地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街~3微睡み

「よし、できたぞ」
 これを税理士事務所に届けたら、午前中の仕事は大丈夫だ。
「じゃ、外出してきまーす」
 やっと明るい声が出せた。
 いまのは上出来だな。
「行ってらっしゃい」
 と同僚の声。誰だかはわからない。皆同じ声をしているように聞こえる。 神田、14:00帰社。さて、行ってこよう。ホワイトボードに行く先を書くと、いつも開放感がある。

 今朝駆け込んだエレベータを降りると、ロビーはしんとしていた。ふう、やっと落ち着いた。自動ドアを出ると風がすっと頬を撫でる。あれ、なんだか変だな。街の景色がどこか変だ。こんなに緑が多かったっけ。あんなところに小学校がある。随分か小さく見えるな。でもそんなことより小学校なんてないはずだ。あそこは廃校になった後電機メーカーが市から手に入れて工場にしたはずだったけど。

 $小説 『音の風景』あれ?地下鉄じゃなくて普通の路線になっている。駅舎もどことなく古びているように見える。
 徹夜明けで、頭が変になったかな。まあ、いいや、相手先の事務所がある駅名はそのまんまだから、乗ってみようか。

「おかしいな、駅名が微妙にちがっている」

 切符売り場の路線図を見て、ぼくは思った。まあいい、急がなきゃ。



 電車の中で夢を見た。



 悪いのはおまえじゃない
 悪いのは、だれでもないんだ
 誰も悪くない
 だから誰も責められない

 ほんの冗談
 冗談を誰も責められない
 おまえもそうだよな
 冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ

 自殺はしないよ
 自分のためじゃない
 おれが自殺したら、お前が困るだろ
 悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ

 どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
 おまえにこういえたらどんなに楽だろう
 でも、誰に言ったらいいんだろう
 いつもおれをいじめるおまえか?

 ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
 だれににやらされているわけでもない
 やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
 相手のいないところへ向かって自己主張はできない

 敵はどこにもいないんだ
 ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
 何かをすることは不毛なんだ
 悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない

 しゃべっていないと、何考えてるのといわれる
 何も考えていないとは、だれもいえない
 たとえ、何も考えていなくても
 何かしゃべらないといけないように

 だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
 だれもいないとは誰もいえない
 たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
 だれかを標的にしないと生きていけないからね

 黙っていることができるところ
 姉さん、あなたはこの世の中で唯一のやすらぎの場所だった
 でも遠いところに行ってしまったね
 いつか、教えてね 死ぬことの意味を


      おしえて、姉さん・・・

      ・・・・・・



続く

地下鉄のない街~4白い雲が見ていた

「神田ー神田ー」

 車掌の声だ。

 またうとうとしてしまったようだ。課長の言うように、すこし勉強もセーブした方がいいのかもな。

 あれ・・・。確かに神田駅と書いてある。でもちがう、こんな街じゃない。神田は・・・。

 案の定だ。

 駅の中だけじゃない。駅前の風景が全く違っている。自分がどこをあるいるんだかまったくわからないや。先生の事務所どこにいっちゃったんだろう・・・。




「すみません」

「はい?」

「菊地会計事務所というのはどこですか」

「ああ、そこの角を曲がって、道をあがったところですよ」

 人のよさそうな、サラリーマンだったな。人見知りのするぼくもなぜだか自然と話しかけられた。なぜだろう・・・。不思議な懐かしさがある人だ。

 しかしおかしい、場所が違う。そんなところにあるわけがない。




「ありがとうございます」

「いいえどういたしまして」

 おかしいなあ・・・。まあ、とりあえず行ってみるか。

 そういえば、おやじのの会社がこの辺にあったな。離れて暮らしてから一度も会ってないけど。どうしてるかな・・・。まあ、関係ないやあんなやつ、俺には。

 死んでくれていれば一番すっきりするのに。何もかもが・・・。





     坂道をあがるときに蝉が鳴いていた。
     自分が蝉になって遠くから自分を見ていた・
     雲が白い
     白い雲が遠くから自分を見ていた。

     だれもいない
     この世には

     ただ人間関係が網の目のように重なり合っている。
     ぼくもいない
     だれもどこにもいない
     ずっと分かっていたことだよな


       そうだよね、姉さん・・・

小説 『音の風景』





続く

地下鉄のない街~5男との再会

 あった。

 不思議だ。菊地会計事務所と書いてある。随分昔風の事務所だな。

「ごめんください。書類お持ちしました」

「ああ、君島さんご苦労さん。まあまあ、冷たいお茶でも飲んで。」

「はい」

 なにかが違う。それに菊地先生ではないんだな今日は。

「あの、今日菊地先生はお留守ですか」

「何言ってるんですか、私がちゃんと対応してるでしょう」

え。この人菊地先生・・・。菊地先生を名乗る人は、ぼくが会社で懸命に直して持ってきた書類に目を通していた。


「うん、なんですかこの書類は」

 柔和な顔だったけど、少し困惑した表情だった。

「は?どこか悪かったでしょうか・・・」

「わたしもわからん訳じゃありません。この会計基準は現在制度を整備しようと会計士や税理士が努力しているところですから。しかし制度ができていないのに、いきなりこういう書類を作ってもらっても困りますなあ」

「え?しかしこの制度趣旨は一昨年から施行されていますが」

 先生はどういうつもりなのだろう。僕をからかっているのだろうか。

「ははは、何を言ってるんですか、まだ学者先生の頭の中だけですよ。これを実際にやるには20年はかかるでしょう。いい方向だとは思いますがね。会計学と税法を融合させるというのは」

「すこし君島さんはお疲れですか。」

 菊池先生はやさしくの僕を見る。


「すみません、作り直します」

「悪いけどお願いしますよ。実務家と学者は違いますからね」

「はい」おかしいな、最新の会計基準で税務処理したのに・・・。





 まあいいや、いっぺん会社に戻って課長に相談しよう。






 あ、父の会社だ、ここがそうだったのか・・・。

 来るときにはわからなかったな。坂の途中にあったのか。あれ、今朝道聞いた人が出てきた。お礼言っておこう。


「先ほどは大変ありがとうございました」

「ああ、あなたですか」

「はい。大変助かりました。申し遅れましたが私こういうものです。あついですね、まったく」

「あ、わざわざお名刺までいただきありがとうございます。ああ、会社で経理を担当されているのですね。それで菊地会計事務所ですか。私はこういうものです。偶然ですね、あなたも君島さん、私の苗字も君島ですよ」

 男は懐かしい笑顔でそう言った。



「本当ですね、びっくりです」

「またどこかでお目にかかりましょう」

「ぜひ。今日はありがとうございました」

「いえいえ、それでは」


 男の格好や表情はあまりにも記憶の中の若いころの父親に似ていたが、あり得ないことに僕はそのことには一瞬とらわれただけで、すぐに忘れてしまった。


$小説 『音の風景』




 とにかく早く帰ろう。しかし、地下鉄はどこにいったんだろう。

 坂道を降りるときにまた蝉が鳴いていた。

 今はもう10月。鳴いているはずのない蝉だ。

 自分がその蝉になって遠くから自分を見ていた。


 雲が白い。

 白い雲が遠くからまた自分を見ていた。

 まるで、こんどは僕が白い雲になったみたいだ。



 ぼくは誰なんだろう。



 この世の中には誰もいない。

 いい人も、悪い人も。

 そして人間そのものもどこにもいないそんなこと知っているのに、いつも忘れている振りをしている。

 交通ルールのように生きていかないと、生きていけないから




 でも姉さんは違った生き方をしていたね。

 交通ルールみたいな社交辞令で生きなくていい人だった



     姉さん

     いつか教えて。生きることの本当の意味。




続く

地下鉄のない街~6 気になるY.K

「課長、書類届けてきました」

「ご苦労さん。菊地先生OKだって?」

 課長は確認というよりもついでにそう言ったみたいで、僕はOKではなかったことを言い出しにくくていきなり困ってしまった。

「それが、この会計基準だとだめだということでした」

「なに?」

 そらきた。

「参照した税効果会計を適用しましたが、会計処理そのものがそれでは新しすぎるということで、いったん作り直してくれということです。その後正式にチェックするということでした。」



 課長の表情が見る見る不機嫌になっていくのが分かった。

「何を言ってるんだよ。聞き間違いだ。君の去年までしか通用しない古い会計基準で仕上げられた書類をわざわざ私が最新のものに朝から作り直したんだ。今年はあれでないと監査は通らない。私の労力も考えてもらいたいね。」

 課長は一気にまくし立てる。

「いえしかし。すみません。はい。申し訳ございません」

「まあもういい。私から電話しておくから」

「分かりました。よろしくお願いいたします」





 やっと終業時間だ。

 昨日まで頑張ったから今日は残業なしで帰れるな。帰ってゆっくりできる。
 今なら課長は席を外している。帰るなら今だな。まあ、こういう態度がそもそも問題なのかもしれないけれど・・・。

$小説 『音の風景』


 地下鉄のつり革の手すりを掴みながら思った。昼間どうして地下鉄は消えていたんだろう・・・。真っ暗のトンネルの中まっすぐ向いた僕の視線の前には窓に写ったもう一人の僕がいた。見慣れた・・・顔。これまでも、これからも・・・。




 そういえば、あの子と知り合ってから何かがおかしい・・・。

 偶然チャットで知り合ったおんなのこ。

 Y.Kっていうハンドルネームだったな。

 宇宙人としゃべっているみたいで、楽しいけどどこか分からないところもある。

 今夜今日あったこと話してみよう。

 僕はわくわくした。

 今日の出来事は彼女と話すためにあったようなものだ。




 帰りの地下鉄の中、不思議な時間が疲れた頭の中を心地よく通りすぎていった。







続く
ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
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