「何が見えるの?姉さん」
姉さんはベッドから身を起こして窓際に行って真っ暗な外を眺めている。僕は姉さんの背後に近づいてそう言った。
外は真っ暗だった。
東京神田の高台から観る深夜の景色がそんなに真っ暗なのは変だと思った。この方角だと大手町のオフィス街や霞が関の官公庁のビルのあかりが灯って見えるはずだった。
「そっと行ってみようか」
姉さんは窓から見える暗がりを見ながらそう言った。
「行くってどこへ?これから深夜の東京の街を散歩しようっていうのかい」
「違うよ。お父さんとお母さんがお話ししてる所」
「え?どこだって?」
「ここから見えるよ。今、二人で応接間で何か話ししてる。」
姉さんは静かにそう言った。僕は姉さんがショックでおかしくなってしまったのではないかと慄然とした。
「おかしくなってなんかいないよ」
姉さんは僕の気持ちを見透かすようにそう言って振り返った。部屋の中はベッドぎわの小さなスタンドしか明かりがなかったのでよくわからなかったのだが、姉さんは小さな骨董品屋に置いてあるような小さな双眼鏡、双眼鏡というよりは遠眼鏡といった方がよいような物を手にしていた。
「姉さんが話してくれたお城のお姫様が持っていた遠眼鏡なの?人から聞いたお話じゃなかったのかい?」
僕はさっきお姫様の事を連想した自分を思い返した。
姉さんはそれには何もこたえなかった。
「これで見るとね、二人が深刻そうに話しているのが見えるよ。テーブルの上にはビデオテープが置いてある。それを挟んで二人がうなだれてボツボツ話をしてる」
「本当に?」
姉さんは暗がりの中で僕を自分の右側に引き寄せ、ピッタリと方を合わせるようにして遠眼鏡の右側を僕の左目にあてがうようにして肩を抱いた。
一つの遠眼鏡の右側を僕の左目が、遠眼鏡の左側は僕の左脇に寄り添った姉さんの右目が覗く格好になった。
不自然な格好に焦点が合わなかったが、「ここよ」と姉さんが遠眼鏡の焦点を定めた先には、確かに父と母がいた。僕が中学の頃の若い父と母だ。
神田の会計事務所に行った時にすれ違った時には、あり得ない事にそれとは気がつかなかった、歳若い父親が頭を抱えてうなだれている。母親は落ち着きなく立ったり座ったり、窓際に立ったりしている。この遠眼鏡はそんな母の表情のまですべて観ることができた。母が窓際に立つたびに何度か目が合ったような錯覚を覚えて、僕は不安になった。
「今見える父さんと母さんは、もちろん僕たちがこうして見ている気事には気がつかないわけだよね」
姉さんは少し笑った。今度はさっきみたいな嗚咽を喉元で殺したような笑ではなくて弟をあやすような、やさしい笑い声だった。
「そんなわけないじゃない。双眼鏡なしに向こうから見たらあたし達は東京の海の中の芥子粒よ」
「あ、いや、そういう事じゃなくて…。いや、それは確かにそうなんだけど、こっちの世界とあっちの世界は繋がっているのかい?」
僕は混乱していた。
「うん、そういう意味か。確かに時間が少しゆがんでるね。あの二人がいる空間は今のあたし、踏切事故で死ぬ前のあたしが生きている時間だから、あたしとあの二人はつながっている。でもそのあたしは今こうして未来から来ている健太郎と一緒にいる」
「ああ」
「だから少しおかしな事が起きてる。あのさ、一階の応接間の真上はあたしの部屋だよね」
「うん」
「そっちに遠眼鏡を向けるから、あたしが動くのに身を任せていて」
「分かった」
僕は姉さんが言うままに、一階の応接室を見たまま体の力を抜いた。ゆっくりと、遠眼鏡の角度からしたら多分ほんの数センチ上方に体を仰いだ。応接室が視界から消え、世界は真っ白に変わった。多分これは僕たちが住んでいた家の壁の色だろう。その白い壁に上の方から何か異物が入り込んでまたすっと消えた。
「おっと、行きすぎた」
姉さんはまた少し僕の右肩を抱きながらわずかに遠眼鏡の角度を下げた。
「ああ!姉さんがこっちを見てる」
僕は思わず大きな声を出してしまった。なぜなら向こうの家にいる姉さんは、窓からこちらを向いていたのだ。まるで僕達が部屋の二階を観ることがわかっていたかのように。
「あ!」
今度は声をあげたのと同時に思わず遠眼鏡を離しそうになってしまった。
「こっちを向いて手を振っている!なぜ?なぜ?そんなばかな」
「いや、そんなに変な事でもない。よく見ててご覧」
姉さんはおかしそうに笑った。
僕は唾を飲み込んで遠眼鏡の先を凝視した。
遠眼鏡の先の姉さんは、横にいる姉さんと同じように笑い顔を作った。僕の大好きなあの姉さんぶった、僕を甘えさせてくれるあの笑い方だ。
向こうの姉さんが笑いながら右手をポケットに入れる。
右手には今僕の左目が覗いているのと同じ遠眼鏡が握られていた。
二階の窓から姉さんはもう一度はっきり僕の目を見て笑いかけ、そしてすっとその遠眼鏡でこちらを見た!
遠眼鏡の先が真っ暗になったのは、多分自分の意識が遠のいたためだとぼんやり感じた。