥でかすかに笑った。今度はそこに深いため息が混じっていた。




 次は僕の番だ。

 もう気がついていることだよね。ここで会うまでは姉さんも知らなかったこと。僕たちの父親が西村のところに持って行った大きめの茶封筒に何が入っていたか。

 それを使って僕たち……僕、姉さん、僕たちの父親と母親、トニー、春日井先生、木島先生、神崎先輩、皆川くん…。そして西村自身と彼の教団。その人生と運命のすべてを西村が自分の手の中でどうやって書きなおそうとしたか。

 人間が人間の運命を書き換える?そんなことが可能なのか?それは結局どんな結末を迎えたか?

 一つだけわかったことがある。西村は少なくとも悪意でそれをやったわけではなかったんだね。それを許せるかどうかは別として。

 姉さん、僕はわからなくなってきたよ。僕が知らないところで世界は動いていた。どうしようもないくらいこんがらがって、いつしか誰が悪いのかも問えないくらいに。



   僕たちは、誰かを憎めたらいいのにね…。

   うん、僕も姉さんも、父も母も。

   トニーも春日井先生も木島先生も神崎先輩も。

   皆川くんも・・・。

   地下鉄を見えない路線が入り組むように誰かを感じるのではなくて

   踏切の音の中に人間の悲鳴を聞けたらよかったのに・・・




「誰も憎んでないのかもしれない」

 僕は、姉さんのきちんと揃えられた両足の先に視線を向けてそうつぶやいた。

「少なくとも、誰も悪くないようだ」




 姉さんは膝の上に組んだ手を崩し、右手でそっとぼくの手を握ってきた。

 思い出した。

 地の果ての水底の水は、とても暖ったかかったんだ。






 悪いのはおまえじゃない
 悪いのは、だれでもないんだ
 誰も悪くない
 だから誰も責められない

 ほんの冗談
 冗談を誰も責められない
 おまえもそうだよな
 冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ

 自殺はしないよ
 自分のためじゃない
 おれが自殺したら、お前が困るだろ
 悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ

 どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
 おまえにこういえたらどんなに楽だろう
 でも、誰に言ったらいいんだろう
 いつもおれをいじめるおまえか?

 ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
 だれににやらされているわけでもない
 やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
 相手のいないところへ向かって自己主張はできない

 敵はどこにもいないんだ
 ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
 何かをすることは不毛なんだ
 悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない

 しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
 何も考えていないとは、だれもいえない
 たとえ、何も考えていなくても
 何かしゃべらないといけないように

 だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
 だれもいないとは誰もいえない
 たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
 だれかを標的にしないと生きていけないからね

 黙っていることができるところ
 姉さん、あなたはこの世の中で唯一の場所だった
 でも遠いところに行ってしまったね
 いつか、教えてね 死ぬことの意味を …

ドア

地下鉄のない街 50 食卓の蟹

「ご、こご、ごめんな、さあ、さい。も、もうど、吃りま、せん」

……………………………………………………………………………

 お父さんは、僕にその直後の健太郎くんの様子を語ろうとして激しくどもった!

 数十年の慙愧が封印された塊を内側から粉砕する恐ろしい情念のマグマが、血を煮詰めた様などす黒い、いやどす赤いどろっとした粘り気を含んだ血飛沫となってお父さんの口から出て来た。それは健太郎くんの言葉でありながらも、お父さんがたぶん果たせていなかった、自分がからかった吃音の級友へ向けた言葉でもあったのかもしれない。

 そう…

 それは、お父さんの口を経由した、お母さんに叫び声をあげて責められた健太郎くんの一世一代の、渾身の力を振り絞って発した人生を賭した純粋な言葉だった!いや、そのはずだった…。



 健太郎君の、すべてのいわれない罪を引き受けようとする、およそあたう限り高貴で純潔な心は、口を開くことを強いられて無理に引き出された途切れた言葉の中に粉々に消し飛んだ。

 誰も悪くない…。




 ただそこに、何のゆえをもって突きつけられたのかも人間には理解できない様な恐ろしい吃音の亡霊が降り立ち、息子の口を通じ、息子の声色となってその時の家族の棲家を支配した。



 僕は我知らず、教団が駆け込んでくる半狂乱の信者さんを宥めるために、母がいつも口にする聖書の一説をお父さんに発していた。マタイ伝の第十章だ。


………………………………………………………………………………………………

私が来たのは、地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。

私は平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

私は人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。

家族のものがその人の敵になります。


私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしいものではありません。

また、私よりも父や母を愛するものは、私にふさわしいものではありません。

また私よりも息子や娘を愛するものは、私にふさわしいものではありません。



………………………………………………………………………………………………



 僕自身自分がわからなくなっていた。

 常に反発を感じていたあの教団の根本思想。

 ありもしない偽の家族を解体し、教団の母を頂点とした大きな宗教的家族をこの世の理想郷として創生すること。

 あの教団は家族の神話が崩れてしまった人たちに、家族を捨てさせる場所なんだ。



 だから、僕は生まれ落ちた時から家族を持たなかった。だってそれは、大いなる教団が真っ先に捨て去るべきものとして糾弾する対象だったから。

 父や母の朗らかな笑い声も知らず、父の威厳も母の甘やかしもない場所。あるのは、父たるを辞めた教団の宗教法人上の代表者と、母たるを辞めた全信者の教組。そして行き場所のない僕…。

 父は自分の運命を呪い、自分の分身である僕の存在に我慢がならず、僕をいつも理由なく虐待していた。でも、ある時期からそれもしょうがないと思った。

 ただ、そのことの辛さだけは母にはわかって欲しかった。口に出してその辛さを訴え、その不条理を説明して欲しかった。

 母は時々顔に残った僕の殴られたあざを優しく撫でてくれた。不思議なことに痛みはいつでも母の掌の温もりにすっと遠のいた。



 でも口を開こうとすると、そっと優しく首を振った。

 そうさ…

 俗世の家族を超越しているはずの教組の家に、家庭内の虐待などあってはいけなかったから。僕は静かに首を振る母親もまた何かに耐えているんだと思った。

 最初世間話の様にお父さんの口から君のお家のことを聞いた時には、ああ、父親をそっと立てながら、父親が教導して行く普通の家族ってやっぱりいいなと思ったよ。僕の憧れる、顔のあざをさすりながらテレビで見た『坂の上の雲』の明治の家族。父の権威を守り、子に対して父の威厳の尊重を説く母親…。

 でも、泣きながら妻も息子も悪くないんだと懺悔するお父さんを見ていて、僕は教団の教えにも真理はあるのかもしれないと思わざるを得なかった。

 偽の家族はそれ自体がひとつの大きな罪であると。




 お姉さんの君は無言で立ち上がると、弟さんの手を引いてその部屋を出て行った。





 翌日、健太郎くんは部屋に引きこもる事もなく、夕食の時にきちんと家族の前に顔を出した。再び謝ろうとして口を開こうとした時、それを制する様にお父さんが健太郎くんに手をついて謝った。

『すまなかった』




 食卓にはお母さんの準備した、家族の仲直り、再生のためのご馳走が並べられていた。

 食べきれないほどの、山盛りの蟹。

『息子の小さい頃からの大好物なんです。妻も罪責感があったのでしょう。山のように積んでありましたよ』



 お父さんは落ち着いてきて涙を拭きながら朗らかに言った。

地下鉄のない街 56 『東方暁の雫』

「あっ」
 僕は思わず後ずさった。母さんがすっと立ち上がったかと思うと、モニター越しに僕たちを睨んで、ずんずんとこちらに寄って来たからだ。

「見つかっちゃった」
 心臓の鼓動が一瞬で上がった。僕は小さく叫ぶと思わず姉さんの手を強く握った。姉さん顔にもサッと緊張が走った。

『由紀子と健太郎…』
 こちらを向いて母さんが声を出した時、身構えるように姉さんが僕の手をきつく握り返した。

 すっと画面から母さんの顔が消えた。

『…あの二人がおかしな事になっているのよ、あなたがだらしないせいで…』
 脱力してソファにもたれかかっている父さんのところまで戻ると、母さんはビデオテープをテーブルの上に置いた。気づかれたのではなく、隠しカメラのすぐ脇に置いてあったのを取りにきたらしい。
 一つの緊張が去ったその瞬間、また別の緊張が僕たちを襲った。

「何だこれは」

「観たら分かるけどまあ、それは後でいいわ。ショックだろうし。簡単に言うと、あの二人が時間をかけて抱き合ってる映像よ」

 持って回った言い回しだったけど、父さんは理解したようだった。必死に何かを言おうと、微かに体を動かしたり手を額に持っていったりしばらく言葉を探しているようだった。

「何でこんなものがあるんだ」
 やっとの思いで振り絞った声は少し震えていた。怒りというよりは困惑、いやほとんど呆然として見えた。

「だからあなたが父親らしくこの家を回して行くのに失敗したからよ」
 悠然としてそういう母親が恐ろしかった。

「俺が聞いているのはなぜ…。いやいい、もっとはっきり聞こう。お前はなぜこんなものを撮影したんだ」

 姉さんと握った手は汗ばんでいた。なぜなんだ?

「穢れを清める事が必要だと言われたのよ。穢れを封じ込めてしまうことが必要だったの」

「誰に言われたって?」

「ミカミ様よ」

「何?ミカ…?三上?」

「『東方暁の雫』の教祖、御上様よ」



 僕は混乱して姉さんの手をぐっと引き寄せた。
「姉さん…」

「何?大丈夫?」
 姉さんは人差し指で僕の額の汗をそっと拭いてくれた。

「『東方暁の雫』……。西村のところの宗教団体だ」

 姉さんの瞳孔がさっと開いた。

地下鉄のない街 49 母の叫び声

 お父さんは弟さん、健太郎くんを救急車で運ばれるほど殴ったことがあったんだってね。お父さんはその事を随分後悔していたよ。

 きっかけは健太郎くんが漫画に出てくる登場人物を何気なく真似て、お父さんの前で吃りの真似をした事だったそうだね。もちろんお父さんをからかったわけじゃない。実のお姉さんにはわかり切った事で僕がそんな事をいうのもおかしいけど、健太郎くんは絶対にそんな事をする種類の人間ではない。むしろそこから一番遠くに生きているやつだと思うよ。
 それにお父さんは自分が吃音で若い頃に苦しみ抜いた事は、子供達にもひた隠しにしていた。他人の僕に対してそんな事をしゃべりながら変な話だけど、家族にもひた隠しにしてたことの反動なのかもね。
 僕はそんなことをふっと思ったんだけど、お父さんがすこし照れたような顔をしたよ。あるいは僕の考えたことが僕の表情に出たのかもしれない。いずれにせよ、お父さんの表情は僕の推測が当たっていたことを示していたと思う。

 僕も曖昧に笑った。その時、何だか僕とお父さんは少し何かを共有し始めたようだった。

 それはそうと、弟さんにしてみたら、いきなり平手打ちを食らってわけが分からなかったというところだろうか。

 お父さんは若い頃に吃音の級友を集団でからかうために、その子の前で吃りの真似をしてたそうだ。なんとなくそうすることが雰囲気的に普通だったそうだよ。特にその子に落ち度があったわけでもない。今のいじめと同じだね。
 罰が当たったという教訓ばなしとしては出来すぎなんだけど、お父さんはいつしか、演技じゃなくて自分自身が本当の吃音者になってしまった。
 でもそこからのお父さんの半生はありきたりの一言では多分片付けることはできなかっただろうと思う。好きな女の子に愛の告白して気持ち悪がられたり、就職試験の最終面接にことごとく失敗したりと、努めてたんたんと話をしていた様に見えたお父さんだけど、最後の最後に僕の前で多分何十年ぶりにはっきりと吃ってしまった。

 例えば薬物に慣れ親しんだ自分の過去の汚点は、少しでも他人が吸引している煙の中に含有されたそれを見逃さない。何十年経っていてもその瞬間に体は禁断症状を誘発する。お父さんもまさかという雰囲気だった。それで何十年ぶりの事なんだろうって僕はそう思った。
 僕は吃音患者の宿痾を見てしまった。もっともお父さんの表情そのものは恐くて顔をあげることができずに見れなかったよ。
 
 お父さんにしてみたら、たとえ漫画の中に出てきた登場人物の真似であるにせよ、自分の息子が自分と同じ苦しみを背負って生きて行くいくことを見逃すわけにはいかなかったということのようだった。
「冗談にもそんなことをするんじゃない」そんな気持ちで叩いた。そうおっしゃってたよ。そして気がついてみたら健太郎くんは口や鼻、耳からも出血して自分の足元に倒れていた。

 一日入院して翌日家に帰ってきた健太郎くんはしばらくとても無口な少年になったそうだね。ほとんど言葉を忘れてしまったかのように。無理もないと思う。
 お父さんが悪かったと言って、自分が吃音に苦しんでいたことを告白し、家族全員の前で自分の過剰反応謝ったけど、健太郎くんは一言も口を利かなかった。今にして思えば、沈黙の真相は健太郎くんの怒りではなくて、口を開こうにも言葉が出てこなかったというところだろうって、お父さんは言っていたよ。
 でもその時はその沈黙が、自分が招いたこととはいえ、お父さんは死ぬ程しんどかったと言っていた。言葉が喉の奥深くで死滅した沈黙は、自分の過去からの過ちを突きつけるフラッシュバックの窒息しそうな拷問の時間だった。

 全員が沈黙した状態は永遠に続くかと思われた。

 沈黙を破ったのは、お母さんの部屋の空気をつんざくようなヒステリックな大声だった。



 「お父さんがこれだけ謝っているのに無視するとはどういうことなの!」

 最悪だね。

 でもお母さんはいつだってお父さんをたてる賢妻だったからね。


 その一言は、沈黙をより一層決定的に深く、決して取り返しのつかない程どす黒い染みのようなものにしてしまった。

 君がよく知っているように…。
ゆっきー
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