地下鉄のない街132 死すべき作者
「姉さん…」
しばらく黙っていたあと僕は口を開いた。
「なあに」姉さんは静かに答えた。
「僕はさ、信じるよ、こういうことがありうるって」
「うん」
「多分さ、本当の本当の苦しいこと、何をどうやってもどうしようもない時、こういうことって起きると思うんだ」
「うん」
「でもそれは、願い事が叶うとか、奇跡が起きるとか、そういう手前勝手な甘いものじゃないと思う」
「うん…。どういうこと?」
あくまで静かに姉さんは答える。僕が言い出すことは多分なんでも受け入れてくれるのだろう。今までずっとそうだったように。
「西村が言ってた言葉が重たいなって」
「西村くんの言葉…?」
「あいつさ『いろんな苦しいことを、最初からなかったことにするような、そういう歴史の改変だけは許せない、認めるわけにいかない』って言ってたよね」
「そうだったね」
「うん。ここで姉さんと西村の言ったりしたりすること見てたけど、あいつに対する印象ずいぶん変わったよね」
「うん」
「実は一番まっとうなヤツがあいつだったりして」
笑いながらそういうと、姉さんもクスクスと笑いながら「そうかもね」と言った。
「それでね、僕は思うんだ」
「うん…?」
「都合のいい奇跡なんて僕は起きないし、起きてはいけないと思う。そういう点では僕は西村と同じかもしれない」
ここで初めて姉さんの表情が変わった。僕が姉さんの歴史を改変しようとする意思について反対表明を口にしようと思ったのかもしれなかった。
「わかるよ、でも…」
「姉さん、聞いて欲しいんだ」
「うん」
「さっき僕が『本当の本当の苦しいこと、何をどうやってもどうしようもない時、こういうことって起きる』って言ったよね」
「うん」
「そういうのは分かるしあってもいいと思う。でもそれはさっきのことと矛盾しないんだ」
「どうして?」
「世界が変わること、自分の都合で世界を変えてしまうことは僕はどんなにその人が苦しんでいたとしてもすべきではないと思う。それはうまく言えないけど、多分最後の最後に僕はさ、自分のその苦しみよりも、世界の苦しみの方がもっと深いと思える人間でいたいから…かな」
「自分の苦しみよりも…世界の…」
「ああ。それこそ綺麗事なんかじゃないんだ。人はさ、どうしようもないほど心が苦しい時に、記憶を喪失したり、気が狂ってしまう時があるよね」
「うん」
「つまりさ、その時に僕は世界を狂気に染めたくはないんだ。例えばヒトラーなんて、自分の狂気を世界で救おうとしたよね。哲学者ではハイデガーなんまさにそういう哲学をヒトラーと一緒に作り上げてしまった。僕はそういうのはイヤなんだ。狂うことでどうしようもない苦しさを受け入れるとしたら、自分一人が狂人になってしまいたいと思うんだ」
「そっか…うん」
「ごめん、僕の言いたいことわかる?」
「分かるよ。健太郎がそういう人、そういう弟だっていうこと知ってるもん」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、あたしはどうしたらいいんだろう。余計なことしちゃったのかな。健太郎を元の植物人間にしちゃえばいいのかな…。お父さんもお母さんもあたしたちと分かり合えて、あんなに喜んでくれたのに、全部もとに戻した方がいいのかな…」
姉さんは、泣き崩れてしまった。
「いいことがあるよ」
「なに?」
「さっき僕は耐えられない苦しさに世界を狂気に染めるより、一人で狂気の世界に行きたい、って言った」
「うん」
「一人だけ例外を作りたい。もしその人がそれを望んでくれるなら」
姉さんの表情にまた精彩が蘇った。
「うん。もちろんいいよ。それが一番いいと思う」姉さんはすぐに僕の言いたいことが分かったようだった。
「よし。じゃあ、僕と一緒にこの変わってしまいつつある世界を元に戻して行こう」
「分かった」
「そして、この『地下鉄のない街』の登場人物たちがまた、一人一人作者の操り人形じゃない、自分自身の生を生きる存在に戻すんだ」
「うん」
「そして最後に…」
「最後に?」
「作者は死ぬんだ」
「作者って、健太郎をとあたしね」
「そう。作者は死んで、今度こそ本当に『地下鉄のない街』というテクストに命が吹き込まれる。」
「その時あたしたちはどうなるのかしら?」
「生きていれば狂人。そうでなければ…」
「そうでなければ…?」
「まだ分からない。最終この『地下鉄のない街』という物語が終わる時はっきりするんだと思う」
姉さんは深くため息をついた。でもそのため息は諦めではなく、新しい空気をいっぱい肺に取り込んで、今までの自分一人で苦しんでいた淀んだ空気を吐き出す深呼吸のようだった。
「じゃあ、最初からやっていこう。そして元に戻った世界でみんながどうなるか見届けるんだ」
「分かった」
僕と姉さんは改めて『地下鉄のない街』という物語を最初から読み直すことを始めた。
多分二度と戻れないさようならをするために…。
つづく