地下鉄のない街130 魔書
「姉さん…聞こえるかい」
心の中でそう言いながら、僕は目を閉じて深く息を吸った。
「うん。ここにいるよ」
静かで落ち着いた声だった。その声を聞くと僕もいつものように安心する。たとえこれから聞こうとする話がどんな話であろうとだ。声のする右の肩の方に体をひねると、まるで遠いところから帰ってきた僕を迎えるような姉さんの瞳があった。
「姉さんは僕の知らないことを知ってるね」
「うん」
「…どんなことか、それは実は今は…あんまり興味がないんだ。不思議とね」
あたりの風景は、舞台の照明をゆっくり落としたように、知らないうちにふっと闇の中に消えていた。
「うん」
柔らかな日差しのようなうっすらと淡いオレンジ色、子供の時によく見た長い影を作る日没の時の太陽のあの色が姉さんの顔を浮かび上がらせていた。
「僕が知りたいのは、姉さんの知っていることが僕たちにとってどういう意味を持つかっていうことなんだ」
うまく言えたかどうか分からない。
僕は冴えない三十代のサラリーマンだった。毎日経理の仕事をしていた。仕事は別に不満はなかった。これといって他にやりたい仕事もできる仕事もなさそうだったし、でもそんな中でも職場の先輩には恵まれていた方だったと思う。周りの先輩同僚は、強烈な個性を持った刺激を受ける人というのではなく、朝出社して夕方退社するまで同じ空気を吸って違和感もなく、むしろ自分の日常のリズムをゆっくりキープしてくれるような人たちだった。それは、もちろん僕の理想とするものだった。
それでも踏切事故で亡くなった姉さんのことを、僕は心の中でどこか受け止めきれずにいたんだと思う。受け止めるということがそれを忘却したり、何か「前向き」に生きていくための糧となったりすることを意味するのだとしたら、僕はそんな意味なんていらないと思ってきた。
だから僕の中ではいつまでも姉さんの死は未解決のことであったし、解決するということ、例えばそこから何か教訓を引き出したり、思い出の中に姉さんを供養することなんてしてこなかった。未解決のことをそのまま抱えて生きるその中途半端さが、つまりは僕が、僕の大切なものを喪わずに生きているんだという唯一のリアリティであったからだと思う。
だから…なのかもしれない。
チャットで知り合った女の子に僕は惹かれた。こちらから言葉を入力して反応を待つ間、点滅するカーソルがその子の息遣いのように感じられた。僕の心のいびつな地層の断層に染み渡るように、ディスプレイを通じて何かが流れ込んできた。壊死しかかった僕の干からびた心に、初夏の陽射しにあぶり出されて浮かび上がった葉脈のような生命感が蘇った。
そのことの奇跡に意味はいらないと思う。あえていえば、そのリアリティが生きる意味だという気がするから。だから、西村の言ったことは本当は僕にはどうでもいいことだった。
ただ、あのチャットの女の子が実は死んだはずの姉さんであり、今こうして呼べばすぐに隣にいてくれるこの現実こそが絶対的な意味に他ならなかった。姉さんと千鳥ヶ淵を歩いている間に迷い込んだ世界で生き直した僕の世界のいったいどれが真実でどれが夢なのか、そのどれとどれが真実であり夢なのか、あるいはすべてが幻であっても構わなかった。
僕にとって大事なのは、それぞれが夢まぼろしであったとしても、その夢がどこまで確かに続くのかということだけだった。
伝わっただろうか…。僕たちにとっての意味とは、そういうことなんだ。いつかこの現実が終わるとしたら、それはなぜ、どんなきっかけで終末を迎えるのか、その時僕と姉さんはどうなっているのだろうか。
僕が知りたいのはそれだけだった。
姉さんは声には出さなかった僕の独白にかすかに頷くように微笑んだあと、ぽつりと言った。
「『地下鉄のない街』はね、そこに書いたことがすべて真実になる魔書なのよ。あたしも最初はそのことは知らなかったの」
地下鉄のない街 131 全能の存在
「魔書…」
「例えば…」
何かを手繰り寄せるようにふっと右手の人差し指を額に持っていき、姉さんは話し始めた。
「例えば、人には自分には絶対に叶えられないことがある。どんな満ち足りた人だって多分そう」
姉さんの顔つきは真剣だった。まだ自分でもこれかた何をどんな風に話そうか決めあぐねている感じだった。
「うん。あるよね。僕は昔からどうして姉さんの弟なんだろうって思ってたよ。それはこれ以上なく嬉しいことだし、反面ではこれ以上なく運命的に悲しいことでもあったし」
思わず本音というか、自分が常に心の深い部分で自分を制約し続けてきた思いが出た。それは僕には運命というよりはもっと宿命的なものであった。
「そうだね」姉さんの寂しそうな笑い顔に、僕は「あたしもよ」そんな言葉を勝手に聞いた。
「その運命をね、いとも簡単に操作できる存在がいる」姉さんはやっと自分の話したいことの輪郭がつかめてきたようだった。
「存在?神様とか?」
「そうね、一人は神様と呼ばれる存在。もう一人は…?」スフィンクスのなぞなぞのように面白がって姉さんが聞いてきた。
「悪魔とか?」
「うーん、はずれ。悪魔もできるかもね。でも悪魔は神様グループの存在だから一緒にしとこう。人間でそれができる人がいる」
「う~ん。絶対的な権力をもってる政治家とか世界的な大富豪とか?」僕もなぞなぞの答えらしく少し冗談っぽい回答してみた。
「ははは。そうね、でもハズレ。正解は…」
「正解は?」
「正解は小説家でした」
「なんだ」僕は笑い出してしまった。
「可笑しい?」姉さんも笑いながら言った。
「うんまあね、確かに小説家はやりたい放題だね。絶世の美女と絶世の醜男を駆け落ちさせることもできるし、第二次世界大戦で日本とドイツが勝利した世界も作り出すことができるよ。まるで神様みたいにね…」
「そう。まるで神様みたいに…」
「うん」僕は姉さんの真意を図りかねた。
「私たちが血のつながらなかい姉弟であるせかいもか作り出すことができる」
「そうだね、神様みたいに」
「そんな世界に憧れたことない」姉さんの瞳が少し潤んだように見えた。
「もちろんあるよ。さっき言ったことは本当さ」
「わたしもよ…」
姉さんは黙って僕をじっと見つめた。
「でも小説は空想の世界、絵空事だよ。この現実は僕たちが自分の手で選択したものじゃないけれど確かに現実さ、残酷なほど確かな」なぜだか軽い胸騒ぎのような感覚を覚えつつ僕はそう言った。
「そうね。でも…」
「まさかその『地下鉄のない街』というファイルに書き込んだことはすべて現実のものとなるっていうことなのかい?」
僕は胸騒ぎの正体がわかった。それこそがまさに、西村が姉さんを抹殺しようとする動機ではないのか。
「こんなノートが欲しかったんだ、ずっと。あたしと健太郎が普通の恋人として生きていけるような世界が作れるファイル。それが『魔書』でもなんでもいいわ、悪魔に何か代償を払ったり、だれか全然知らない人が不幸になるっていうことでもかまわないとさえ思っちゃった」
やはり、これだったのだ。胸騒ぎの正体は…。姉さんは世界の根本をひっくり返してしまうような危険な魔術を手にいれていたのだった。
植物人間だった僕を覚醒させ、自殺した皆川君をこの世に生き返らせ、僕たち姉弟と父さんと母さんとの宿痾ともいうべき諍いを和解に結びつけ、行方不明だった春日井先生の弟を医者としてお姉さんの前に呼び戻し、春日井先生のトラウマとそれゆえの性的な奔放さの苦しみを解消し、木島の教え子との間違いに意味を与え、すゑさんや南堂社長の取り返しのつかない失敗を解消し、そして…もしかしたら、僕たち姉弟が一番望むことも可能になるような…
「そういうことだったのか…いろんな不思議なことというのは、夢ではなかったんだね…」
「そうね…」姉さんの表情は嬉しそうでもあり、不安そうでもあった。
「過去の改変…か。ひょっとしてSFにあるように自分たちの望む世界が手に入るように見えて、僕たちの想像もできないようなもうひとつの悲しい宿命が明らかになる、なんてこともあるかも知れない…」僕は小さくつぶやいた。
「そうね」
姉さんは同じ言葉を繰り返して、そっと僕の手を握った。
つづく
地下鉄のない街132 死すべき作者
「姉さん…」
しばらく黙っていたあと僕は口を開いた。
「なあに」姉さんは静かに答えた。
「僕はさ、信じるよ、こういうことがありうるって」
「うん」
「多分さ、本当の本当の苦しいこと、何をどうやってもどうしようもない時、こういうことって起きると思うんだ」
「うん」
「でもそれは、願い事が叶うとか、奇跡が起きるとか、そういう手前勝手な甘いものじゃないと思う」
「うん…。どういうこと?」
あくまで静かに姉さんは答える。僕が言い出すことは多分なんでも受け入れてくれるのだろう。今までずっとそうだったように。
「西村が言ってた言葉が重たいなって」
「西村くんの言葉…?」
「あいつさ『いろんな苦しいことを、最初からなかったことにするような、そういう歴史の改変だけは許せない、認めるわけにいかない』って言ってたよね」
「そうだったね」
「うん。ここで姉さんと西村の言ったりしたりすること見てたけど、あいつに対する印象ずいぶん変わったよね」
「うん」
「実は一番まっとうなヤツがあいつだったりして」
笑いながらそういうと、姉さんもクスクスと笑いながら「そうかもね」と言った。
「それでね、僕は思うんだ」
「うん…?」
「都合のいい奇跡なんて僕は起きないし、起きてはいけないと思う。そういう点では僕は西村と同じかもしれない」
ここで初めて姉さんの表情が変わった。僕が姉さんの歴史を改変しようとする意思について反対表明を口にしようと思ったのかもしれなかった。
「わかるよ、でも…」
「姉さん、聞いて欲しいんだ」
「うん」
「さっき僕が『本当の本当の苦しいこと、何をどうやってもどうしようもない時、こういうことって起きる』って言ったよね」
「うん」
「そういうのは分かるしあってもいいと思う。でもそれはさっきのことと矛盾しないんだ」
「どうして?」
「世界が変わること、自分の都合で世界を変えてしまうことは僕はどんなにその人が苦しんでいたとしてもすべきではないと思う。それはうまく言えないけど、多分最後の最後に僕はさ、自分のその苦しみよりも、世界の苦しみの方がもっと深いと思える人間でいたいから…かな」
「自分の苦しみよりも…世界の…」
「ああ。それこそ綺麗事なんかじゃないんだ。人はさ、どうしようもないほど心が苦しい時に、記憶を喪失したり、気が狂ってしまう時があるよね」
「うん」
「つまりさ、その時に僕は世界を狂気に染めたくはないんだ。例えばヒトラーなんて、自分の狂気を世界で救おうとしたよね。哲学者ではハイデガーなんまさにそういう哲学をヒトラーと一緒に作り上げてしまった。僕はそういうのはイヤなんだ。狂うことでどうしようもない苦しさを受け入れるとしたら、自分一人が狂人になってしまいたいと思うんだ」
「そっか…うん」
「ごめん、僕の言いたいことわかる?」
「分かるよ。健太郎がそういう人、そういう弟だっていうこと知ってるもん」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、あたしはどうしたらいいんだろう。余計なことしちゃったのかな。健太郎を元の植物人間にしちゃえばいいのかな…。お父さんもお母さんもあたしたちと分かり合えて、あんなに喜んでくれたのに、全部もとに戻した方がいいのかな…」
姉さんは、泣き崩れてしまった。
「いいことがあるよ」
「なに?」
「さっき僕は耐えられない苦しさに世界を狂気に染めるより、一人で狂気の世界に行きたい、って言った」
「うん」
「一人だけ例外を作りたい。もしその人がそれを望んでくれるなら」
姉さんの表情にまた精彩が蘇った。
「うん。もちろんいいよ。それが一番いいと思う」姉さんはすぐに僕の言いたいことが分かったようだった。
「よし。じゃあ、僕と一緒にこの変わってしまいつつある世界を元に戻して行こう」
「分かった」
「そして、この『地下鉄のない街』の登場人物たちがまた、一人一人作者の操り人形じゃない、自分自身の生を生きる存在に戻すんだ」
「うん」
「そして最後に…」
「最後に?」
「作者は死ぬんだ」
「作者って、健太郎をとあたしね」
「そう。作者は死んで、今度こそ本当に『地下鉄のない街』というテクストに命が吹き込まれる。」
「その時あたしたちはどうなるのかしら?」
「生きていれば狂人。そうでなければ…」
「そうでなければ…?」
「まだ分からない。最終この『地下鉄のない街』という物語が終わる時はっきりするんだと思う」
姉さんは深くため息をついた。でもそのため息は諦めではなく、新しい空気をいっぱい肺に取り込んで、今までの自分一人で苦しんでいた淀んだ空気を吐き出す深呼吸のようだった。
「じゃあ、最初からやっていこう。そして元に戻った世界でみんながどうなるか見届けるんだ」
「分かった」
僕と姉さんは改めて『地下鉄のない街』という物語を最初から読み直すことを始めた。
多分二度と戻れないさようならをするために…。
つづく