地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街 48 献身する母親

 君のお母さんは普段からお父さんを大変に立てていたみたいだね。僕はね、そういうのに素直に憧れる。強い父って僕の憧れなんだ。明治の素朴な家父長制の家。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に出て来るみたいなさ。

 父親であることって大変なことだと思うんだ。

 戦前は女性が家に縛られていたっていうけど、それはどうかな。間違いだとは言わないけれど、とても一面的なものの見方だと思うのね。だって家に縛られていたのは女性以上に男性だから。これは間違いなくそうさ。旧弊な家を飛び出すことは女性のように自立とはもてはやされず、単なる家業の責の放棄でしかなかった。例えば文筆で身を立てようなどとすれば家から放蕩息子の烙印を押されて当然だったよね。

 それでも昔のお父さんは、それがフィクションであったとしても家長としての威厳とか立場の尊重という、一家の母から支えられる立場というものがあった。最終的には、「お父さんに決めていただきましょう」というお母さんの魔法の言葉ですべてがしっくり行く。そんなそんな世界は実在してたよね。

 戦後はこのお父さんは、そういう母たる存在からの後ろ盾のないままに依然として強い父親らしさを求められてるんだ。拳銃を携行できない保安官、警察官の哀しさ、つらさと言ってもいいんじゃないかな。大変だよね。都合のいい時だけ父親の役割背負わされてさ。

 ああ、何でこんな話になるかも書かないといけないね。

 うちはね、父親がいないんだ。いや、いることはいるんだけど存在として去勢された状態なんだよ。
 うちの教団はね、曽祖母が開祖したんだけど、それ以来ずっと教組は女が務めるんだ。僕の母親、つまり今の教団の代表ももともとうちの教団の信徒だった。父親は一番教祖として見所のある人を掟に従って妻にしたわけ。だからね、一言でいうと情けない単なる種馬なわけ。信者からも格下に見られ、イベントの時なんか広報や教務の部長連中からさん付けで呼ばれて雑用やらされたりとかね。自分の教団の金も一切自由にはならないし。
 前にこんなことがあったんだ。お布施みたいのをイベントで集めた時、集金係だった父親が最終計算しても寄付されたお金の計算が合わなかったことがあってね。たしか二万円くらい。それを小遣い欲しさに父親が集金の時にネコババしたんじゃないかって信者からつるし上げにあったことがある。さすがにこの時は見かねた教団の部長連中がかばってたけどさ。

 ま、そんなわけで強い父親像っていうのに憧れたりしちゃうのね。だってさ、大して好きでもない父親だけど、ありゃあんまりだよなって思うから。なんかこう…ね。

 まあ、自分がその同じ立場に一直線にレール引かれてるってこともあるんだけど。ははははははははははは…。はは…

 だからね、君のうちっていいな~って思ったわけ。


 ところで君のお父さんは若いころ、ずいぶん吃音で悩んだそうだね。

 お母さんが献身的にお父さんを支える存在となっていったのはそのことが大きいんだよね。

 お父さんはそんな風におっしゃってたよ。

地下鉄のない街 54 姉さんの部屋で

「目が覚めたかな」

 僕はベッドの上で跳ね起きた。確かさっきホテルの窓から僕たちの住んでいた部屋を姉さんと一緒に見てたはずだ。そして、遠眼鏡から覗いた先には横にいるはずの姉さんがいた。窓から手を振って、まるでこちらが見えているみたいだった。いや、思い出したぞ。見えていたんんじゃなくて、見たんだ。同じ遠眼鏡を使って。秘密を覗き込んだ僕たちの遠眼鏡が、もう一度あちら側の姉さんから覗き込まれたんだ。

 そして僕は気が遠くなった。

「姉さん?」

「気がついたね」

「ここは僕たちが住んでた家の二階?」

 僕は部屋を見渡した。オーディオの装置と、その横白い本棚。棚の中には隣の僕の部屋と行ったり来たりする二人のお気に入りの小説家の本が並んでいる。

「そうだよ。久しぶりだね」

 姉さんはさっきまでそばにいた姉さんだけど、服が違っていた。出かけの服ではなくて、白いチュニックのようなラフな普段着だった。クローゼットの取っ手には僕たちが通っていた学校の女生徒用の制服が掛かっている。さっきまで着ていたのだろう。

「父さんと母さんは、下に居るわけか」

 僕はやっと頭の整理がついてきた。あの話の続きならば、今父さんと母さんはあのビデオテープの話をしている事になる。

「今日は何日?いや、日にちを聞いてもしょうがないな」

「うん。健太郎がお父さんに叩かれて入院しちゃった日だよ」
 姉さんは窓のさんに腰を掛けてこちらを見て言った。

「ああ。そうか、あの日か」

 父さんが吃音で苦しんでいたと知った日。つまり僕がそれと知らずに漫画に出てくる吃音の少年の真似を父さんの前でしてしまった日だ。口の中の血の感触を思い出して僕は舌で口の中を舐めてみた。

 話が聞けるわけか…。僕は小さくつぶやいた。もちろん知りたくもある。でもやはり怖い。これ以上知らない事を知ってどうなるというのだろうか、そんな気もしないでもなかった。

「あたしはどっちでもいいよ」
 姉さんは僕のこころの中のつぶやきを引き継ぐように言った。

「いや…。姉さんは怖くないのかい」

「まあね。でも知りたいんだ。」

「うん」

「違う。何を話していたのかもだけど、何であたしたちがこうして二人揃ってこういう体験をし始めたのかってことを最後まで知りたい」

 真面目な顔をして姉さんがそう言った。

「分かった。そうだね。僕もそう思う。でも下の声をどうやって聞くんだい?」

 姉さんは本棚の上にある小型のモニタを指差した。さっきまでは、そんなものはそこになかったはずだ。

「今のあたしはさっきまではこの部屋にいた学校から帰宅したばっかりのあたしと入れ替わってるの。だから少し不思議な力も使える。」

「ああ」

「と言っても大した事じゃない。お母さんの鏡台の棚に隠してあったモニターを貸してもらった。応接間には前からビデオカメラが仕掛けてあったみたいだからそれを使えばいい。下の様子はここに居ても良くわかるよ。」

 僕は姉さんの言っている事を理解した。母さんだったのか、ビデオを撮影したのは…。

「びっくりしたよ、あたしも…。この部屋にいたあたしと入れ替わった後、健太郎がまだ気絶している間に頭の中に声がしたのね、あたしの。寝室の鏡台の棚の奥だって…」

 それが、これだったのか。

「いいよね」

 僕が頷くのを待って姉さんがモニタのスイッチを押した。

地下鉄のない街53  遠眼鏡で見る僕たち

「何が見えるの?姉さん」

 姉さんはベッドから身を起こして窓際に行って真っ暗な外を眺めている。僕は姉さんの背後に近づいてそう言った。

 外は真っ暗だった。

 東京神田の高台から観る深夜の景色がそんなに真っ暗なのは変だと思った。この方角だと大手町のオフィス街や霞が関の官公庁のビルのあかりが灯って見えるはずだった。



「そっと行ってみようか」

 姉さんは窓から見える暗がりを見ながらそう言った。

「行くってどこへ?これから深夜の東京の街を散歩しようっていうのかい」

「違うよ。お父さんとお母さんがお話ししてる所」

「え?どこだって?」

「ここから見えるよ。今、二人で応接間で何か話ししてる。」

 姉さんは静かにそう言った。僕は姉さんがショックでおかしくなってしまったのではないかと慄然とした。



「おかしくなってなんかいないよ」

 姉さんは僕の気持ちを見透かすようにそう言って振り返った。部屋の中はベッドぎわの小さなスタンドしか明かりがなかったのでよくわからなかったのだが、姉さんは小さな骨董品屋に置いてあるような小さな双眼鏡、双眼鏡というよりは遠眼鏡といった方がよいような物を手にしていた。

「姉さんが話してくれたお城のお姫様が持っていた遠眼鏡なの?人から聞いたお話じゃなかったのかい?」

 僕はさっきお姫様の事を連想した自分を思い返した。

 姉さんはそれには何もこたえなかった。

「これで見るとね、二人が深刻そうに話しているのが見えるよ。テーブルの上にはビデオテープが置いてある。それを挟んで二人がうなだれてボツボツ話をしてる」

「本当に?」

 姉さんは暗がりの中で僕を自分の右側に引き寄せ、ピッタリと方を合わせるようにして遠眼鏡の右側を僕の左目にあてがうようにして肩を抱いた。
 一つの遠眼鏡の右側を僕の左目が、遠眼鏡の左側は僕の左脇に寄り添った姉さんの右目が覗く格好になった。
 不自然な格好に焦点が合わなかったが、「ここよ」と姉さんが遠眼鏡の焦点を定めた先には、確かに父と母がいた。僕が中学の頃の若い父と母だ。神田の会計事務所に行った時にすれ違った時には、あり得ない事にそれとは気がつかなかった、歳若い父親が頭を抱えてうなだれている。母親は落ち着きなく立ったり座ったり、窓際に立ったりしている。この遠眼鏡はそんな母の表情のまですべて観ることができた。母が窓際に立つたびに何度か目が合ったような錯覚を覚えて、僕は不安になった。

「今見える父さんと母さんは、もちろん僕たちがこうして見ている気事には気がつかないわけだよね」

 姉さんは少し笑った。今度はさっきみたいな嗚咽を喉元で殺したような笑ではなくて弟をあやすような、やさしい笑い声だった。

「そんなわけないじゃない。双眼鏡なしに向こうから見たらあたし達は東京の海の中の芥子粒よ」

「あ、いや、そういう事じゃなくて…。いや、それは確かにそうなんだけど、こっちの世界とあっちの世界は繋がっているのかい?」

 僕は混乱していた。

「うん、そういう意味か。確かに時間が少しゆがんでるね。あの二人がいる空間は今のあたし、踏切事故で死ぬ前のあたしが生きている時間だから、あたしとあの二人はつながっている。でもそのあたしは今こうして未来から来ている健太郎と一緒にいる」

「ああ」

「だから少しおかしな事が起きてる。あのさ、一階の応接間の真上はあたしの部屋だよね」

「うん」

「そっちに遠眼鏡を向けるから、あたしが動くのに身を任せていて」

「分かった」

 僕は姉さんが言うままに、一階の応接室を見たまま体の力を抜いた。ゆっくりと、遠眼鏡の角度からしたら多分ほんの数センチ上方に体を仰いだ。応接室が視界から消え、世界は真っ白に変わった。多分これは僕たちが住んでいた家の壁の色だろう。その白い壁に上の方から何か異物が入り込んでまたすっと消えた。

「おっと、行きすぎた」

 姉さんはまた少し僕の右肩を抱きながらわずかに遠眼鏡の角度を下げた。

「ああ!姉さんがこっちを見てる」

 僕は思わず大きな声を出してしまった。なぜなら向こうの家にいる姉さんは、窓からこちらを向いていたのだ。まるで僕達が部屋の二階を観ることがわかっていたかのように。

「あ!」

今度は声をあげたのと同時に思わず遠眼鏡を離しそうになってしまった。

「こっちを向いて手を振っている!なぜ?なぜ?そんなばかな」

「いや、そんなに変な事でもない。よく見ててご覧」



 姉さんはおかしそうに笑った。

 僕は唾を飲み込んで遠眼鏡の先を凝視した。

 遠眼鏡の先の姉さんは、横にいる姉さんと同じように笑い顔を作った。僕の大好きなあの姉さんぶった、僕を甘えさせてくれるあの笑い方だ。



 向こうの姉さんが笑いながら右手をポケットに入れる。

 右手には今僕の左目が覗いているのと同じ遠眼鏡が握られていた。

 二階の窓から姉さんはもう一度はっきり僕の目を見て笑いかけ、そしてすっとその遠眼鏡でこちらを見た!



 

 遠眼鏡の先が真っ暗になったのは、多分自分の意識が遠のいたためだとぼんやり感じた。

地下鉄のない街52 うわ言の真相

「もう気がついているよね」

 重苦しさは感じなかった。

 なぜだと叫び出したい気持ちも不思議とおこらなかった。僕はまた、あのすべての物事に対して明確な怒りを感じることのできない僕に戻っていたからだ。

 姉さんはそんな僕の病気が憑ったかのように、少し焦点のぼけた眼差しで僕の方をみて少し左側に首を傾けた。

「皆川くんが神崎先輩より速い記録を出さないようにするために、西村が僕を脅迫したって言ったよね」

 頷く姉さんには、僕の話の先が見えているようだった。

「さっきうわ言で言ってたよ」

 僕はここで話をやめたくなった。でも、僕と姉さんはそのことを確認しないといけない。それが多分この異世界で僕たちが再び出会ったことの意味を知るためにはどうしても必要なことであるのは間違いがないように思えた。

「姉さんと僕が部屋でしていたことがビデオテープにおさめられていた」

 姉さんは無表情でどんな仕草もみせなかった。人は耐えきれないほどの精神的動揺に直面せざるをえない時、自分をあたかも他人のように外側から、幽体離脱したもう一人の自分が自分自身を観察するように眺めるものだと聞いたことがある。今の姉さんの状態はそれかもしれなかった。

「もしビデオテープが西村の撮影したものだとしたらおかしなことが一つあったと思う」

 僕は一度見ただけの、そのテープの中のごく僅かな違和感の記憶を手繰り寄せようとした。間違いない。あの違和感は錯覚などではなくて、決定的に何かを物語っていたんだ。

「ビデオテープの端々に、耳を劈くようなジッっという蝉の鳴き声がしたんだ。庭に忍び込んだ西村が、カーテンの影から撮影した時に外で煩く鳴いていた蝉の声を拾ってしまったんだと普通に思っていた。」

 姉さんの視線が、ホテルの窓の外の何も見えない真っ暗な暗がりに注がれた。

「でも、最後にテープが途切れる時に、ジッっという鋭い鳴き声と一緒に画面の片隅に茶色いものが動いたんだよ。あれはその蝉だったんだ。」

 姉さんは口を開きかけて、また噤んだ。最後まで僕に話して欲しそうな力ない目で僕を見た。

「母親が夏はこうするのが好きなんだって、応接間の窓を開け放ってクーラーもつけずに風を入れていたよね。閉め忘れた網戸から時々蝉が家の中に入り込んで、ジッって鳴き出してその度に僕も姉さんも母さんに文句を言っていた。蝉はサッシに仕切られた部屋の中にいたんだ。もし西村が外から盗撮していたとしたら、ビデオが家の中の動いた瞬間の蝉の声を拾うわけがない。」

 姉さんは西村のラブレターの中身を僕に話す時にもう気がついていたんだよね。

「西村がビデオテープを僕に渡す時、それは大きめの茶封筒に入っていたよ。僕たちの父親が喫茶店で西村に渡した時に使ったものに間違いない。…撮影したのは父さん、もしくは母さんだ」





 姉さんはまた真っ暗の何も見えない窓に目をやった。姉さんが話してくれたお城のお姫様がそこにいた。






$小説 『音の風景』

ゆっきー
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