「姉さんさ、家族でカニのスティック初めて食べた時のこと覚えてるかい」
陸上競技大会の話をするのに、そんな話は無関係のはずだった。でもなぜだかあの時のことを思い出した。
姉さんはこういう時、一見関係無いような話を言い出した僕のほうが引け目を感じるくらいまじめに反応してくれる。
「ああ、思い出したよ。世の中にカニスティックっていう食べ物が出始めた時だよね。親戚のおばさんが持ってきてくれた」
姉さんがそう言うと、僕は自分が何を話したかったのかがはっきりしてくるような気がした。
「うん。僕はまだ言葉も喋れない頃からカニが大好きでカニには目がない少年だった」
「そうだね、かわいい写真がたくさん残ってるよ。口の周りにカニの切れ端たくさんくっつけて、素手でカニ身を掴んで口に入れてるのとかさ。あたしさ、まだハイハイしてるのにカニって大丈夫なのかなとか子供ながらに思ってたんだよねあの頃、実は・・・」
姉さんの思い出し笑いしている顔を見ると、僕はまだ直接記憶には残らないはずの年齢のその自分の仕草をありありと想い出すことができた。
「カニが大好きな僕のところに、おばさんがカニスティックを持ってきてくれたのは小学校に入るか入らないかくらいの時だったよね」
「そうだね。おばさんはそれ見つけた時にあんたの顔が思い浮かんで、みんなでおばさんの考えた楽しい冗談を笑い合うこと思いついたんだ。カニに目のないあんたが喜んで食べてるそれは、実は本物のカニじゃなくてカニの蒲鉾でしたとさ」
おどけながら姉さんが優しく微笑んだ。
「そうだね。でも本物じゃなかったことを知ったのはそれから随分たって、僕が中学に入ったばかりの時だったよね」
「うん。あんたがあの時のことを時々思い出して聞いてきたからついに白状したわけ」
高校生と中学生の僕達はさらにそこから十年近く昔の懐かしい思い出に浸った。
「ああ。僕が感じた違和感は偽物のカニのことじゃなくてさ」
「うん。そうだったよね。」
姉さんは思い出を手繰り寄せるように何度も頷いてそう言った。
「で、喜んで食べてる僕に実はこのカニは贋物で蒲鉾なのでした、って父さんやおばさんがネタをバラしそうになった時に・・・」
姉さんが嬉しそうに大きく何度も頷いた。姉さんの手繰り寄せた記憶が僕の大切な思い出と完全に一致したようだった。
「姉さんが僕とは目を合わさずに、父さんとおばさんにそっと目で合図したんだよ。やっぱりそのこと今ここで言うのやめようって」
「あんたはそれに気がついていたんだ」
「いや、はっきりとはわからなかった。違和感だけあったんだ。姉さんの目線というがしぐさにさ。だからそれは何だったんだろうってずっと確かめたかった。」
「あれでよかったのかな。あまりにもさ、カニ!カニ!って嬉しそうだからね」
「うん。よかった。あれがなかったら僕はぐれちゃうのがもっと早かったかもしれないな。誰も理解出来ないかもしれないけどさ、人間が手の付けられないほどぐれちゃう時ってああいう瞬間だよ、絶対」
僕と姉さんは思わず二人で大きな声で笑った。僕は何十年ぶりかにお腹のそこから笑い声が出た気がしたし、姉さんの笑い方も弟に対する笑い方ではなくて一人の高校生の屈託の無い無垢で底抜けに明るい笑いだった。
「うん、そうだね。あんたのような子供はあの瞬間世界の見方が変わるかもなあ。あのカニを食べてると思い込んで世界中に向けて無防備な笑顔で笑ってるかわいい少年には黙ってるべきだって、あの表情見ながら途中からあたしはそう思ったんだよ」
姉さんは笑い声で乱れた呼吸を整えながら楽しそうに思い出を語った。
「ああ、おばさんも父さんも悪気はないし、母さんはただカニスティックを言われたままに本物らしく並べただけでさ、そういう冗談にまったく関心のない母さんはなんのことだかそれこそわからないだろうけど。」
僕が付け足すと、姉さんはやれやれといった顔で頷いた。
「多分あんたがそういうところにとても傷つく子供だったってことは誰も知らなかったね。両親も、親戚も。だってもっと単純で明るくて子供らしい子供だって誰もが思ってたもん。でも、まあ本当はそういうところばかりじゃなかったかな・・・」
実は面倒な弟だったなあという優しい笑顔だった。
「確かめたかったんだ。姉さんが止めたんでしょって。大げさに言えばそれを確かめられたから、そういうことって世界にあるんだって確かめられたから、僕は今でもこうして生きていられると思う。」
本心だった。
姉さんはまじめに優しく頷いてくれた。
僕はその表情を見て思った。そっか、だからこのカニの話がしたくなったのか。喋りながら自分の過去の澱がすっと心の底に沈んでいくのがわかった。澱がすっと下がってだんだん透明になってくる場所には、中学生の僕と理事長の息子とトニー、そしてもう一人。
「あの時三位になった子覚えてるかな。」
姉さんは真面目な顔に戻って一生懸命想い出そうとしてくれた。
「ごめん、まったく記憶にないや」
「そうだよね。陸上部の顧問との裏取引をした僕のせいで、その後自殺しちゃった皆川くんっていうんだ」
姉さんは静かに頷いた。
「誰も知らない話。してくれるんだね」
澱はすっかり沈み、ホルマリンに漬けられたような裸形の中学生の思い出がはっきりそこに見えていた。