もうあっち側に渡ろう。
踏み切りの音がそういっていたように聞こえた。
「歩いて行こうね」
姉さんはそう言って僕の腕をとった。
僕たちはどちらともなく、山の上ホテルの方角とは反対の方向に歩き出した。
千鳥ヶ淵公園をぐるっと遠回りしてホテルまで行くのには何時間かある。終点が決まっていてもそれを少しでも引き伸ばしたい。
でももちろん静かに、確実に、遠回りした道は近道と同じ道に交わる。
それはもちろん分かっているのに、僕はもしかしたらその道は永遠に交わらないことだってあるかもしれないと思いたかった。
そうでないと一歩も動けそうになかったから。
「久しぶりにこの辺りを歩くよ」
僕は前を見たままつぶやく。
「そっか。あたしもそういえば死んじゃってからは初めてだな」
少し時間がかかったけど、僕は「うん」と言った。
僕はそろそろ"あのこと"を聞かないといけないと思った。多分姉さんはそのことを話そうとしている。
「姉さんは17歳の今頃、もうとっくに夏も終わったのにどこかで蝉の鳴いていている今頃の季節に死んでしまったんだよね」
胸が張り裂けそうになって少し目を伏せると、気の早い落ち葉が公園のアスファルトの上を小さく舞うよう這って逃げて行った。
「そうね。ちょうど今頃だったね。健太郎にさよならも言えなかった」
僕は黙って歩いた。
ゆっくりと、少しでも目的地につく時間が遠のくように。
怖くて振り返れなかったあの日のことを、僕の腕に手を絡ませている姉さんの姉さんの体温を感じながらゆっくりと歩いた。
36歳の決してもう若くない決定的に大人になり損ねた僕と、なんでも知っている、でも大人になる前に死んでしまった高校生の姉さん。
少しだけわけありに見えるこの腕を組んで千鳥ヶ淵公園を歩く僕たちを、すれ違う人たちは気に留めるでもなくそのまま通り過ぎて行く。
「姉さんはこの公園の近くにある高校から、やっぱりこの近所に会社があった父さんと一待ち合わせして一緒に家に帰る途中、踏切事故で死んじゃったんだね」
口に出してみるとただそれだけだった。
「うん」
姉さんもそれだけだった。
僕は姉さんの腕をほどいて、手を握ってみた。暖かくぬくもりのある懐かしい感触が手の先から体に染みこんでいった。
涙が正直に頬を伝った。
「オヤジが先に踏切を渡っちゃって、はやくしろ!なにしてるんだ!って振り向きざまに姉さんに怒り出した。姉さんは無理して渡ったところを遮断機に挟まれてしまってパニック状態で動けなくなってしまった。そして電車の非常ブレーキの音にまみれてはねられて死んでしまった。そうだったね」
僕は僕が唯一怒りの感情をまともに感じる自分の父親のことを思い出しながら一気に口にした。
動機が激しくなる。制御の聞かない僕の唯一の怒りの感情だ。
「だいぶ話が違うみたいね」
姉さんは、やっぱりね、そんな口調で優しく寂しそうに言った。
「え?何?」
「あたしはね・・・パパが来るなって合図したのに、はやくあっち側に行きたくて勝手に走ったのよ」
!?
「そのこともちゃんと話したくてね。それで会いに来たの。死んでしまってよく分かったんだけどさ、この世界にはあっち側とこっち側が交わる所があるのよ。あの踏切もそうだったみたい。でもあたしはその踏切を何故だか分からないけど渡りそこねた。そして死んじゃったの。でもね、あなたに先週会ってから分かったんだ。多分あたしが死んじゃったその理由が・・・」
僕はただ姉さんの手を黙って強く握り直した。
汗ばんだ掌を姉さんがやさしく握り返してきた。
立ち止まって姉さんと目を合わせると、姉さんの瞳の奥の方で瞳踏み切りの音がかすかに鳴ったように感じられた。
続く