地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街44 西村のラブレター

「健太郎、だいじょぶ?」

 僕はうなされるように独り言を言っていた自分に気がついた。

 姉さんが心配そうな顔で僕の両肩に手をかけた。微笑みながら自分の正面にそっと向かせて僕をを覗き込む。

「この部屋にきてからずいぶん時間がたったのかい」

 僕は部屋の中を反射的に見渡したけれど、ホテルの部屋に掛け時計などあるはずもないことにすぐ気がついた。姉さんは座っているダブルベッドの枕元に外しておいてあった時計を見るために体をひねった。体を伸ばして時計に手を届かせ、肘をつきながら体を支えて時計の時間を確認すると「うん。そろそろ日付が変わる」と言ってそのまま大きなまくらを背もたれにしてベッドにもたれかかった。

「途中ひたいの汗を拭いた時やうわ言でいろんなこと話してたよ。覚えてる?」

 姉さんは静かに笑った。

「半分くらいは覚えてると思う。でもどこが夢でどこから起きて姉さんに話をした事なのかはっきりしないや」

「そう」

 姉さんはそういうとしばらく沈黙した。そっと唇を閉じるのではなくて、何かを言いかけてそっと口を閉じたように感じたので僕は少しの間待っていた。

 薄暗がりの部屋の中の姉さんの視線はどこか部屋の外を見ているようだった。

「さっき夢うつつのうわ言で昔見た外国のスパイ映画の事しゃべってたよ」

「ああ、それは覚えてる。夢の続きをぼんやりと口にしたんだ。だからそれははっきり覚えてるよ。」

 姉さんは小さく頷いた。そして呟いた。

「密告した娘さんは本当のお父さんの事知って国家に義務を果たしたのかな」

 それがさっき言いかけて口を噤んだ事なのかい?僕は姉さんがどうして途中で言いかけて黙ってしまったのかがすごく気になり出した。

「姉さんは見た時の事を覚えてるのかい?」

「うん。覚えてるよ。その時は寂しいけど正しい事をしなくちゃいけないっていう気持ちでそうしたと単純に思ってたけど…」

 姉さんの表情が暗がりの中でだんだん翳っていくにつれて僕の気がかりは小さな不安に形を変えて心の中に広がっていった。

「けど?」

 姉さんはふっと息をするように息をして僕の目をみると、右手でトントンと自分の脇のシーツを叩いた。ここにきて欲しいというこのようだった。この不思議な再開の時間の中で、初めて姉さんの方から話を聞いて欲しいと僕に求めてきたように見えた。

 僕は立ち上がるとぐるっとベッドを周るように移動し、さっき姉さんがしたのと同じように、まくらを手繰り寄せて背もたれにして姉さんの横顔を見た。

 昔から大人びた顔だと思っていたけど、その時の姉さんの様子は高校生のそれではなくて、現実の僕の世界の方に引き寄せらたかのようだった。同窓会で旧友に再開した時のようだった。懐かしさの背後に自分の知らない世界を生きた人間の表情を僕は見つけて、僕はそれをとても新鮮に感じた。この時空間に少しだけ何か別の力が作用し始めたような気がした。

「映画の中の娘さんは自分の知らないお父さんをもっと知りたかったんだと思った」

「うん」

 僕は姉さんの言葉を待った。

「あたしにもあたしの知らない父親がいたみたいなんだ」

「僕らの父さんの事で?」

「うん。今になってわかる事がある」

「何?」

「西村君から何通かもらった手紙に書いてあった事…」

 僕は姉さんの大人びた端正な横顔に表情を探ったけれど、表情からはまだ何も分からなかった。

地下鉄のない街 45 西村の手紙〜振られた後

 振られた女の子にまた手紙を出すべきかどうかずいぶん迷ったよ。

 君は未練タラタラの手紙なんか読みもせずにゴミ箱に捨てるかもしれない。
 でもね、これはもう一度こっちを振り返って欲しいとかそういう手紙じゃないんだ。

 これを今読んでいるという事はゴミ箱行きの第一関門を突破したという事なんだね。

 せっかくだから最後まで読んで欲しい。いや、違うな。多分君は最後まで読むことになると思う。



 僕は君を諦める事にした。それはね、ある人の忠告を聞く事にしたからなんだ。

「あの子は君の手に負えるような子じゃないよ」



 その人は喫茶店で珈琲をすすりながら大きめの茶封筒をテーブルの上に置いた。社会的地位はまだそれ程ではないみたいだけど、世の中のメインストリームにいる人だなって思ったよ。何がメインストリームなのかは僕にはわからない。でもね、僕には分かるんだよ。僕はね、大人たちを沢山見てきたから。そう。何百人もね。僕の周りの大人たちはみんな、どこか普通に生きていくには不自然で余計なものを持っていた。ああ、僕の家が割と有名な新興宗教の団体を主催しているっていうのは知ってるよね。僕はそこの一人息子。まあ跡継ぎだから大人たち、うちの団体の信者と話をする機会なんかも結構あるわけね。

 余談なんだけど、うちの学校の保健室のマドンナ、春日井先生いるだろ。あの人のご両親も昔から熱心な信者なんだよ。世間は狭いよね。あ、春日井先生本人はそういうつながりは一切知らない。ご両親はなんでも行方不明の弟さんを探したいらしいんだ。そう。警察ではもうこれ以上探せないから。もちろんうちでも人探しなんかしないさ。でもね、本当の自分を探すのも行方不明の人を探すのも似てるところがあるからね。

 何が似てるかって?



 ありもしないものを、探せないものを探すことさ。

 でもね、僕はそれをバカにしてるわけじゃないんだよ。

 だってそれが信仰、つまり信じるっていうことだからさ。



 ある人、もう分かるよね。

 君のお父さんもありもしないもの信じてたよ。かわいそうなくらい。

 君のお父さんはありもしない理想の家庭というものを探してた人みたいだったね。

地下鉄のない街23 保健室の素顔

「皆川君はさ、ホントは足が速かったのね。三位なんかじゃなくて県大会で準優勝したこともある僕よりも速い」

「え?そうなの?あんたといい勝負だったのは理事長の息子の…」

「そう。神崎さんだけ。表向きはね」

 姉さんはほんの少しだけ視線を下に落とした。姉さんの頭の中で何かが動いたみたいに思えた。

「『僕が君たちと競い合って速く走ることに何の意味があるの』って、そういうことなのかな」

 僕は頷いた。でも急いで言葉を続けた。皆川君は世の中を斜に構えてシニカルにやりすごすようなそんな嫌味なタイプの子ではなかったから。

「性格だって言ってしまえば簡単なんだけどね、皆川君はとにかく目立つことが嫌いだったんだよ。いや、なんていうかいい意味で目立つんだから、むしろ人は羨ましいって思うかもしれないんだけどね…。皆川君はそういうのをほとんど恐怖してたんだ」

「あんたより速いんだったら確実に学校で一番速いわけだから、それだけで学校生活の居心地も良くなるはずなのにね」

 姉さんは首をかしげながら不思議そうにそう言った。

「僕もそう思ったよ。なんで隠すんだって聞いたこともある」

「健太郎はどうしてそのことが分かったの?」

 うん、そうだよね。僕はどうしてそのことを知るようになったのか…。

「僕にとってのこの世からの避難所が姉さんであったみたいに、皆川君にとっては貧血でお世話になる保健室がそういう場所だった」



「あ、春日井先生でしょ。あのメガネをかけていつもポニーテールにしてるかわいい先生」

 姉さんはメガネを外す仕草をして僕の顔をまじまじと正面から見つめ、大きくにっこり笑う春日井先生の真似をして見せた。僕は少し驚いた。あの春日井先生の愛くるしくも慈愛に満ちたしぐさを真似することのできる人がこの世にいたとは思えなかったからだ。

「春日井先生にそっくりだよ、驚いたな」

 姉さんはもう一度メガネを掛け直し、改まった口調で『それで今日はどうしたの』と真面目な顔で言った。びっくりだ。その後本題にはいる時に女医さんに戻る瞬間もそっくりだった。


「まるで先生がここにいるみたいだったよ」

「そう?それは嬉しいな。女子生徒の間でも春日井先生は大人気だったからね。実はあたしも用もないのに時々仮病で先生に会いに行ってたんだぜ」

 なるほど、そういうことか。



「あんたはそういうことしなかったんだよね、たしか」

 僕は頷いた。

「うん。部活の練習中にトラックで下級生と接触して転倒してね、奥のベッドのある個室で休んでいるうちに寝ちゃったんだ。すばらくして目が覚めると、むこうのの診察室で皆川君と先生の声がしたんだ」



 姉さんが首を少しかしげる仕草で少し笑った。

「聞いちゃったのか。何か」

「うん」

地下鉄のない街 46 西村の手紙〜告白

「まずは、そもそもなぜ君のお父さんが僕と会って話をすることになったのか、それを説明しないといけないよね。

 お父さんからの最初のコンタクトは教団の方にあったんだ。信仰に興味を持った人に教団のことを説明する広報の窓口が電話を受けたんだけど、僕と直接話がしたいということみたいだった。
 電話を受けた者が言うには、息子さんが僕と同じ学校だということで直接話がしたいという。だったら学校が編纂している父兄の連絡簿にある電話番号にかけてくればいいのになと思ったのね。逆に純粋に信仰の相談なら僕を指名するのもなんか変な話だし。

 だから僕は家の応接間も教団のカウンセリングルームも使わずに、近所の喫茶店を待ち合わせの場所に指定したんだ。

 会って少し話をしてみるとお父さんがそういう曖昧な行動をとったわけはすぐにわかったよ。僕自身はすっかり忘れていたんだけど、僕は以前君のお父さんと会ったことがあったんだ。お父さんの方ではそのことを覚えていたみたいだ。

 昔さ、小学生の時、君の弟さん、健太郎君ね、学校に行きたがらないときあったでしょ。クラスにドラえもんに出てくるジャイアンみたいなのがいて、健太郎君に限らずそいつのせいで不登校気味になってる生徒が沢山いたんだよね。
 市会議員のバカ息子だったかな。小学校は君たちとは違うのになんで僕が知ってるかというと、その迷惑していた生徒のうちの何人かの家がうちの教団の信徒さんだったのさ。

 あまりにもそのジャイアンの粗暴さが目に余るから、被害を受けている親同士で団結して学校とその市会議員宅に抗議をしてみてはどうだろうかということみたいだった。その発起人もうちの信徒さんだったので、その集会場として教団の施設を使ったんだ。15家族くらい。ご両親とも参加っていう家も多かったからそこそこの広さが必要だったみたいでね。それでうちがその場所を提供したんだ。

 カルト教団じゃないからさ(笑)、信者さんの主催する野球チームの反省会みたいのに使ったりとかね、そういうのはよくあるんだ。そんな雰囲気だから、当時別の小学校に通ってた僕も意味もなくチョロチョロ顔を出してたのね。
 実は一人すごく可愛い子がいてなんとなく気になってたというのが本当の理由なんだ。まあ、ありていに言えば好きになっちゃったわけだ。大人たちも話し合いしている時に僕がその子と遊んでるのを見てて別になんとも言わなかったかな。もちろん君のお父さんもね。

 一二ヶ月で当初の目的は達成できて、市会議員の息子の問題は一件落着したようだったよ。結局事を荒立てないようにっていうことで、学校に集団で抗議に行くというのもやめにして、担任の先生と生活指導の責任者の学年主任、そして市会議員の親、当人のジャイアンを、作戦会議やっていた集会場に呼んで話し合いをするっていう形に落ち着いたんだ。

 しかし市会議員というか政治家っていうのは抜け目ないね。うまいというかなんというか、やっぱ普通の人間じゃかなわないかもしれない。当日挨拶もそこそこに、バカ息子をみんなの前で殴りつけたあと、一緒にみんなの前でいきなり土下座したんだよ。よくやるよね。
 しかもみんながあっけに取られている間に、こうやって教育問題について地域の親が連携して話し合うことはなんと素晴らしい事であるか!と持ち上げて、こういう会には自分たちもぜひ参加させて欲しい、真の教育はこうした地域の活動からこそ生まれるのだ!という演説会にしてしまった。
 笑っちゃうね、自分たちを糾弾する集まりだったのにねえ。ついでに自分の選挙対策の後援会のパンフレットまで置いて行く始末だった。それもごく自然にそういう雰囲気をつくってたから、子供ながらにすごいと思ったよ。僕も教団を継ぐまでにはああいうのも覚えた方がいいかな。
 いや、冗談だよ、もちろん。僕はもっと違うやり方で人心を掌握するのが得意だと思ってる。いま弟さんと一緒の陸上部でやってるみたいなね。学校のバカなやつらは腰巾着だとか言ってるようだけどあれはまさにみんな予定通り僕に騙されてるわけであって、実は…おっとごめん、話がそれちゃった。

 君のお父さんは市会議員の演説をフンフンと熱心に聞いて頷いていたよ。結局、ジャイアン糾弾集会は教育に関する悩みを話し合う会に形を変えてその後も続く事になった。君のお父さんも毎回出席してたな。毎回一人発表者を決めて、自分の家の教育問題について話せる範囲で告白したあとみんなで話し合うというものなんだ。

 だからごめん。君の家の家庭事情の一部もその時に聞いてしまっていたんだ。

 いや、言い訳なんだけどさ、僕が好きになってしまったその小学生の女の子も毎回親に連れられて参加してたものだから、僕も何となく毎回参加しちゃったというわけ。だからお父さんの視点から語られた君の家の事情というのも少しだけ知る事となってしまった。話を続ける前にいちおう謝っておくよ。

 ごめんね。」


続く
ゆっきー
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