しばらく無言で歩いた。
無言で歩くといつのまにか微妙に二人の足取りは一致してくる。僕には姉さんと僕との公園のアスファルトを踏む音がひとつになればなるほど、それが終わりに近づいていくんだという気がした。
二人で歩くことが、せっかく逆さに巻いた時計の針の目を右回りにだんだん埋めていくことのように感じられて、僕は思わず声を出した。
「あのさ、とっても気になることがあるんだ」
聞くのが怖い。でも、聞かずにいられない。
「なに」
姉さんの足音と僕の足音が少し乱れた。
「さっきさ、あたしがいなくなる時間が早くなっちゃったっていったよね」
「そうね」
そうね・・・。そういったとも取れるし、いなくなる時間が早くなることをあらためて確認したようにもとれた。なんでそんなにさびしそうな表情するんだよ。僕は思わず姉さんの手をとってこちらに振り向かせたくなった。
「どういう意味?会ったばかりなのにもう会えなくなるの?」
僕は感情を抑えられなかった。
「よく歩いたね、この辺」
姉さんはそれには答えずに公園の木々を遠くに見ながらそう言った。
「そうだね。父さんも母さんも一緒に花見に来たこともあったっけ」
楽しい思い出だ。姉さんの顔が子供らしい笑顔になる。
「スミスさんのお家と一緒に毎年来てたよね」
スミスさん。そう。あの善良そのもののスミスさんの家。米軍のすごくえらい階級の軍人のスミスさん。もっとも、軍人とはいっても横須賀や厚木の基地業務と違ってスミスさんの任務は米国本国との通信業務専門らしく、スミスさんが将来どれだけ出世しようがスミスさん自身が戦場に出ていくということはないらしかった。
僕はスミスさんの一人息子で学校で同じクラスだったトニーと仲が良かった。僕の唯一の友達だった。小さい頃から自分でもなぜだか分からないけれど、僕は友達が少なかった。いや、正直に言えば友達はいなかった。学校の休み時間に遊んだり、一緒に学校から帰ったり、そのままその子のうちに遊びに行ったりする子は普通にはいた。でも今、その時のことを思い出しても僕は僕が友達と遊んでいたという気がしない。
トニーとは、中学二年の夏休みが開けて最初の日に教室ではじめて会った。トニーがたどたどしい日本語で自己紹介を終えると、トニーは誰かを探すように教室を素早く見渡した。ほんの一瞬だけ。多分そのトニーの仕草に気がついた人は先生も含めて教室に誰もいなかったはずだ。
僕はそれに気がついた。なぜならトニーは僕と目が合うとすぐに探しものをやめて、僕だけに気づくくらいの小さな何とも言えない感じの良い笑顔を作ったから。僕は多分それまでの人生で一番自然に人に笑い返したと思う。トニーだけが気がつくくらいに小さく。
僕とトニーはその日当たり前のように一緒に下校した。僕は何だか興奮して、姉さんが高校から帰ってくるとしばらくトニーの話をしたっけ。姉さんはとても嬉しそうだったよね。
「トニー、元気かな」
僕は姉さんに何気なくそう言った。
「そっか。健太郎は知らなかったんだ」
何を知ってるの、姉さんは。
「トニーは飛行機事故で死んじゃったわ。あたしが踏切事故で死んでからすぐ後。だからあなたが意地を張ってトニーの見送りに行かなかったあのお別れの日が、トニーと仲直りする最後のチャンスだったの」
僕の足が止まった。
「トニーは最後まであなたに会いたがってたわよ」
姉さんは責めるでもなく、ただ静かに僕に言った。
「あたしもそのことは聞いてみたかったんだ、健太郎に。多分まだあたしの知らない健太郎のこと知りたかったんだね。そして今も知りたい」
そっか、姉さんでも知らないことがあったんだね。
「あいつには帰る場所があったからさ」
僕たちの足音は完全に止まった。
その時僕は自分が三十四歳であることを完全に忘れた。
姉さんが行ってしまう時間が来るとしても、それまでの間僕達はそれをただ待つのではなくて、二人の人生を小さく生き直せるような気がした。僕はそれにすがりたかった。
姉さんと僕は高校生と中学生になって、まだお互いの知らないことを確かめ合うようにそっと手を握り、またゆっくりと公園を歩きはじめた。