地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街~15 ふたりだけの踏切の音

「あれ・・・時間って、今日何か用事あるの?」

 もう一人の僕が姉さんに聞こえるような声をかける。もう一人の僕。由紀子ちゃんという高校生とチャットで知り合った、会社で少しヘマをやらかした僕だ。

「違うよ・・・」

 姉さんはこの演技に付き合ってくれる。

 姉さんは、僕がかすかに姉さんとの別れの始まりがすでにスタートしたことに気がついたことを知っているはずだった。

 なぜなら・・・。もちろん姉さんは何でも知っているから。



 
「あたしの話だれかにしたでしょ」

 さびしそうな眼だった。

「え?」

「お友達とかに」

「え!したけど少しだけ。どうしてわかるの?」

 顔は驚いてもいなかったし、声も普通だったと思う。だって、姉さんの弟の健太郎の僕は、姉さんのその言葉で、自分が犯してしまった致命的なミスをその時すでにはっきりと分かってしまっていたから。




「やっぱりそれでか・・・」

「それでって?」

「あたしがいなくなる時間が早くなっちゃったよ」

 なんだか昔姉さんに怒られてたときみたいだった。




「意味がわからないよ。待たせたのは本当に悪かった。待っていてくれているとは思わなかったよ」

「三時間も女の子待たせて・・・。それじゃもてないよ健太郎。」

「あ、いや、そうだけど、・・・ごめんなさい、姉さん」

「いいよ」


 僕の中の健太郎が前に出てきて思わず姉さんに謝ってしまった。

 多分、別れは加速する。
 
 でも僕はねえさんの「いいよ」が聞きたかったんだ。

 世界の中でただひとつ、自分が完全に赦されるあの場所でいつも鳴っていたあの姉さんの声で。



$小説 『音の風景』「あした休みでしょ。」

「うん」

「これから山の上ホテルでお食事しましょ」

「ああ、うんでも・・・」

「できれば、そのまま泊まりたいな。時間がないから」

「え?」

 いきなり誘われて、僕はびっくりしてしまった。

 いや、嘘だ。

 もう一人の僕は知っていたはずだ。

「いやなの?」

「いや、いいけど」




「今踏み切りの音が聞こえる?」

 踏み切りの音・・・。

 もちろん聞こえるよ。



 ぼくの耳に踏み切りの音が鳴った。ぼくを励ますように。やさしく、懐かしく。



「キスしようか」

 姉さんの声が確かにそう聞こえた。

 僕は、ふたりだけに聞こえる踏切の音に紛れて、その声が聞こえなかったふりをした。





続く

地下鉄のない街~16 遠回り

 もうあっち側に渡ろう。

 踏み切りの音がそういっていたように聞こえた。

「歩いて行こうね」

 姉さんはそう言って僕の腕をとった。


$小説 『音の風景』 僕たちはどちらともなく、山の上ホテルの方角とは反対の方向に歩き出した。
 千鳥ヶ淵公園をぐるっと遠回りしてホテルまで行くのには何時間かある。終点が決まっていてもそれを少しでも引き伸ばしたい。
 でももちろん静かに、確実に、遠回りした道は近道と同じ道に交わる。
 それはもちろん分かっているのに、僕はもしかしたらその道は永遠に交わらないことだってあるかもしれないと思いたかった。
 そうでないと一歩も動けそうになかったから。


「久しぶりにこの辺りを歩くよ」

 僕は前を見たままつぶやく。

「そっか。あたしもそういえば死んじゃってからは初めてだな」

 少し時間がかかったけど、僕は「うん」と言った。


 僕はそろそろ"あのこと"を聞かないといけないと思った。多分姉さんはそのことを話そうとしている。

「姉さんは17歳の今頃、もうとっくに夏も終わったのにどこかで蝉の鳴いていている今頃の季節に死んでしまったんだよね」

 胸が張り裂けそうになって少し目を伏せると、気の早い落ち葉が公園のアスファルトの上を小さく舞うよう這って逃げて行った。

「そうね。ちょうど今頃だったね。健太郎にさよならも言えなかった」



 僕は黙って歩いた。

 ゆっくりと、少しでも目的地につく時間が遠のくように。

 怖くて振り返れなかったあの日のことを、僕の腕に手を絡ませている姉さんの姉さんの体温を感じながらゆっくりと歩いた。

 36歳の決してもう若くない決定的に大人になり損ねた僕と、なんでも知っている、でも大人になる前に死んでしまった高校生の姉さん。

 少しだけわけありに見えるこの腕を組んで千鳥ヶ淵公園を歩く僕たちを、すれ違う人たちは気に留めるでもなくそのまま通り過ぎて行く。


「姉さんはこの公園の近くにある高校から、やっぱりこの近所に会社があった父さんと一待ち合わせして一緒に家に帰る途中、踏切事故で死んじゃったんだね」



 口に出してみるとただそれだけだった。

「うん」

 姉さんもそれだけだった。

 僕は姉さんの腕をほどいて、手を握ってみた。暖かくぬくもりのある懐かしい感触が手の先から体に染みこんでいった。

 涙が正直に頬を伝った。


「オヤジが先に踏切を渡っちゃって、はやくしろ!なにしてるんだ!って振り向きざまに姉さんに怒り出した。姉さんは無理して渡ったところを遮断機に挟まれてしまってパニック状態で動けなくなってしまった。そして電車の非常ブレーキの音にまみれてはねられて死んでしまった。そうだったね」



 僕は僕が唯一怒りの感情をまともに感じる自分の父親のことを思い出しながら一気に口にした。
 動機が激しくなる。制御の聞かない僕の唯一の怒りの感情だ。



「だいぶ話が違うみたいね」

 姉さんは、やっぱりね、そんな口調で優しく寂しそうに言った。

「え?何?」

「あたしはね・・・パパが来るなって合図したのに、はやくあっち側に行きたくて勝手に走ったのよ」


!?


「そのこともちゃんと話したくてね。それで会いに来たの。死んでしまってよく分かったんだけどさ、この世界にはあっち側とこっち側が交わる所があるのよ。あの踏切もそうだったみたい。でもあたしはその踏切を何故だか分からないけど渡りそこねた。そして死んじゃったの。でもね、あなたに先週会ってから分かったんだ。多分あたしが死んじゃったその理由が・・・」



 僕はただ姉さんの手を黙って強く握り直した。

 汗ばんだ掌を姉さんがやさしく握り返してきた。

 立ち止まって姉さんと目を合わせると、姉さんの瞳の奥の方で瞳踏み切りの音がかすかに鳴ったように感じられた。









続く

地下鉄のない街~17 手招き?

 姉さんは僕の唇に軽くキスをした。

 今度はキスしようかとは言わなかった。

「久しぶりだね」

「うん。でも先週会ったよ」

「ちがうよ。キスしたの」

「ああ」

 そうか、と僕はつぶやいた。


「かわいい弟だったな、あたしによくなついてくれていた。ちょっと気が弱くて、でも優しいこだった。学校でいじめられて帰ってきたときは、胸に抱いてあげたね」

 風が吹くと頬を濡らした涙が冷たかった。僕は知らずのうちに涙を流していたみたいだった。

「そうだったね」

 僕がそういうと姉さんは昔のような年上目線の笑顔で頷いた。ぼくはだんだんと自分が中年にさしかかろうという年齢だということを忘れ始めていた。

「泣いてもいいから、その優しい気持ち忘れないでねって言ってたね」

「やっぱり由紀子姉さんだったのか」

「そうよ。久しぶりだね」

「だから、事故のあった神田でしか会えないの?」

 僕は自分の言葉遣いがだんだん甘えた物言いになっていくのを感じた。

「そうよ。やっとわかった?」

 ふたりともまた前を向いて歩き出す。僕はただ黙ってうなづくのが心地よかった。



「ここはあなたが15歳のときの街なの。あたしの死ぬちょっと前の」

 そうなんだね。僕は頷く。

「あなたが道を尋ねた人。あれがお父さんよ。まさか見忘れたわけないよね」

 あの優しそうな人。確かに記憶の中の父親の面影に似てなくもない。あの時はそうは思えなかったけど多分僕じゃない他人にはいつもあんな顔をするんだろうなとも思う。



「この間あなたと入った喫茶店にパパと行く途中で、交通事故にあっちゃった」

 ああ、知ってるよ。あの時その喫茶店だと思った。



「誤解しないでね。さっきも言ったけどパパはくるなって言ったのよ。手でね。」

 僕はあいまいに笑う。姉さんは父さんをかばうのかい?

「でも、あっちにさがれっていう手が、反対向きに早く来いって見えたの」

「わかるでしょ。こんなふうに。」

姉さんはおいでおいでと、あっちいけを繰り返した。たしかに手首を内側から外側に振ったときには、まるで犬を追っ払うように見える。外側から内側に返したときにはおいでおいでに見えた。

「気持ちの問題だね。あたしは早くパパのところに行きたかったから。振っている手は、自分から見たら、パパの内側に誘われているように見えたんだ」

 姉さんはそうやってなんどか、あっちにいけ、とこっちにおいでを繰り返した。

 僕は頷いた。そう・・・だったのかもしれないね。

 

 姉さん、今僕は姉さんにおいでおいでをされているのかい?

 まさか、あっちにいけと言おうとしているわけじゃないんだよね。


 僕は不安な気持ちになりながら、姉さんの手首を見つめた。





続く

地下鉄のない街~18 鳩の巣

「会社どう?」

 姉さんはそんな僕の不安には気が付かないように何気なく聞いてくる。

 でもその言葉は僕達にとっては陳腐ではなかった。

 僕達だけが知っている、あの心が軋むような痛みとその癒しの時間はいつもその言葉から始まったから。

 『学校どう?』

 姉さんは疲れきった僕にいつもこう言って微笑んでくれたね。どう・・・なんて僕の疲れきった顔を見れば・・・いや見なくても姉さんにはわかりきっていたはずだったのに。

 そうさ。僕は会社のことで疲れきっている。あの頃の学校生活みたいにね。おんなじだよ、姉さん。僕は結局何一つ成長しなかったみたいなんだ。変わってしまったのはあの頃は姉さんがいて、今の僕には姉さんがいないということなんだよ。
 
 僕は心のなかで叫んだ。




「ここにいるじゃない」

 声には出していないのに、姉さんは僕が心のなかで叫んだ声を引き継ぐように少し目を細めながら優しく静かにつぶやいた。僕は一瞬驚いたけれど、すぐにそれは喜びに変わったんだ。だって姉さんは何でも知っているのだからね。



「信頼できる先輩と、優しい同僚。無害な後輩。あとは普通の付き合いか口もきいたことないよ。」

 僕はあえて会社のトラブルの事は言わなかった。 部下に連座して会社で責任を取らされるとかじゃないんだよ、苦しいのは。未解決のままずっとずっと僕を支配している、僕が根本的に誰かに怒りをぶつけることができない無力感が、ただまたひとつ現実の形を伴って現れただけなんだ。

「会社つまんないの?」



 姉さんはあえてそれには気がつかないように言う。

 同じ事を聞いてくれたね、その表情で。ぼくが中学生の頃も。『学校つまらないの?』こういって姉さんはそっと手を握ってくれたり、肩に手をかけてくれた。

 僕は姉さんにそう言われるといつもとても不思議だったよ。

 なんだか自分が抱えているどうしようもないことが、学校が面白いとか退屈だとかそういう普通の中学生のぐちにすっと切り替わってしまうような気がしたんだ。こういうたった一言二言で、まるで魔法みたいに姉さんは僕の悩みをとるに足らないことのようにしてくれたね。

 あの時だけは僕も普通に生きて行けるのかもしれないと少しだけ思うことだってできたんだった。




「会社なんて面白くはないよ」

 姉さんはしょうがないなあ、といった顔で笑う。




「お父さんとはたまには話したりするの?」

「全然会ってない。姉さんの葬式が終わって以来。ぎすぎすしちゃってね」

 姉さんは少し辛そうな顔をした。ごめんね。

「でもきょう会ったお父さんとは普通に、もしかしたら普通以上にお話ができたよね」

「ああ。外ではあんなに親切なんだね。父さん。」

 確かに僕は風景の中の一人の人物として登場したこの間の若いころの父のことは嫌いではなかったし、むしろ実際の父親よりも懐かしく思ったくらいだった。

「外では・・・か。あたしには優しかったわよ、パパ」

「ぼくにはつらかった」


 少しだけ風の音を感じる時間が過ぎた。

「あたしたちがあんなことしてたからよ。パパ多分知ってたと思う」

 姉さんはその風が見えるみたいに空に目を遣りながら言った。

「・・・」

「でもまあいいよ。あたしは後悔してないよ。かわいい弟だし、ああでもしないと壊れそうだったから。あなた。」

$小説 『音の風景』



 僕は姉さんの小さな鳩のようにくぐもったせつない吐息を思い出していた。
ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
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