あった。
不思議だ。菊地会計事務所と書いてある。随分昔風の事務所だな。
「ごめんください。書類お持ちしました」
「ああ、君島さんご苦労さん。まあまあ、冷たいお茶でも飲んで。」
「はい」
なにかが違う。それに菊地先生ではないんだな今日は。
「あの、今日菊地先生はお留守ですか」
「何言ってるんですか、私がちゃんと対応してるでしょう」
え。この人菊地先生・・・。菊地先生を名乗る人は、ぼくが会社で懸命に直して持ってきた書類に目を通していた。
「うん、なんですかこの書類は」
柔和な顔だったけど、少し困惑した表情だった。
「は?どこか悪かったでしょうか・・・」
「わたしもわからん訳じゃありません。この会計基準は現在制度を整備しようと会計士や税理士が努力しているところですから。しかし制度ができていないのに、いきなりこういう書類を作ってもらっても困りますなあ」
「え?しかしこの制度趣旨は一昨年から施行されていますが」
先生はどういうつもりなのだろう。僕をからかっているのだろうか。
「ははは、何を言ってるんですか、まだ学者先生の頭の中だけですよ。これを実際にやるには20年はかかるでしょう。いい方向だとは思いますがね。会計学と税法を融合させるというのは」
「すこし君島さんはお疲れですか。」
菊池先生はやさしくの僕を見る。
「すみません、作り直します」
「悪いけどお願いしますよ。実務家と学者は違いますからね」
「はい」おかしいな、最新の会計基準で税務処理したのに・・・。
まあいいや、いっぺん会社に戻って課長に相談しよう。
あ、父の会社だ、ここがそうだったのか・・・。
来るときにはわからなかったな。坂の途中にあったのか。あれ、今朝道聞いた人が出てきた。お礼言っておこう。
「先ほどは大変ありがとうございました」
「ああ、あなたですか」
「はい。大変助かりました。申し遅れましたが私こういうものです。あついですね、まったく」
「あ、わざわざお名刺までいただきありがとうございます。ああ、会社で経理を担当されているのですね。それで菊地会計事務所ですか。私はこういうものです。偶然ですね、あなたも君島さん、私の苗字も君島ですよ」
男は懐かしい笑顔でそう言った。
「本当ですね、びっくりです」
「またどこかでお目にかかりましょう」
「ぜひ。今日はありがとうございました」
「いえいえ、それでは」
男の格好や表情はあまりにも記憶の中の若いころの父親に似ていたが、あり得ないことに僕はそのことには一瞬とらわれただけで、すぐに忘れてしまった。
とにかく早く帰ろう。しかし、地下鉄はどこにいったんだろう。
坂道を降りるときにまた蝉が鳴いていた。
今はもう10月。鳴いているはずのない蝉だ。
自分がその蝉になって遠くから自分を見ていた。
雲が白い。
白い雲が遠くからまた自分を見ていた。
まるで、こんどは僕が白い雲になったみたいだ。
ぼくは誰なんだろう。
この世の中には誰もいない。
いい人も、悪い人も。
そして人間そのものもどこにもいないそんなこと知っているのに、いつも忘れている振りをしている。
交通ルールのように生きていかないと、生きていけないから
でも姉さんは違った生き方をしていたね。
交通ルールみたいな社交辞令で生きなくていい人だった
姉さん
いつか教えて。生きることの本当の意味。
続く