地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街22 ザビエル皆川

「皆川くんはね、ザビエル皆川っていうのがあだ名だったんだ」

 僕がそのあだ名を口にするのも中学の時以来だった。

「ザビエル?フランシスコザビエルさん?」

 誰でもまずそれを思い浮かべるだろう。中高生の僕達にとって教科書に必ず載っているザビエルのあの肖像画は馴染み深いものだ。

「うん。そう。社会の時間にそのページ開いてる時に誰かが言ったんだ。『これって皆川そっくりじゃねえ!』ってさ」

$小説 『音の風景』 皆川くんが死んでしまってから、僕は図書館で彼のあだ名になったザビエルの肖像画を何度も何度も繰り返し見たので今でもくっきりとあの絵を目に浮かべることができる。

 ザビエルは斜め上の方を遠くに見ている。異国の地での好奇の視線を遮断するような黒いマント。でも自分の殻に閉じこもっているのじゃなくて、マントの下から両手を十字形に交錯して出している。自分の手で作った十字架は武士の二本差のようにも思えた。抜かないけれどそこに魂がある。何をされようとも決してけがされない世界を自分は持っている、それをマントの内側からきちんと外に見せているんだ。

「普段着ていた服とかがあんなとかじゃないよね」

 姉さんは少し笑いながら言った。

「ねえさんさ、学校のいじめで一番究極にいじめられちゃう人間ってどんな子供か分かるよね」

 僕はそれには答えずに、僕はザビエルの肖像画の赤い心臓に突き立てられた十字架を思い出しながらつぶやいた。

「そうだな・・・。最初はいじめがいのある子かな。少しだけ気が弱かったり、運動が出来なかったり、先生の質問に対する答えがちょっとピントがぼけてたり、気が付かないうちにクラスのお約束やぶってたり・・・とか?」

 でも、ザビエルのキャラじゃないよね、姉さんの目がそう言っていた。頭の回転の良い姉さんは僕の話の行く先を自分で想像しはじめたようだった。

「もちろんザビエル皆川くんはそうじゃなかったんだ。服装も顔もあの肖像画の写真とはぜんぜん違う。でも教室でザビエルと皆川は似てるって誰かが言った時、教室中はやっと皆川の正体がわかったって感じでもりあがったんだよね」

 姉さんは黙って頷いた。

「究極にいじめられちゃう子ってさ、いくらいじめても全然こたえないやつなんだよな、やっぱさ」

 姉さんが何度か頷く。

「皆川くんがまさにそうだったんだ。いじめは最初はコミュニケーションの一つって、大人はとんでもないというけど、やっぱそういうところも確かにあると思うんだよね。最初はいじめのつもりじゃなかったって言い訳みたいに聞こえるけど、じっさい学校で生活してるとそういうところはあるよね」

「まあね。線引きは難しいよ実際」

「それが明確にいじめに、それもとてつもないいじめに変わる瞬間ってさ、からかわれたりしたほうが、自分の許容範囲の中で傷ついたりとかカッコ悪い思いしてるところを晒したりとかさ、そういうこと一切拒否った時にでてくると思うんだよね、やっぱ」

「逆にいじめてるほうが無視されたみたいに傷つくわけか」

 僕ははっとした。なるほど、姉さんはうまいことを言う。

「そういうことなのかもしれない。」

 僕の頭の中でその時初めて皆川くんの陸上競技大会三位の意味がわかった気がした。

「考えてみたらさ、400メートル走のタイムでだれが1秒早いとか1.2秒早いとかってどうでもいいっていえばどうでもいいよね」

「まあ、関係ない人にはね」

「皆川くんは一事が万事そういう雰囲気を醸し出してたんだよ。自分が足が遅いから悔しがるとかじゃなくて、そもそも早く走るのに意味があるの?みたいなさ」

「ああ・・・。それはちょっと反感買う時もあるかもね」

「まあね、皆川くんの場合はそれが徹底してたんだ」

 姉さんは「どんな?」と目で聞いてきた。

「最初は冗談のつもりではじめた皆川くんへのいじめにも、そのいじめそのものに対しても皆川くんはそういう態度で対応したんだ」

 姉さんは納得がいったという顔をした。僕自身も自分で話を始めておきながらはじめてそのことの意味がわかった気がした。



『俺へのいじめなんてそんなことにどんな意味があるんだ』

 姉さんが皆川くんの心中を想像しながらそうつぶやいた。


 そっか。

 いじめることを無視されて傷ついたクラスの人間は、まるで皆川くんがいじめに根を上げるまでそれを続けることが何かの必要な義務であるかのようにいつしか思えてきたのかもしれない。

 
 僕の中で、授業をサボって何度も図書館でページを開いたザビエルのあの肖像画が、あらためて皆川くんとくっきりダブって見えた。

地下鉄のない街26 お姫様の物語

「ねえ、健太郎」

 姉さんはいつの間にかすっかり重たくなってしまった空気を振り払うかのように笑いながら言った。

「何?姉さん」

 どこに連れて行かれるかわからない日常会話というものが僕は昔から苦手だった。誰も知らないことだけど、僕は昔から目の前で今しゃべっている人が突然何か訳のわからないことを言い出すかもしれないという想像にしばしば怯えていた。

 それは話の腰を折られて僕が傷つくとかそういうことではなくて、あるとき突然世界全体の歯車が狂ってしまう瞬間を想像することが恐ろしかったのだ。例えば昨日まで普通にしゃべっていた人が交通事故にあって記憶を失ってしまい、次の日に僕に会った時に僕の記憶をすっかり忘れてしまっているように、この世界の記憶のメカニズムがほんの少し狂って、ほんの少しだけ別の世界が割り込んできた時に、一見それまでとかわりのない日常がそれまでとはうって変わってまったく贋物のようになってしまう瞬間。僕が知らない間に世界のあっち側とこっち側とか入れ替わってしまうような瞬間がなぜ頻繁に起きないのか、僕は頭で考えるとおかしいとはわかっていても、むしろそういうことが起きない事のほうが不思議に思えたから。

 姉さんが話題を変えるときには、いつも一瞬だけこの世界にあっち側がすっと舞い降りそうになる。でも不思議なのは、姉さんのそれは僕の恐怖に結びつかず、逆に生きて行くのに息ができないほどに苦しいこっち側の世界にすっと風穴を開けてくれるような気がすることだった。集中して耳を澄ませて聴いていた美しい合唱曲が、ある部分で男声パートと女声いパートにふっと別れていく瞬間のような、単に美しいだけじゃなくて、世界の優しい多声的な宇宙の神秘を垣間見るような、大げさに言えばそんな気がしたものだった。

 ちょうど今のように。

「あるところにお姫様がいました。お姫様はもちろんお城で生まれてお城で成長したの。それはそれはすくすくと育ってみんながお姫様の気立ての良さや器量を褒めそやしました」

 姉さんは今の僕よりもっと小さい僕に物語を聴かせるような口調で突然昔話を話し始めた。昔姉さんから聞いたような気もしたし、初めてのような気もした。

「あ、もしかしたら姉さんからその話聞いたことあるかも。お姫様は豊臣方の大大名のお姫様で、関ヶ原の合戦で最後まで家康に与しなかったお家はお取り潰し。お姫様は死罪を免れた後、その美しさと気だてのよさもあって家康の計らいで徳川家御三家にお輿入れすることが決まった。そんな話じゃなかったっけ」

 僕はまだ五歳くらいの子供になったような気がして、姉さんが先を言う前に自分で話の続きをしゃべってみた。

「よく覚えてるね。なんかうれしいよ。でもさ、ホントの話の続きは知らないと思うんだ。」

「え?続きがあるの」

「うん。あのころあたしもその話の続きは知ってたんだけど、意味が分からなかったからあんたには話さなかったんだ」

 姉さんは当時の困惑を思い出したのか、少し複雑な表情をした。

「どんなのだろ」

「うん。健太郎の今のカニスティックの話聞いて突然思い出した。」

「僕や皆川くんやトニーの話聞いて?」

「うん。カニスティックはきっと別の世界のドアの鍵みたいものだよね。自分だけがそのことを知っている。それを黙っていてもいいし、カニじゃないと叫んでもいい。王様は裸だ!って爆弾にしてもいいし、そっとそのままおいしそうに口にいれてもいい。そして何も気がつかないふりをし続けてもいい。お姫様もちょっと違うカニスティックを持っていたんだなって今思ったんだ。」

 姉さんは少し真面目な顔をしていた。

「お姫様ね。輿入れ断って行方をくらましたんだ。そして娼婦になってたの」

 僕はそっと舞い降りた娼婦のお姫様が住む世界を想像した。そしてとても自然に、そういうこともあるだろうと思った。僕は姉さんの話の続きを黙って待った。

地下鉄のない街27 城の中から見た舞台

「お姫様はね、簡単に言うと切腹させられたお父上のことや、お家断絶で激変した自分の家来たち、自分のそういう運命全部をうまく受け止めきれなかったんだよね。
 まあ、それはそうだよね。徳川家光だっけ、『余は生まれながらの将軍であるぞ』って言い放ってお爺さんの家康とライバルだった大名たちを平伏させたの。お姫様もそれと同じで生まれながらの姫様だから現実が受け止められなかったのは当たり前かもね。」

 やっぱりこのあたりは初めて聞く話だった。

「記録によるとお輿入れが決まってからというもの、お姫様は自分の思い出の詰まった自分のお城を、わずかに残された自分の身の回りの世話をする侍女たちと、残された時間を惜しむように朝から晩まで見て回ったらしい」

「大大名のお城だから見てまわるのも大変だね。」

 僕はちょっと間抜けな相槌を打ってしまったかなと思った。姉さんはおおかしそうに笑って話を続けた。

「最初に行ったのは騒動の中姿が見えなくなっていた御友達の家。家といってもお姫様が住んでいたのが三の丸で、生まれたのが同じお城の中の二の丸。本籍が二の丸で現住所が三の丸みたいな感じだったのかな。小さい頃からお側に使えていた重臣の跡継ぎの子はお姫様が生まれた二の丸に住んでたんだ。もちろん実家は城の外にあるんだけど、この子はやっぱり生まれた時からお城の中の住人。重臣たちの中には二の丸の中にも自分のお家がある人もいたわけね。お姫様はそこを訪ねていったんだ。多分お家の断絶と混乱とかがなければ一生そこを訪ねることもなかったんだと思う」

 僕は本籍と現住所の例え話に笑った。そういえば今こうして姉さんと歩いている千鳥ヶ淵から四谷、 市ヶ谷方面の外濠に至る範囲には、徳川家譜代直参の家臣の住居が配置されたいわば江戸城と地続きの空間だったんだっけ。僕は以前ここを散歩した時に見た名所案内の立て看板でそんないわれを読んだことを思い出した。

「お姫様は幼馴染に会えたの?」

「うん。お友達はいるはずのない場所にお姫様を発見して最初は驚いだけど、とても喜んでくれたそうよ。そして激変した世の中のことやこれからのお家のことなんかを説明してくれたらしい。その家来もお姫様も今でいう小学生くらいの年齢だから、やっぱり受け止めるのは大変だったろうね」

 僕は頷いた。

「お姫様は侍女に命じてその家来の子との思い出の品、遠眼鏡を取り出させたんだ。その昔、男の子の本当の家が二の丸じゃなくてお城の外にあると聞いたお姫様がなみなみならぬ関心を示して、城の外というのは一体何なのか、と何度も聞いてきたらしい。お姫様にとっては生きていく一生分の全てのことは城の中で完結しているから、城の外に別の世界があってそこに普通に人が生まれて死んでいくことに新鮮な驚きがあったみたい。」

「そしてその子、御侍さんは外の世界と行き来しているというわけだね」

「そう。だからその家に遊びに行きたいとせがんだらしいんだ。」

「まあ学校が終わった後近所の友達の家に遊びに行くような訳にはいかないよね」

 僕はなんだかお姫様がとても身近に感じられた。お姫様の気持ちがとても良く分かる気がしたのだ。

「そこでその子が持ってきたのが遠眼鏡というわけ。その遠眼鏡で三の丸から飽きることなく城下を見るのがその日以来楽しみになったらしいよ」

「珍しいものばかりだったろうね」

「そうだね。言ってみればさ、お姫様にとって三の丸から見下ろす城下は観客席から見る舞台みたいなものだったんだと思う。そこには話で聞いたことのある町民や農民がお芝居をしているように、ううん、お姫様にとっては実際にお芝居にしか見えなかったと思うんだ。珍しいきたない服を着て小さな家に住んで、笑って、泣いて・・・。もちろん今の双眼鏡と違ってそんなに精度はよくないはずだから泣き顔や笑い顔まで視えるはずないけどさ、そこはあたしの想像。お姫様は現実世界のお城の観客席から、絵空事のお芝居の舞台を見るのが好きだったんだ」

「お姫様にとっての現実は観客席の側にあるわけだもんね」

「うん、そうだよ。でもお父さんが切腹させられて自分は城の外に輿入れのために引っ越すことになるあたりからその境界線が曖昧になる。舞台の上では場面が変わって合戦が始まって、この間まで自分の父親もその舞台で刀を抜いて戦う役者を演じていたらしい。でもどうもそれがお芝居でなかったらしいのは、現実に城の中ががらっと変わってしまったこと」

「お姫様は実は自分の城の方が、下々の者や他国のもの、敵対する武将たちからは不可侵のきらびやかな舞台であったことに気が付きはじめた?」



 季節はずれの蝉の鳴き声がまた聞こえた。

 僕はふと、自分と姉さんも誰かに見られているような気がした。



「姉さんさ、地球人は実は宇宙人の作った動物園で飼われているめずらしい動物だっていう話知ってるかい?」

「うん、聞いたことあるよ。その絶滅寸前の珍しい動物がほんとに絶滅しないように宇宙人が保護地帯を作った。それが太陽系の惑星。時々おっちょこちょいな宇宙人が間違って円盤を見られたりするけど、動物園に立てかけている看板にあるように、決して檻の中の動物に餌をあげちゃいけないし、遠くからそっと気が付かれないように見ているだけがルールなんだよね」

「うん。その話思い出した」



 もしかしたら僕達も誰かに遠眼鏡で見られている舞台の上の人達なんだろうか。僕はもしそうだとしたらどんなに幸せだろうと思った。少なくとも、僕達のこの今という確かさは幻想なんかじゃなくて紛れも無い現実なんだと思えた。



「お姫様はね、二の丸を訪ねてしばらくしてからその家来の御侍さんと行方をくらましたの」

「・・・」

「別のお城に引越しするだけのお輿入れを受け入れることは、お姫様にとって多分恐ろしいことになっていたんだと思うんだ。夢からさめてまた死ぬまで夢を見るということがどんなことか、考えてみたら怖くなっちゃったんじゃないかなとあたしは思う。行き先は城下の御侍さんの実家。そこまで記録が残ってる」

「そこまで?」

「うん。正確には慌てた家臣たちが二人を探しに行って御侍さんだけ捕まえてきた。御侍さんは責任をとって一族郎党もろともすべて自害。お姫様はついに見つからなかったんだって」

「・・・うん」

地下鉄のない街30 戸惑い

「皆川くんの走りは見事だったよ。顧問の木島が仮入部を許可したわけも分かった。僕が放課後陸上部に顔を出す前に仮入部は決まっていたんだけどそういうのは例外なのね。うちの陸上部は大学を含めた学校法人全体の方針もあって世間でもかなり注目を浴びてる。中高でもスポーツ推薦枠で優秀な生徒を全国から越境入学させてるし、大学なんかだとケニアとかアフリカなんかからもどんどん学生を入れてるしね。」

「そうだね。あたしも他の学校の子には陸上部すごいんだね~、とかよく言われるけど」

 姉さんが何度か頷いて言った。

「僕なんかは中学から本格的に始めた、というか入部してから本格的にやらされちゃった感じもあるけど大多数はそうじゃないんだ。まず親が陸上選手だったのなんて当たり前だし、アマチュアの連盟で偉い人もたくさんいる。そういう家庭で小さい頃から陸上競技やるのがなんか当たり前みたいなそういう生徒も多いしね。」

「あんたみたいにちょっと足が早いから入部してみようなんていうのはあまりないんだね。ましてや途中から皆川くんみたいに思いつきみたいな感じで入部します!みたいなのは・・・」

「そうそう。皆川くんの場合顧問の木島がね、一年の時の体育の授業で皆川くんの本気の走りを少しだけ見ていたんだ。」

「ああ、なるほど」

「僕も実はその時のことは覚えてる。皆川くんにしてみたら隠そうとしていたわけなんだけど、なんかの拍子で本気が出ちゃったわけさ。腿の上がり具合とか、足裏の接地時間とかね、そういうのは見る人が見たらそれこそ一瞬で分かるんだ。そいつがどれだけの走りをするのかって」

 僕は昔のことを思い出して、喋りながら何十年ぶりかに自分の足の親指に短距離走用の独特の力を入れた。親指の付け根、母指球に力を少し入れて千鳥ヶ淵公園のアスファルトを軽く引っかくようにに体重をかけると、今でもあの頃のトラックの感覚が蘇ってくる。

「実際に速かったわけね」

「100メートルを走ったよ。木島がタイムを測った。木島がタイムを測るもんだから部内のみんなもただ事じゃないなって集まってきてね、ほとんど全部員のいる中で皆川くんは走った」

「結果は?」

「12秒02」

「ごめん、どのくらいの記録なの?」

「軽く全国レベルだよ。全国のスポーツ推薦枠持ってる学校のスカウト注目の的」

 僕はあの時の皆川くんの走りを思い出していた。素質だけの我流の走りとはとても思えなかった。といって、部の連中のように乾いた雑巾を無理やり絞るような極限的な練習や、神経質なまでのフォームの矯正から生み出された走りではない、野生動物のような目を見張るような躍動的な走りだった。
 一流のアスリートは他人のフォームを見ているだけでも、凡人が懸命に走りこみの練習をするよりもはるかに多くのことを学ぶものだと、いぜん大学から特別コーチに来てくれた陸上部の卒業生が言っていた。皆川くんはまさにそれだった。登下校の時になんとなく目に映る僕らの走りを見ていて、無意識のうちに、理想的なフォームとのズレというものをぼんやり思い浮かべていたのかもしれない。

「じゃあ、みんな驚いたよね」

「そうだね、理事長の息子の神崎とその周りの取り巻きが一番ビビってたかな。大変なもの見ちゃったってね」

「大変なもの?」

「そう。あのタイムだったら少しフォームを競技用に矯正すれば神崎さんのタイムは軽く抜かす。神崎さんを中心にして組み立てられてる部内の秩序が崩壊する恐れが再び現実のものになりそうだったわけさ」

 姉さんの顔が一瞬険しくなった。

「健太郎もそういえば・・・」

「そうだよ。皆川くんの走りを見ていて既視感に囚われたんだけど、すぐに一年前の自分だったんだって気がついた」

「あたしにうちあけてくれたよね」

「うん。神崎さんの取り巻きの中の代表の西村さんに呼び出されて、部内の秩序を守るように懇々と、というか恫喝かな、ソフトな・・・。とにかく神崎さんを上回る記録は今後練習であっても出さないようにってね」

「あの時や辞めようかって真剣に悩んでたね。」

「まあね。西村さんの申し出を理解しないとどんな地獄が待っているか、まあ、普通は想像できる。でも僕にしたら陸上競技に命かけてるわけじゃないし、足が早いということで学校の中でそれなりの居心地がいいポジションがキープできるという以上の意味合いはあまり感じられなかったからね。結局うまくやっていくことにしたんだ」

「うん。姉さんは健太郎がトラックで一位になる瞬間というのを見れないのか、ってちょっと残念だったけどさ。まあ、それにしてもそういう世界なんだってあの時はびっくりしたの覚えてるよ。じゃあ、皆川くんにも西村さんという人が話しに行ったわけね」

 大きなため息が自分の中から沸き起こった。ああいう展開しかなかったんだろうか、本当に。

「もちろん行ったさ。西村さんが100メートルのゴールのところまでタオル持ってねぎらいに行ったよ。みんなはああ、西村さんが行ったな、って感じで見てた」

 姉さんが深呼吸をした。

「それで?」

「口論になった」

「・・・」

「皆川くんがタオルを西村さんから奪い取って地面に叩きつけてトラックから出ていったよ」



 姉さんは無言で頷いた。

 僕はもう一度大きなため息をついた。

 姉さんも小さくため息をついた。

$小説 『音の風景』

ゆっきー
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