地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街47 西村の手紙〜母親 

「お父さんもね、僕と会うにあたっては随分逡巡したみたいだよ。だってそうだよね。娘に付き合いたいという手紙を送ってきた学校の同級生に、あの子は君の手に負えないってわざわざいいに来るというのは誰がどう考えてもおかしい。
 うん。おかしい。娘可愛さと言っても度が過ぎている。だって僕は別に君にしつこくいいよるようなことはしてない。手紙を一通出しただけだよね。
 内容的にも別に思いがかなわなかったら君を殺して僕も死ぬとか、そんなロマンチックなことが書いてあったわけでもない。君への思いはそうしたいくらいのものはあるんだけど、好きだという思いの大きさとその行動を一致させて自己満足に浸るほど僕はバカじゃないよ。

 そもそもなんでそのラブレターの存在をお父さんが知っているかということなんだけど、話は簡単で実は謎でもなんでもない。君の家の君の部屋なんだけど、君に内緒で部屋の合鍵は作られているし机の引き出しの合鍵も君の知らないところに保管されている。
 という信じ難い現実さえ受け入れてしまえば、きみは、「ああ自分の日記を見たのね、許せない!」というよくある(あっちゃいけないけどね)怒りのストーリーに自分を重ね合わせるところまではたどり着く。

 でもそれで終わるんだったら、こうして僕がこの手紙を書く理由はないんだ。だよね。

 まず合鍵の件で君が怒りをぶつけるのはお父さんではない。そんな合鍵を作らざるを得ない状況を作った自分をまず見つめなさい。なんてことは今ここでは言わない。今のは悪い冗談だ。でもうちの教団に来て悩みを打ち明ける人に対しては僕らはまずそういうんだよ。

 でもそれはバカにしているわけじゃないんだよ。だって信仰とはそういうものだから。信じるということはまず第一に自分を疑うということだから。

 君はもちろん信者さんじゃないから単刀直入にいう。この場合君が怒りをぶつける矛先はお父さんではなくてお母さんなんだ。

 そう。

 これでお父さんの行動の突拍子もなさに説明がつくんだ。お父さんは深く悩んでいた。

 お父さんは「あの子と付き合うな」ということを言い残して行ったわけなんだけど、それを言いに来たわけではないということなんだ。

 少し僕がお父さんから聞いたお母さんのことを書くね。君が知らないことだ。そう、お父さんが言ってた。あの子はまだ何も知らないって」

続く

地下鉄のない街 48 献身する母親

 君のお母さんは普段からお父さんを大変に立てていたみたいだね。僕はね、そういうのに素直に憧れる。強い父って僕の憧れなんだ。明治の素朴な家父長制の家。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に出て来るみたいなさ。

 父親であることって大変なことだと思うんだ。

 戦前は女性が家に縛られていたっていうけど、それはどうかな。間違いだとは言わないけれど、とても一面的なものの見方だと思うのね。だって家に縛られていたのは女性以上に男性だから。これは間違いなくそうさ。旧弊な家を飛び出すことは女性のように自立とはもてはやされず、単なる家業の責の放棄でしかなかった。例えば文筆で身を立てようなどとすれば家から放蕩息子の烙印を押されて当然だったよね。

 それでも昔のお父さんは、それがフィクションであったとしても家長としての威厳とか立場の尊重という、一家の母から支えられる立場というものがあった。最終的には、「お父さんに決めていただきましょう」というお母さんの魔法の言葉ですべてがしっくり行く。そんなそんな世界は実在してたよね。

 戦後はこのお父さんは、そういう母たる存在からの後ろ盾のないままに依然として強い父親らしさを求められてるんだ。拳銃を携行できない保安官、警察官の哀しさ、つらさと言ってもいいんじゃないかな。大変だよね。都合のいい時だけ父親の役割背負わされてさ。

 ああ、何でこんな話になるかも書かないといけないね。

 うちはね、父親がいないんだ。いや、いることはいるんだけど存在として去勢された状態なんだよ。
 うちの教団はね、曽祖母が開祖したんだけど、それ以来ずっと教組は女が務めるんだ。僕の母親、つまり今の教団の代表ももともとうちの教団の信徒だった。父親は一番教祖として見所のある人を掟に従って妻にしたわけ。だからね、一言でいうと情けない単なる種馬なわけ。信者からも格下に見られ、イベントの時なんか広報や教務の部長連中からさん付けで呼ばれて雑用やらされたりとかね。自分の教団の金も一切自由にはならないし。
 前にこんなことがあったんだ。お布施みたいのをイベントで集めた時、集金係だった父親が最終計算しても寄付されたお金の計算が合わなかったことがあってね。たしか二万円くらい。それを小遣い欲しさに父親が集金の時にネコババしたんじゃないかって信者からつるし上げにあったことがある。さすがにこの時は見かねた教団の部長連中がかばってたけどさ。

 ま、そんなわけで強い父親像っていうのに憧れたりしちゃうのね。だってさ、大して好きでもない父親だけど、ありゃあんまりだよなって思うから。なんかこう…ね。

 まあ、自分がその同じ立場に一直線にレール引かれてるってこともあるんだけど。ははははははははははは…。はは…

 だからね、君のうちっていいな~って思ったわけ。


 ところで君のお父さんは若いころ、ずいぶん吃音で悩んだそうだね。

 お母さんが献身的にお父さんを支える存在となっていったのはそのことが大きいんだよね。

 お父さんはそんな風におっしゃってたよ。

地下鉄のない街 54 姉さんの部屋で

「目が覚めたかな」

 僕はベッドの上で跳ね起きた。確かさっきホテルの窓から僕たちの住んでいた部屋を姉さんと一緒に見てたはずだ。そして、遠眼鏡から覗いた先には横にいるはずの姉さんがいた。窓から手を振って、まるでこちらが見えているみたいだった。いや、思い出したぞ。見えていたんんじゃなくて、見たんだ。同じ遠眼鏡を使って。秘密を覗き込んだ僕たちの遠眼鏡が、もう一度あちら側の姉さんから覗き込まれたんだ。

 そして僕は気が遠くなった。

「姉さん?」

「気がついたね」

「ここは僕たちが住んでた家の二階?」

 僕は部屋を見渡した。オーディオの装置と、その横白い本棚。棚の中には隣の僕の部屋と行ったり来たりする二人のお気に入りの小説家の本が並んでいる。

「そうだよ。久しぶりだね」

 姉さんはさっきまでそばにいた姉さんだけど、服が違っていた。出かけの服ではなくて、白いチュニックのようなラフな普段着だった。クローゼットの取っ手には僕たちが通っていた学校の女生徒用の制服が掛かっている。さっきまで着ていたのだろう。

「父さんと母さんは、下に居るわけか」

 僕はやっと頭の整理がついてきた。あの話の続きならば、今父さんと母さんはあのビデオテープの話をしている事になる。

「今日は何日?いや、日にちを聞いてもしょうがないな」

「うん。健太郎がお父さんに叩かれて入院しちゃった日だよ」
 姉さんは窓のさんに腰を掛けてこちらを見て言った。

「ああ。そうか、あの日か」

 父さんが吃音で苦しんでいたと知った日。つまり僕がそれと知らずに漫画に出てくる吃音の少年の真似を父さんの前でしてしまった日だ。口の中の血の感触を思い出して僕は舌で口の中を舐めてみた。

 話が聞けるわけか…。僕は小さくつぶやいた。もちろん知りたくもある。でもやはり怖い。これ以上知らない事を知ってどうなるというのだろうか、そんな気もしないでもなかった。

「あたしはどっちでもいいよ」
 姉さんは僕のこころの中のつぶやきを引き継ぐように言った。

「いや…。姉さんは怖くないのかい」

「まあね。でも知りたいんだ。」

「うん」

「違う。何を話していたのかもだけど、何であたしたちがこうして二人揃ってこういう体験をし始めたのかってことを最後まで知りたい」

 真面目な顔をして姉さんがそう言った。

「分かった。そうだね。僕もそう思う。でも下の声をどうやって聞くんだい?」

 姉さんは本棚の上にある小型のモニタを指差した。さっきまでは、そんなものはそこになかったはずだ。

「今のあたしはさっきまではこの部屋にいた学校から帰宅したばっかりのあたしと入れ替わってるの。だから少し不思議な力も使える。」

「ああ」

「と言っても大した事じゃない。お母さんの鏡台の棚に隠してあったモニターを貸してもらった。応接間には前からビデオカメラが仕掛けてあったみたいだからそれを使えばいい。下の様子はここに居ても良くわかるよ。」

 僕は姉さんの言っている事を理解した。母さんだったのか、ビデオを撮影したのは…。

「びっくりしたよ、あたしも…。この部屋にいたあたしと入れ替わった後、健太郎がまだ気絶している間に頭の中に声がしたのね、あたしの。寝室の鏡台の棚の奥だって…」

 それが、これだったのか。

「いいよね」

 僕が頷くのを待って姉さんがモニタのスイッチを押した。

地下鉄のない街53  遠眼鏡で見る僕たち

「何が見えるの?姉さん」

 姉さんはベッドから身を起こして窓際に行って真っ暗な外を眺めている。僕は姉さんの背後に近づいてそう言った。

 外は真っ暗だった。

 東京神田の高台から観る深夜の景色がそんなに真っ暗なのは変だと思った。この方角だと大手町のオフィス街や霞が関の官公庁のビルのあかりが灯って見えるはずだった。



「そっと行ってみようか」

 姉さんは窓から見える暗がりを見ながらそう言った。

「行くってどこへ?これから深夜の東京の街を散歩しようっていうのかい」

「違うよ。お父さんとお母さんがお話ししてる所」

「え?どこだって?」

「ここから見えるよ。今、二人で応接間で何か話ししてる。」

 姉さんは静かにそう言った。僕は姉さんがショックでおかしくなってしまったのではないかと慄然とした。



「おかしくなってなんかいないよ」

 姉さんは僕の気持ちを見透かすようにそう言って振り返った。部屋の中はベッドぎわの小さなスタンドしか明かりがなかったのでよくわからなかったのだが、姉さんは小さな骨董品屋に置いてあるような小さな双眼鏡、双眼鏡というよりは遠眼鏡といった方がよいような物を手にしていた。

「姉さんが話してくれたお城のお姫様が持っていた遠眼鏡なの?人から聞いたお話じゃなかったのかい?」

 僕はさっきお姫様の事を連想した自分を思い返した。

 姉さんはそれには何もこたえなかった。

「これで見るとね、二人が深刻そうに話しているのが見えるよ。テーブルの上にはビデオテープが置いてある。それを挟んで二人がうなだれてボツボツ話をしてる」

「本当に?」

 姉さんは暗がりの中で僕を自分の右側に引き寄せ、ピッタリと方を合わせるようにして遠眼鏡の右側を僕の左目にあてがうようにして肩を抱いた。
 一つの遠眼鏡の右側を僕の左目が、遠眼鏡の左側は僕の左脇に寄り添った姉さんの右目が覗く格好になった。
 不自然な格好に焦点が合わなかったが、「ここよ」と姉さんが遠眼鏡の焦点を定めた先には、確かに父と母がいた。僕が中学の頃の若い父と母だ。神田の会計事務所に行った時にすれ違った時には、あり得ない事にそれとは気がつかなかった、歳若い父親が頭を抱えてうなだれている。母親は落ち着きなく立ったり座ったり、窓際に立ったりしている。この遠眼鏡はそんな母の表情のまですべて観ることができた。母が窓際に立つたびに何度か目が合ったような錯覚を覚えて、僕は不安になった。

「今見える父さんと母さんは、もちろん僕たちがこうして見ている気事には気がつかないわけだよね」

 姉さんは少し笑った。今度はさっきみたいな嗚咽を喉元で殺したような笑ではなくて弟をあやすような、やさしい笑い声だった。

「そんなわけないじゃない。双眼鏡なしに向こうから見たらあたし達は東京の海の中の芥子粒よ」

「あ、いや、そういう事じゃなくて…。いや、それは確かにそうなんだけど、こっちの世界とあっちの世界は繋がっているのかい?」

 僕は混乱していた。

「うん、そういう意味か。確かに時間が少しゆがんでるね。あの二人がいる空間は今のあたし、踏切事故で死ぬ前のあたしが生きている時間だから、あたしとあの二人はつながっている。でもそのあたしは今こうして未来から来ている健太郎と一緒にいる」

「ああ」

「だから少しおかしな事が起きてる。あのさ、一階の応接間の真上はあたしの部屋だよね」

「うん」

「そっちに遠眼鏡を向けるから、あたしが動くのに身を任せていて」

「分かった」

 僕は姉さんが言うままに、一階の応接室を見たまま体の力を抜いた。ゆっくりと、遠眼鏡の角度からしたら多分ほんの数センチ上方に体を仰いだ。応接室が視界から消え、世界は真っ白に変わった。多分これは僕たちが住んでいた家の壁の色だろう。その白い壁に上の方から何か異物が入り込んでまたすっと消えた。

「おっと、行きすぎた」

 姉さんはまた少し僕の右肩を抱きながらわずかに遠眼鏡の角度を下げた。

「ああ!姉さんがこっちを見てる」

 僕は思わず大きな声を出してしまった。なぜなら向こうの家にいる姉さんは、窓からこちらを向いていたのだ。まるで僕達が部屋の二階を観ることがわかっていたかのように。

「あ!」

今度は声をあげたのと同時に思わず遠眼鏡を離しそうになってしまった。

「こっちを向いて手を振っている!なぜ?なぜ?そんなばかな」

「いや、そんなに変な事でもない。よく見ててご覧」



 姉さんはおかしそうに笑った。

 僕は唾を飲み込んで遠眼鏡の先を凝視した。

 遠眼鏡の先の姉さんは、横にいる姉さんと同じように笑い顔を作った。僕の大好きなあの姉さんぶった、僕を甘えさせてくれるあの笑い方だ。



 向こうの姉さんが笑いながら右手をポケットに入れる。

 右手には今僕の左目が覗いているのと同じ遠眼鏡が握られていた。

 二階の窓から姉さんはもう一度はっきり僕の目を見て笑いかけ、そしてすっとその遠眼鏡でこちらを見た!



 

 遠眼鏡の先が真っ暗になったのは、多分自分の意識が遠のいたためだとぼんやり感じた。
ゆっきー
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