地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街 43春日井先生の弟さんへ

 蝉の鳴き声が頭の中に鳴り響いていた。

 蝉の鳴き声はいつでも遠くからやって来て、いつの間にか耳をつんざく様に僕の頭に鳴り響く。短く、鋭く非難する様に。非難の声はいつしか何重にも重なり合い、僕の意識の逃げ道をじわじわと塞いで行く。


「健太郎、大丈夫?」

 夢でうなされていた僕を姉さんの声が救ってくれた。

 山の上ホテルだ。



 僕はきつく押しあてていた自分の汗ばんだ額を、姉さんの胸からそっと離した。

 しがみつくように背中に回していた自分の両腕をほどくと、目の前の一瞬姉さんと春日井先生の悲しそうな笑顔とだぶった。僕は夢の中で春日井先生の弟さんに自分を重ねていたようだった。姉さんに起こされる前、春日井先生が突き飛ばしたというその日の先生の弟さんを僕は夢の中で生きていた。




 君が春日井先生を突き飛ばしたんだね。

 僕はその時の理由もなく理解した。

 なぜなら今なら、そう、今ならば僕も同じことをするだろうから。

 きっとできるから…。




 あの時突き飛ばしたのは春日井先生じゃない。君だよね。お姉さんを守るために、お姉さんの人生を守るためにそうしたんだ。

 先生が君を突き飛ばしたという記憶は、先生が行方しれずになった君への自責の念で徐々に変容させて行った悲しいフォルスメモリ、偽の記憶だね。君の姉さんは優しいね。僕の姉さんと似ているかもしれない。



 僕には本当のことが分かるよ。春日井先生は自分から君を突き飛ばすような人じゃない。

 僕は姉さんに甘えてしまった…。君のようにはできなかったんだ。




 君は君のお姉さんにしがみついたのはその時が始めてかい?

 僕はね、初めて僕の姉さんにしがみついたのは、子供の頃二人でスパイ映画をテレビで見ていた時なんだ。そのスパイは敵国に身分を偽って潜入している。妻子は祖国に残してね。そして身分を偽ったまま敵国の女性と結婚して女の子も生まれる。幸せな家庭だったんだ。
 ところが娘がその国で一番の大学に入学した入学式から帰って来た日に本国への帰国命令が出る。男は二十年近く暮らした敵国での生活とかの地での自分の妻と娘を捨てられなかった。そしてすべてを家族に打ち明ける。祖国も祖国の家族も捨てるつもりだとね。ありそうな話だろ。題名も俳優も忘れてしまった。そんなに有名な作品でもなかったんだと思う。

 でも僕にとっては忘れられない映画になったんだ。

 妻と娘はそれまで自分の夫が、自分の父親が最愛の家族に嘘をつかなければならなかったその辛さがいかばかりのものであったか、泣きながら一晩中語り合ったよ。男は最初の数年間の自分の打算、本国に帰った後の昇進などを夢見ていたことなどを心の底から恥じた。そして、そのこともすべて告白して自分の卑小な人間性を罰してくれと訴えたんだ。

 二人はすべてを許すといった。

 夜も白んじて明け方の静寂が訪れようとしていた。遠くで蝉が鳴き始めていた。新しい朝が始まるその日、家族は娘が幼い頃そうしていたように大きなベッドの上で娘を間に挟んで三人で少し寝んだ。


 男は目が覚めると秘密警察の独房にいる自分を発見した。取調官が睡眠薬を飲まされてここに運ばれたのだと告げた。男はすべてを理解した。寝る前に娘が運んでくれた紅茶。すこしいつもと違う味がした。

「紅茶か・・・」男はつぶやいた。

「家族は当然の義務を果たしたんだ」

 取調官が男のつぶやきに応えるようにそう言った。男は無言で頷いた。泣き崩れることはなかったけれど涙がポタポタと取調室の机の上に落ちていた。



 僕はその時、呼吸が困難になるほど怖くなったんだ。震えを抑えながら、小学生の僕は中学生の姉さんに声を振り絞るようにして言った。「僕が本当のことを言ったら姉さんもそうするの?」僕は何か隠し事をしていたわけじゃない。そうじゃなくてね。僕は自分がなにか罪を犯したわけではないのに自分という人間はどこか人様に言えないようなそんな部分を生まれつき持ってしまった人間だと思ってたんだよ。もちろんそんな思いを僕が持つのはおかしいんだ。でもね、なぜだか僕はそうだったんだ。物心ついた時からずっとね・・・。

「僕が本当のことを言ったら」というのは「本当の僕を知ったら」ということだったんだ。本当の僕を知ったら姉さんも僕をどこかに追いやってしまうのかい?僕は自分がばらばらになるような恐怖感にとらわれて姉さんにそう言ったんだ。姉さんは僕の、本当の僕を知っても姉さんでいてくれるの?って。

 姉さんは一瞬、僕の眼の奥を覗きこむような柔らかいいたわるような目をした。

 姉さんは静かに首を振った。そんなことないよ。唇がかすかにそう動いた。それは僕が現実に何の罪も犯す前から、僕がどんな罪悪感を持って生きているか、すべてを知っているような目だった。僕はその時、姉さんのこの目に守られていれば自分は自分の中の化物のような何かを表に出すことなく一生を送れるのかもしれないと思ったんだ。



 でもね、その時いつの間にかぼくの父親が僕達の後ろに立っていたんだ。

 父親は座ってテレビを見ていた僕たちの上から立ったまま言ったよ。

「家族は当然の義務を果たしたんだ。犯罪者は犯罪者だからな」



 僕は多分恐怖感から父親をすごい目で見たんだと思う。そして父親にはそれは恐怖感で恐れおののいた目ではなくて、自分への反抗的な眼だと見えたんだろうね。

「なんだその目は!」

 大声で怒鳴られた。僕は自分の何かが崩れそうになった。必死にその時姉さんにしがみついたんだ。姉さんは僕を強く抱いてくれた。


「姉弟で色気づくんじゃない」

 父親は僕と姉さんを引き離して僕は平手打ちを何発も食らった。何十発かな。口のかなを切ってかなり出血したのを覚えている。でもね、体の傷はいいんだよ。僕は自分が、自分という化物めいた存在がいつでも世間にさらされる可能性があるんだっていうことを、その時こころと体の底から実感したんだ。


 後で知ったんだけどね、その頃父親は大きな自動車メーカーの労働組合の委員長をしていたらしいんだ。そして大きなストを潰すために労組の仲間を会社に売ったらしい。父親にはそれなりの考えがあったんだろう。そんなことは僕は当然何も知らなかったんだけど、「当然のことをしたんだ」というのは、自分が労組を売った男として周りから非難されていたことへの反発だったんだろうと思うよ。母親からずっと後になって聞いたことだけどね。父親はその時の功績かどうか知らないけど、今ではその会社の取締役だ。




 その時の暴力体験が引き金になって、僕のそれまで漠然と感じていた不安がときどき病的に顕在化するようになった。普段は明るくてクラスでも頼りにされる陸上競技が得意で成績優秀な僕。でもときどき精神の崩壊の予兆を前触れもなく経験するけれどそれを死ぬまで何とか隠していきていこうと決心した僕。

 それからときどき精神が壊れそうになると、このまま発狂して死ぬんじゃないかという恐怖心に囚われた。でも救急車を読んでもらうわけにも行かない。説明がつかないしね。そしてすがるように姉さんの部屋に行くようになった。


 うん。言い訳さ。本当は僕も君のように強くなりたかった。でも僕は行方不明になる勇気はなかったということだね・・・。




 ねえ、当たってるよね・・・。君が春日井先生を突き飛ばしたんだろう。やっぱりそうか。

 え?ありがとう?いや、何でお礼なんか言うんだい?

 こちらこそありがとう。どうしてだかわからないけど・・・。

 ありがとう…

地下鉄のない街44 西村のラブレター

「健太郎、だいじょぶ?」

 僕はうなされるように独り言を言っていた自分に気がついた。

 姉さんが心配そうな顔で僕の両肩に手をかけた。微笑みながら自分の正面にそっと向かせて僕をを覗き込む。

「この部屋にきてからずいぶん時間がたったのかい」

 僕は部屋の中を反射的に見渡したけれど、ホテルの部屋に掛け時計などあるはずもないことにすぐ気がついた。姉さんは座っているダブルベッドの枕元に外しておいてあった時計を見るために体をひねった。体を伸ばして時計に手を届かせ、肘をつきながら体を支えて時計の時間を確認すると「うん。そろそろ日付が変わる」と言ってそのまま大きなまくらを背もたれにしてベッドにもたれかかった。

「途中ひたいの汗を拭いた時やうわ言でいろんなこと話してたよ。覚えてる?」

 姉さんは静かに笑った。

「半分くらいは覚えてると思う。でもどこが夢でどこから起きて姉さんに話をした事なのかはっきりしないや」

「そう」

 姉さんはそういうとしばらく沈黙した。そっと唇を閉じるのではなくて、何かを言いかけてそっと口を閉じたように感じたので僕は少しの間待っていた。

 薄暗がりの部屋の中の姉さんの視線はどこか部屋の外を見ているようだった。

「さっき夢うつつのうわ言で昔見た外国のスパイ映画の事しゃべってたよ」

「ああ、それは覚えてる。夢の続きをぼんやりと口にしたんだ。だからそれははっきり覚えてるよ。」

 姉さんは小さく頷いた。そして呟いた。

「密告した娘さんは本当のお父さんの事知って国家に義務を果たしたのかな」

 それがさっき言いかけて口を噤んだ事なのかい?僕は姉さんがどうして途中で言いかけて黙ってしまったのかがすごく気になり出した。

「姉さんは見た時の事を覚えてるのかい?」

「うん。覚えてるよ。その時は寂しいけど正しい事をしなくちゃいけないっていう気持ちでそうしたと単純に思ってたけど…」

 姉さんの表情が暗がりの中でだんだん翳っていくにつれて僕の気がかりは小さな不安に形を変えて心の中に広がっていった。

「けど?」

 姉さんはふっと息をするように息をして僕の目をみると、右手でトントンと自分の脇のシーツを叩いた。ここにきて欲しいというこのようだった。この不思議な再開の時間の中で、初めて姉さんの方から話を聞いて欲しいと僕に求めてきたように見えた。

 僕は立ち上がるとぐるっとベッドを周るように移動し、さっき姉さんがしたのと同じように、まくらを手繰り寄せて背もたれにして姉さんの横顔を見た。

 昔から大人びた顔だと思っていたけど、その時の姉さんの様子は高校生のそれではなくて、現実の僕の世界の方に引き寄せらたかのようだった。同窓会で旧友に再開した時のようだった。懐かしさの背後に自分の知らない世界を生きた人間の表情を僕は見つけて、僕はそれをとても新鮮に感じた。この時空間に少しだけ何か別の力が作用し始めたような気がした。

「映画の中の娘さんは自分の知らないお父さんをもっと知りたかったんだと思った」

「うん」

 僕は姉さんの言葉を待った。

「あたしにもあたしの知らない父親がいたみたいなんだ」

「僕らの父さんの事で?」

「うん。今になってわかる事がある」

「何?」

「西村君から何通かもらった手紙に書いてあった事…」

 僕は姉さんの大人びた端正な横顔に表情を探ったけれど、表情からはまだ何も分からなかった。

地下鉄のない街 45 西村の手紙〜振られた後

 振られた女の子にまた手紙を出すべきかどうかずいぶん迷ったよ。

 君は未練タラタラの手紙なんか読みもせずにゴミ箱に捨てるかもしれない。
 でもね、これはもう一度こっちを振り返って欲しいとかそういう手紙じゃないんだ。

 これを今読んでいるという事はゴミ箱行きの第一関門を突破したという事なんだね。

 せっかくだから最後まで読んで欲しい。いや、違うな。多分君は最後まで読むことになると思う。



 僕は君を諦める事にした。それはね、ある人の忠告を聞く事にしたからなんだ。

「あの子は君の手に負えるような子じゃないよ」



 その人は喫茶店で珈琲をすすりながら大きめの茶封筒をテーブルの上に置いた。社会的地位はまだそれ程ではないみたいだけど、世の中のメインストリームにいる人だなって思ったよ。何がメインストリームなのかは僕にはわからない。でもね、僕には分かるんだよ。僕はね、大人たちを沢山見てきたから。そう。何百人もね。僕の周りの大人たちはみんな、どこか普通に生きていくには不自然で余計なものを持っていた。ああ、僕の家が割と有名な新興宗教の団体を主催しているっていうのは知ってるよね。僕はそこの一人息子。まあ跡継ぎだから大人たち、うちの団体の信者と話をする機会なんかも結構あるわけね。

 余談なんだけど、うちの学校の保健室のマドンナ、春日井先生いるだろ。あの人のご両親も昔から熱心な信者なんだよ。世間は狭いよね。あ、春日井先生本人はそういうつながりは一切知らない。ご両親はなんでも行方不明の弟さんを探したいらしいんだ。そう。警察ではもうこれ以上探せないから。もちろんうちでも人探しなんかしないさ。でもね、本当の自分を探すのも行方不明の人を探すのも似てるところがあるからね。

 何が似てるかって?



 ありもしないものを、探せないものを探すことさ。

 でもね、僕はそれをバカにしてるわけじゃないんだよ。

 だってそれが信仰、つまり信じるっていうことだからさ。



 ある人、もう分かるよね。

 君のお父さんもありもしないもの信じてたよ。かわいそうなくらい。

 君のお父さんはありもしない理想の家庭というものを探してた人みたいだったね。

地下鉄のない街23 保健室の素顔

「皆川君はさ、ホントは足が速かったのね。三位なんかじゃなくて県大会で準優勝したこともある僕よりも速い」

「え?そうなの?あんたといい勝負だったのは理事長の息子の…」

「そう。神崎さんだけ。表向きはね」

 姉さんはほんの少しだけ視線を下に落とした。姉さんの頭の中で何かが動いたみたいに思えた。

「『僕が君たちと競い合って速く走ることに何の意味があるの』って、そういうことなのかな」

 僕は頷いた。でも急いで言葉を続けた。皆川君は世の中を斜に構えてシニカルにやりすごすようなそんな嫌味なタイプの子ではなかったから。

「性格だって言ってしまえば簡単なんだけどね、皆川君はとにかく目立つことが嫌いだったんだよ。いや、なんていうかいい意味で目立つんだから、むしろ人は羨ましいって思うかもしれないんだけどね…。皆川君はそういうのをほとんど恐怖してたんだ」

「あんたより速いんだったら確実に学校で一番速いわけだから、それだけで学校生活の居心地も良くなるはずなのにね」

 姉さんは首をかしげながら不思議そうにそう言った。

「僕もそう思ったよ。なんで隠すんだって聞いたこともある」

「健太郎はどうしてそのことが分かったの?」

 うん、そうだよね。僕はどうしてそのことを知るようになったのか…。

「僕にとってのこの世からの避難所が姉さんであったみたいに、皆川君にとっては貧血でお世話になる保健室がそういう場所だった」



「あ、春日井先生でしょ。あのメガネをかけていつもポニーテールにしてるかわいい先生」

 姉さんはメガネを外す仕草をして僕の顔をまじまじと正面から見つめ、大きくにっこり笑う春日井先生の真似をして見せた。僕は少し驚いた。あの春日井先生の愛くるしくも慈愛に満ちたしぐさを真似することのできる人がこの世にいたとは思えなかったからだ。

「春日井先生にそっくりだよ、驚いたな」

 姉さんはもう一度メガネを掛け直し、改まった口調で『それで今日はどうしたの』と真面目な顔で言った。びっくりだ。その後本題にはいる時に女医さんに戻る瞬間もそっくりだった。


「まるで先生がここにいるみたいだったよ」

「そう?それは嬉しいな。女子生徒の間でも春日井先生は大人気だったからね。実はあたしも用もないのに時々仮病で先生に会いに行ってたんだぜ」

 なるほど、そういうことか。



「あんたはそういうことしなかったんだよね、たしか」

 僕は頷いた。

「うん。部活の練習中にトラックで下級生と接触して転倒してね、奥のベッドのある個室で休んでいるうちに寝ちゃったんだ。すばらくして目が覚めると、むこうのの診察室で皆川君と先生の声がしたんだ」



 姉さんが首を少しかしげる仕草で少し笑った。

「聞いちゃったのか。何か」

「うん」
ゆっきー
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