「皆川くんの走りは見事だったよ。顧問の木島が仮入部を許可したわけも分かった。僕が放課後陸上部に顔を出す前に仮入部は決まっていたんだけどそういうのは例外なのね。うちの陸上部は大学を含めた学校法人全体の方針もあって世間でもかなり注目を浴びてる。中高でもスポーツ推薦枠で優秀な生徒を全国から越境入学させてるし、大学なんかだとケニアとかアフリカなんかからもどんどん学生を入れてるしね。」
「そうだね。あたしも他の学校の子には陸上部すごいんだね~、とかよく言われるけど」
姉さんが何度か頷いて言った。
「僕なんかは中学から本格的に始めた、というか入部してから本格的にやらされちゃった感じもあるけど大多数はそうじゃないんだ。まず親が陸上選手だったのなんて当たり前だし、アマチュアの連盟で偉い人もたくさんいる。そういう家庭で小さい頃から陸上競技やるのがなんか当たり前みたいなそういう生徒も多いしね。」
「あんたみたいにちょっと足が早いから入部してみようなんていうのはあまりないんだね。ましてや途中から皆川くんみたいに思いつきみたいな感じで入部します!みたいなのは・・・」
「そうそう。皆川くんの場合顧問の木島がね、一年の時の体育の授業で皆川くんの本気の走りを少しだけ見ていたんだ。」
「ああ、なるほど」
「僕も実はその時のことは覚えてる。皆川くんにしてみたら隠そうとしていたわけなんだけど、なんかの拍子で本気が出ちゃったわけさ。腿の上がり具合とか、足裏の接地時間とかね、そういうのは見る人が見たらそれこそ一瞬で分かるんだ。そいつがどれだけの走りをするのかって」
僕は昔のことを思い出して、喋りながら何十年ぶりかに自分の足の親指に短距離走用の独特の力を入れた。親指の付け根、母指球に力を少し入れて千鳥ヶ淵公園のアスファルトを軽く引っかくようにに体重をかけると、今でもあの頃のトラックの感覚が蘇ってくる。
「実際に速かったわけね」
「100メートルを走ったよ。木島がタイムを測った。木島がタイムを測るもんだから部内のみんなもただ事じゃないなって集まってきてね、ほとんど全部員のいる中で皆川くんは走った」
「結果は?」
「12秒02」
「ごめん、どのくらいの記録なの?」
「軽く全国レベルだよ。全国のスポーツ推薦枠持ってる学校のスカウト注目の的」
僕はあの時の皆川くんの走りを思い出していた。素質だけの我流の走りとはとても思えなかった。といって、部の連中のように乾いた雑巾を無理やり絞るような極限的な練習や、神経質なまでのフォームの矯正から生み出された走りではない、野生動物のような目を見張るような躍動的な走りだった。
一流のアスリートは他人のフォームを見ているだけでも、凡人が懸命に走りこみの練習をするよりもはるかに多くのことを学ぶものだと、いぜん大学から特別コーチに来てくれた陸上部の卒業生が言っていた。皆川くんはまさにそれだった。登下校の時になんとなく目に映る僕らの走りを見ていて、無意識のうちに、理想的なフォームとのズレというものをぼんやり思い浮かべていたのかもしれない。
「じゃあ、みんな驚いたよね」
「そうだね、理事長の息子の神崎とその周りの取り巻きが一番ビビってたかな。大変なもの見ちゃったってね」
「大変なもの?」
「そう。あのタイムだったら少しフォームを競技用に矯正すれば神崎さんのタイムは軽く抜かす。神崎さんを中心にして組み立てられてる部内の秩序が崩壊する恐れが再び現実のものになりそうだったわけさ」
姉さんの顔が一瞬険しくなった。
「健太郎もそういえば・・・」
「そうだよ。皆川くんの走りを見ていて既視感に囚われたんだけど、すぐに一年前の自分だったんだって気がついた」
「あたしにうちあけてくれたよね」
「うん。神崎さんの取り巻きの中の代表の西村さんに呼び出されて、部内の秩序を守るように懇々と、というか恫喝かな、ソフトな・・・。とにかく神崎さんを上回る記録は今後練習であっても出さないようにってね」
「あの時や辞めようかって真剣に悩んでたね。」
「まあね。西村さんの申し出を理解しないとどんな地獄が待っているか、まあ、普通は想像できる。でも僕にしたら陸上競技に命かけてるわけじゃないし、足が早いということで学校の中でそれなりの居心地がいいポジションがキープできるという以上の意味合いはあまり感じられなかったからね。結局うまくやっていくことにしたんだ」
「うん。姉さんは健太郎がトラックで一位になる瞬間というのを見れないのか、ってちょっと残念だったけどさ。まあ、それにしてもそういう世界なんだってあの時はびっくりしたの覚えてるよ。じゃあ、皆川くんにも西村さんという人が話しに行ったわけね」
大きなため息が自分の中から沸き起こった。ああいう展開しかなかったんだろうか、本当に。
「もちろん行ったさ。西村さんが100メートルのゴールのところまでタオル持ってねぎらいに行ったよ。みんなはああ、西村さんが行ったな、って感じで見てた」
姉さんが深呼吸をした。
「それで?」
「口論になった」
「・・・」
「皆川くんがタオルを西村さんから奪い取って地面に叩きつけてトラックから出ていったよ」
姉さんは無言で頷いた。
僕はもう一度大きなため息をついた。
姉さんも小さくため息をついた。