僕はしばらく口がきけなかった。
姉さんの口から語られた西村のラブレターの内容は恐ろしいほど正確だった。僕は単なる腰巾着だと思っていた西村の洞察力や観察眼に舌を巻いた。少し歪んでいる感じはするものの、その心の底、地の果ての水底に流れている西村の絶望を理解した。そしてその絶望に身を浸しきってしまうことから西村なりのやり方で身をかわす、ぎりぎりの研ぎ澄まされた生死を掛けたセンスのようなものを痛いほど感じた。
そのセンスは言うまでもなく哀しかった。その哀しさは姉さんも理解するところだったと思う。だから、姉さんが西村を疎んじながらも、西村を理解していたことは間違いない。僕はそう思った。
「まあ、そういう内容だったわけ」
姉さんは話し終わると、ベッドの上で膝を少し折って両手をその膝の上に置き、マーメードラインのベージュのスカートの先にのぞく自分の靴下あたりに焦点を当てて静かにそう言った。
そしてこちらを向いて隣に座っている僕の目を見た。表情には果たして西村に対するいたわりのようなものが感じられた。
「西村さんも大変だったんだね」
僕は姉さんの気持ちを口に出してみた。
「そうだね」
姉さんは静かに同意した。
「健太郎は憎んでないの?」
姉さんは僕から目を逸らして、もう一度自分のきちんと揃えた両足の先に視線を落としてそう言った。
「誰を?」
姉さんが喉の奥で少しだけ笑う。
「みんなのこと。あたしも含めて。あの時もっと何かできたのかもしれない」
また何も言わずにまた喉の奥でかすかに笑った。今度はそこに深いため息が混じっていた。
次は僕の番だ。
もう気がついていることだよね。ここで会うまでは姉さんも知らなかったこと。僕たちの父親が西村のところに持って行った大きめの茶封筒に何が入っていたか。
それを使って僕たち……僕、姉さん、僕たちの父親と母親、トニー、春日井先生、木島先生、神崎先輩、皆川くん…。そして西村自身と彼の教団。その人生と運命のすべてを西村が自分の手の中でどうやって書きなおそうとしたか。
人間が人間の運命を書き換える?そんなことが可能なのか?それは結局どんな結末を迎えたか?
一つだけわかったことがある。西村は少なくとも悪意でそれをやったわけではなかったんだね。それを許せるかどうかは別として。
姉さん、僕はわからなくなってきたよ。僕が知らないところで世界は動いていた。どうしようもないくらいこんがらがって、いつしか誰が悪いのかも問えないくらいに。
僕たちは、誰かを憎めたらいいのにね…。
うん、僕も姉さんも、父も母も。
トニーも春日井先生も木島先生も神崎先輩も。
皆川くんも・・・。
地下鉄を見えない路線が入り組むように誰かを感じるのではなくて
踏切の音の中に人間の悲鳴を聞けたらよかったのに・・・
「誰も憎んでないのかもしれない」
僕は、姉さんのきちんと揃えられた両足の先に視線を向けてそうつぶやいた。
「少なくとも、誰も悪くないようだ」
姉さんは膝の上に組んだ手を崩し、右手でそっとぼくの手を握ってきた。
思い出した。
地の果ての水底の水は、とても暖ったかかったんだ。
悪いのはおまえじゃない
悪いのは、だれでもないんだ
誰も悪くない
だから誰も責められない
ほんの冗談
冗談を誰も責められない
おまえもそうだよな
冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ
自殺はしないよ
自分のためじゃない
おれが自殺したら、お前が困るだろ
悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ
どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
おまえにこういえたらどんなに楽だろう
でも、誰に言ったらいいんだろう
いつもおれをいじめるおまえか?
ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
だれににやらされているわけでもない
やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
相手のいないところへ向かって自己主張はできない
敵はどこにもいないんだ
ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
何かをすることは不毛なんだ
悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない
しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
何も考えていないとは、だれもいえない
たとえ、何も考えていなくても
何かしゃべらないといけないように
だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
だれもいないとは誰もいえない
たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
だれかを標的にしないと生きていけないからね
黙っていることができるところ
姉さん、あなたはこの世の中で唯一の場所だった
でも遠いところに行ってしまったね
いつか、教えてね 死ぬことの意味を …