「春日井先生が標的ってどういうことなんだろ・・・」
姉さんは沈痛な顔をしてつぶやいた。
それを説明するにはあの騒動から話さないといけない。
「姉さんさ、一度うちの学校の保健室って一時封鎖になったこと覚えてる?」
姉さんは僕の顔を見て無言でしばらく考えていた。
「あ、あったね。でも封鎖なのかあれ。毎日春日井先生の保健室に行く生徒が激増して保健室からほとんど下駄箱のあたりまで生徒が行列してて異様な雰囲気の時期あったよね?入れないって封鎖じゃなくて、行列整理みたいなのかと思ってたけど」
覚えていたか・・・。
「あれね・・・。普段から皆川くんみたいな生徒が保健室に避難していくのにイラついていた生徒たちが、阿吽の呼吸で一斉にやった嫌がらせだよ」
そう。翌日には皆川君がトラックでタオルを叩きつけたことは学校じゅうに知れ渡っていた。そして誰もがそのことを見過ごしはしなかった。放っておけばその皆川君の撒いた事件の病原菌は、瞬く間にペストのように学校中の空気に拡散するだろうということは明白だったからだ。
ただでさえ薄い呼吸困難な空気。微妙な空気の具合でかろうじて成立しているカースト大気圏は皆川君の放つ細菌で壊滅するだろうと誰もが恐怖した。
今度の秩序防衛の義務を果たすのは、学校の見えない空気の流れを司る第一階級と第二階級だ。
分かるかい?姉さん。
姉さんは再び黙って考え込んだ。今度はさっぱりわからないといった様子で首を横に振った。
「前にも言ったよね。皆川くんに嫌がらせをした生徒が、皆川くんが全然堪えていないように見えれば見えるほど、なんだか自分のことを馬鹿にされているみたいに苛立ってくるって」
「うん。なんだろうね、分かる気がするよ。自分の能力を、変な話だよね、でもその人を傷つける能力を否定されてると思っちゃうんだよね。無視された自分もみんなの手前恥ずかしいから、ここは泣きわめく場面だろ!って発狂しそうに怒るとかあるかも…ね」
僕は頷いた。
「教師でもいるでしょ。お前は反省してるのか、って自分から答え求めてるのに、『反省してます』とかいうと、『心から反省しているとは思えない!』とか言ってかえって激昂するのが」
今度は姉さんが嫌悪感をあらわにして頷く番だった。
「ああ。あるよそういうの~。教師だけじゃなくて・・・」
姉さんは口に出してからしまったという表情をした。
「うん。姉さんに対してはただの一度もないけど、うちの父親が僕に接するときの典型的態度だね」
姉さんは僕と父親の不仲の現場を思い出したのか、かすかにうん、と曖昧に口を動かした。
「ああいう時ってさ、もう、自分に屈していない部分があるんじゃないかって無意識に探しちゃって、それが少しでもあると感じると、怒こっている自分の全能感のプライドが傷つけられたみたいになるんだよね。親父を見ていてよくわかるけど」
「うん。謝っているのにそれ以上どうしろっていうんだよね・・・」
姉さんはため息をついた。
「その時にさ、怒りの矛先は相手の人間の心の中の神様に向けられるわけさ。その余裕ぶったお前の拠り所の神もろとも抹殺してやるってね」
「神様・・・か」
そう。だからごめんね。姉さん。父さんは表には出さなかったけど僕のせいで姉さんにも理由のない苛立ちを覚えていたはずなんだ。僕の神様は姉さんだったから。
「長崎で隠れキリシタンを拷問した時と同じなんだ。親父見ててね、僕は拷問した役人の気持ちはよく分かるんだよね。為政者の外交方針なんてまったく関係ないんだよ、末端の役人は。自分がやっている拷問に屈しないばかりか、拷問している相手はなんか妙な幸せそうな恍惚とした表情を浮かべてる、さらに笑みさえ浮かべて拷問している自分に向かって憐れみの表情を向けたりする」
「うん。殺すまでやってやろうという気に・・・。なるかもね」
「親父がまさにそうだ」
「お父さんの話は今いいよ」
「ごめん」
「・・・」
蝉がざわめく・・・。
僕は姉さんが僕と父親のことを心配していたことを思い出した。昔から・・・。そして、今この不思議な時空間に姉さんが僕を引き入れたのも父親とのことについてなにか伝えたい事があったことを思い出した。
そして僕は蝉の鳴き声と共に、
先々週菊池会計事務所に行く途中に出会った若いころの自分の父親のことを思い出した。
「それで、なんで行列になっちゃったの?」
「保健室に行くだろ。春日井先生は仮病だから教室に戻りなさいと言うわけだ」
「うん」
「皆川くんだけひいきしていると騒ぐわけ」
「バカみたい」
「うん。でも。行列作って皆が毎日それを飽きずにやる」
「春日井先生はどうしたの?」
「あんまりゴネる生徒には、担任に早退許可のメモを書いて渡したりした」
「それで?」
「早退許可のメモを受け取った担任は、春日井先生が仮病の人間に早退許可を与えて学級運営を妨害すると、各クラスの担任と横に連携をとって騒ぎ始める」
「横に連携?教師たちがグルってこと?」
「ああ。教師の意見をまとめて教頭に報告。教頭は保健室の存在のせいで学校教育が阻害されているとPTAの懇談会で現状を報告する」
「誰か糸を引いている人間がいるでしょ、それは」
陰鬱な空気の中姉さんが核心部分を聞いてきた。
「うん」
「誰?」
「陸上部顧問の木島」
「そういうことなのか・・・」