地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街~18 鳩の巣

「会社どう?」

 姉さんはそんな僕の不安には気が付かないように何気なく聞いてくる。

 でもその言葉は僕達にとっては陳腐ではなかった。

 僕達だけが知っている、あの心が軋むような痛みとその癒しの時間はいつもその言葉から始まったから。

 『学校どう?』

 姉さんは疲れきった僕にいつもこう言って微笑んでくれたね。どう・・・なんて僕の疲れきった顔を見れば・・・いや見なくても姉さんにはわかりきっていたはずだったのに。

 そうさ。僕は会社のことで疲れきっている。あの頃の学校生活みたいにね。おんなじだよ、姉さん。僕は結局何一つ成長しなかったみたいなんだ。変わってしまったのはあの頃は姉さんがいて、今の僕には姉さんがいないということなんだよ。
 
 僕は心のなかで叫んだ。




「ここにいるじゃない」

 声には出していないのに、姉さんは僕が心のなかで叫んだ声を引き継ぐように少し目を細めながら優しく静かにつぶやいた。僕は一瞬驚いたけれど、すぐにそれは喜びに変わったんだ。だって姉さんは何でも知っているのだからね。



「信頼できる先輩と、優しい同僚。無害な後輩。あとは普通の付き合いか口もきいたことないよ。」

 僕はあえて会社のトラブルの事は言わなかった。 部下に連座して会社で責任を取らされるとかじゃないんだよ、苦しいのは。未解決のままずっとずっと僕を支配している、僕が根本的に誰かに怒りをぶつけることができない無力感が、ただまたひとつ現実の形を伴って現れただけなんだ。

「会社つまんないの?」



 姉さんはあえてそれには気がつかないように言う。

 同じ事を聞いてくれたね、その表情で。ぼくが中学生の頃も。『学校つまらないの?』こういって姉さんはそっと手を握ってくれたり、肩に手をかけてくれた。

 僕は姉さんにそう言われるといつもとても不思議だったよ。

 なんだか自分が抱えているどうしようもないことが、学校が面白いとか退屈だとかそういう普通の中学生のぐちにすっと切り替わってしまうような気がしたんだ。こういうたった一言二言で、まるで魔法みたいに姉さんは僕の悩みをとるに足らないことのようにしてくれたね。

 あの時だけは僕も普通に生きて行けるのかもしれないと少しだけ思うことだってできたんだった。




「会社なんて面白くはないよ」

 姉さんはしょうがないなあ、といった顔で笑う。




「お父さんとはたまには話したりするの?」

「全然会ってない。姉さんの葬式が終わって以来。ぎすぎすしちゃってね」

 姉さんは少し辛そうな顔をした。ごめんね。

「でもきょう会ったお父さんとは普通に、もしかしたら普通以上にお話ができたよね」

「ああ。外ではあんなに親切なんだね。父さん。」

 確かに僕は風景の中の一人の人物として登場したこの間の若いころの父のことは嫌いではなかったし、むしろ実際の父親よりも懐かしく思ったくらいだった。

「外では・・・か。あたしには優しかったわよ、パパ」

「ぼくにはつらかった」


 少しだけ風の音を感じる時間が過ぎた。

「あたしたちがあんなことしてたからよ。パパ多分知ってたと思う」

 姉さんはその風が見えるみたいに空に目を遣りながら言った。

「・・・」

「でもまあいいよ。あたしは後悔してないよ。かわいい弟だし、ああでもしないと壊れそうだったから。あなた。」

$小説 『音の風景』



 僕は姉さんの小さな鳩のようにくぐもったせつない吐息を思い出していた。

地下鉄のない街~19 帰る場所?

 しばらく無言で歩いた。

 無言で歩くといつのまにか微妙に二人の足取りは一致してくる。僕には姉さんと僕との公園のアスファルトを踏む音がひとつになればなるほど、それが終わりに近づいていくんだという気がした。

 二人で歩くことが、せっかく逆さに巻いた時計の針の目を右回りにだんだん埋めていくことのように感じられて、僕は思わず声を出した。


「あのさ、とっても気になることがあるんだ」

 聞くのが怖い。でも、聞かずにいられない。

「なに」

 姉さんの足音と僕の足音が少し乱れた。

「さっきさ、あたしがいなくなる時間が早くなっちゃったっていったよね」

「そうね」

 そうね・・・。そういったとも取れるし、いなくなる時間が早くなることをあらためて確認したようにもとれた。なんでそんなにさびしそうな表情するんだよ。僕は思わず姉さんの手をとってこちらに振り向かせたくなった。

「どういう意味?会ったばかりなのにもう会えなくなるの?」

 僕は感情を抑えられなかった。

 


「よく歩いたね、この辺」

 姉さんはそれには答えずに公園の木々を遠くに見ながらそう言った。

「そうだね。父さんも母さんも一緒に花見に来たこともあったっけ」

 楽しい思い出だ。姉さんの顔が子供らしい笑顔になる。

「スミスさんのお家と一緒に毎年来てたよね」

 スミスさん。そう。あの善良そのもののスミスさんの家。米軍のすごくえらい階級の軍人のスミスさん。もっとも、軍人とはいっても横須賀や厚木の基地業務と違ってスミスさんの任務は米国本国との通信業務専門らしく、スミスさんが将来どれだけ出世しようがスミスさん自身が戦場に出ていくということはないらしかった。
 僕はスミスさんの一人息子で学校で同じクラスだったトニーと仲が良かった。僕の唯一の友達だった。小さい頃から自分でもなぜだか分からないけれど、僕は友達が少なかった。いや、正直に言えば友達はいなかった。学校の休み時間に遊んだり、一緒に学校から帰ったり、そのままその子のうちに遊びに行ったりする子は普通にはいた。でも今、その時のことを思い出しても僕は僕が友達と遊んでいたという気がしない。

 トニーとは、中学二年の夏休みが開けて最初の日に教室ではじめて会った。トニーがたどたどしい日本語で自己紹介を終えると、トニーは誰かを探すように教室を素早く見渡した。ほんの一瞬だけ。多分そのトニーの仕草に気がついた人は先生も含めて教室に誰もいなかったはずだ。

 僕はそれに気がついた。なぜならトニーは僕と目が合うとすぐに探しものをやめて、僕だけに気づくくらいの小さな何とも言えない感じの良い笑顔を作ったから。僕は多分それまでの人生で一番自然に人に笑い返したと思う。トニーだけが気がつくくらいに小さく。

 僕とトニーはその日当たり前のように一緒に下校した。僕は何だか興奮して、姉さんが高校から帰ってくるとしばらくトニーの話をしたっけ。姉さんはとても嬉しそうだったよね。



「トニー、元気かな」

 僕は姉さんに何気なくそう言った。

「そっか。健太郎は知らなかったんだ」

 何を知ってるの、姉さんは。

「トニーは飛行機事故で死んじゃったわ。あたしが踏切事故で死んでからすぐ後。だからあなたが意地を張ってトニーの見送りに行かなかったあのお別れの日が、トニーと仲直りする最後のチャンスだったの」




 僕の足が止まった。

「トニーは最後まであなたに会いたがってたわよ」

 姉さんは責めるでもなく、ただ静かに僕に言った。

「あたしもそのことは聞いてみたかったんだ、健太郎に。多分まだあたしの知らない健太郎のこと知りたかったんだね。そして今も知りたい」

 そっか、姉さんでも知らないことがあったんだね。






「あいつには帰る場所があったからさ」

 僕たちの足音は完全に止まった。

 その時僕は自分が三十四歳であることを完全に忘れた。

 姉さんが行ってしまう時間が来るとしても、それまでの間僕達はそれをただ待つのではなくて、二人の人生を小さく生き直せるような気がした。僕はそれにすがりたかった。

 姉さんと僕は高校生と中学生になって、まだお互いの知らないことを確かめ合うようにそっと手を握り、またゆっくりと公園を歩きはじめた。



$小説 『音の風景』

地下鉄のない街~20 取り引き

「トニーの帰る場所ってアメリカのこと?」

姉さんは僕に聞く。それは誰だってそう思うだろう。実際にトニーはお父さんの昇進でアメリカ本国に帰国することになった。でも、違うんだ。

「姉さん、トニーはもともと日本にはいなかったんだよ」

姉さんは少しだけ間を置いてから頷いた。

「健太郎はそう思うんだよね」

姉さんは僕が冗談を言いはじめたわけではないことを確認していたみたいだった。

「うん。」




$小説 『音の風景』「姉さんは僕の中2の時の陸上競技大会のこと覚えているかな」

 あの話か、という顔で姉さんが頷く。

「そっか。あの話と関係するんだ。トニーのことは」

 僕は僕とこの世の中がうまく行かなくなった場所に、多分あの時以来初めて行こうとしているんだと思った。

「県大会常連の短距離走者、女の子にいつもモテモテの君島くんの雰囲気が変わった日だね」

「あの日のことは姉さんは知らない」

「教えてくれるんだね」

 僕は頷いた。そうさ。僕が学校と取引をした日。今でもあれが正しかったという気持ちが半分。そして後悔が半分。

「僕が決勝で二位になったよね。一位になったのは僕より足の遅いあいつさ。覚えてるかな」

「うん。うちの学校の理事長の一人息子・・・だったね」

「陸上部の顧問に頼まれたんだ。優勝を譲ってくれってね」



 そっか・・・。

 姉さんの唇がため息のように動いた。

地下鉄のない街~21 三位の皆川くん

「姉さんさ、家族でカニのスティック初めて食べた時のこと覚えてるかい」

 陸上競技大会の話をするのに、そんな話は無関係のはずだった。でもなぜだかあの時のことを思い出した。
 姉さんはこういう時、一見関係無いような話を言い出した僕のほうが引け目を感じるくらいまじめに反応してくれる。

「ああ、思い出したよ。世の中にカニスティックっていう食べ物が出始めた時だよね。親戚のおばさんが持ってきてくれた」

 姉さんがそう言うと、僕は自分が何を話したかったのかがはっきりしてくるような気がした。

「うん。僕はまだ言葉も喋れない頃からカニが大好きでカニには目がない少年だった」

「そうだね、かわいい写真がたくさん残ってるよ。口の周りにカニの切れ端たくさんくっつけて、素手でカニ身を掴んで口に入れてるのとかさ。あたしさ、まだハイハイしてるのにカニって大丈夫なのかなとか子供ながらに思ってたんだよねあの頃、実は・・・」

 姉さんの思い出し笑いしている顔を見ると、僕はまだ直接記憶には残らないはずの年齢のその自分の仕草をありありと想い出すことができた。

「カニが大好きな僕のところに、おばさんがカニスティックを持ってきてくれたのは小学校に入るか入らないかくらいの時だったよね」

「そうだね。おばさんはそれ見つけた時にあんたの顔が思い浮かんで、みんなでおばさんの考えた楽しい冗談を笑い合うこと思いついたんだ。カニに目のないあんたが喜んで食べてるそれは、実は本物のカニじゃなくてカニの蒲鉾でしたとさ」

 おどけながら姉さんが優しく微笑んだ。

「そうだね。でも本物じゃなかったことを知ったのはそれから随分たって、僕が中学に入ったばかりの時だったよね」

「うん。あんたがあの時のことを時々思い出して聞いてきたからついに白状したわけ」

 高校生と中学生の僕達はさらにそこから十年近く昔の懐かしい思い出に浸った。

「ああ。僕が感じた違和感は偽物のカニのことじゃなくてさ」

「うん。そうだったよね。」

 姉さんは思い出を手繰り寄せるように何度も頷いてそう言った。

「で、喜んで食べてる僕に実はこのカニは贋物で蒲鉾なのでした、って父さんやおばさんがネタをバラしそうになった時に・・・」

 姉さんが嬉しそうに大きく何度も頷いた。姉さんの手繰り寄せた記憶が僕の大切な思い出と完全に一致したようだった。

「姉さんが僕とは目を合わさずに、父さんとおばさんにそっと目で合図したんだよ。やっぱりそのこと今ここで言うのやめようって」

「あんたはそれに気がついていたんだ」

「いや、はっきりとはわからなかった。違和感だけあったんだ。姉さんの目線というがしぐさにさ。だからそれは何だったんだろうってずっと確かめたかった。」

「あれでよかったのかな。あまりにもさ、カニ!カニ!って嬉しそうだからね」

「うん。よかった。あれがなかったら僕はぐれちゃうのがもっと早かったかもしれないな。誰も理解出来ないかもしれないけどさ、人間が手の付けられないほどぐれちゃう時ってああいう瞬間だよ、絶対」

 僕と姉さんは思わず二人で大きな声で笑った。僕は何十年ぶりかにお腹のそこから笑い声が出た気がしたし、姉さんの笑い方も弟に対する笑い方ではなくて一人の高校生の屈託の無い無垢で底抜けに明るい笑いだった。

「うん、そうだね。あんたのような子供はあの瞬間世界の見方が変わるかもなあ。あのカニを食べてると思い込んで世界中に向けて無防備な笑顔で笑ってるかわいい少年には黙ってるべきだって、あの表情見ながら途中からあたしはそう思ったんだよ」

 姉さんは笑い声で乱れた呼吸を整えながら楽しそうに思い出を語った。

「ああ、おばさんも父さんも悪気はないし、母さんはただカニスティックを言われたままに本物らしく並べただけでさ、そういう冗談にまったく関心のない母さんはなんのことだかそれこそわからないだろうけど。」

 僕が付け足すと、姉さんはやれやれといった顔で頷いた。

「多分あんたがそういうところにとても傷つく子供だったってことは誰も知らなかったね。両親も、親戚も。だってもっと単純で明るくて子供らしい子供だって誰もが思ってたもん。でも、まあ本当はそういうところばかりじゃなかったかな・・・」

 実は面倒な弟だったなあという優しい笑顔だった。

「確かめたかったんだ。姉さんが止めたんでしょって。大げさに言えばそれを確かめられたから、そういうことって世界にあるんだって確かめられたから、僕は今でもこうして生きていられると思う。」

 本心だった。

 姉さんはまじめに優しく頷いてくれた。


 僕はその表情を見て思った。そっか、だからこのカニの話がしたくなったのか。喋りながら自分の過去の澱がすっと心の底に沈んでいくのがわかった。澱がすっと下がってだんだん透明になってくる場所には、中学生の僕と理事長の息子とトニー、そしてもう一人。

「あの時三位になった子覚えてるかな。」

 姉さんは真面目な顔に戻って一生懸命想い出そうとしてくれた。

「ごめん、まったく記憶にないや」

「そうだよね。陸上部の顧問との裏取引をした僕のせいで、その後自殺しちゃった皆川くんっていうんだ」

 
 姉さんは静かに頷いた。

「誰も知らない話。してくれるんだね」

 澱はすっかり沈み、ホルマリンに漬けられたような裸形の中学生の思い出がはっきりそこに見えていた。

$小説 『音の風景』

ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
0
  • 0円
  • ダウンロード

18 / 133

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント