地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街~13 会社での出来事

 ああ、しかし大変な一週間だったな。

 気をとり直してそろそろ出かける支度をしないとあの子とのデートに遅れちゃう。



 窓の外ではまた季節はずれの蝉の鳴き声がしている。

 神田から蝉が呼んでいるような気がした。

 僕は普段着にごく簡単に身づくろいをしてとりあえず駅に向かった。



 この一週間は夜のチャットの時間もあまり取れなかった。

 この一週間でまた僕の会社での立場は壊滅的にひどくなってしまった。

 商店街を抜けて駅まで抜ける道すがら、一週間のことがぼんやりと頭をよぎる。




「いったいお前は何をやっているんだ」

 この言葉が課長からだったら別になんとも思わない。

 しかし呆れ顔でこういったのは、車内での唯一の僕の理解者の神田先輩だった。



「こうする仕方なかったんです」

「しかしなあ、結局お前後輩に思いっきり裏切られたわけだろ」

 僕はただ頷いた。

 半径数メートルしか自分の領域を作って来なかった僕にとって、自分の会社がコンピュータシステムの開発をやっていることなどどうでもよかった。

 ただ、営業からの伝票を受け取って振替伝票にしたり、月末に発注伝票などと照らし合わせたりというのが僕の仕事であって、それは別にコンピュータのシステムでなくてもなんでもよかった。

「岸本のやつ前にもノルマ達成のために架空の受注伝票作って会社クビになりかけたのは知ってるよな」

「はい。ぼくの前任者から引き継ぎの時に聞いてました。要注意人物だから経理の処理はルール通り厳格にって」

 以前、一つ後輩の岸本が2年がかかりくらいの大きなシステムの開発を取引先と共謀して受注したことにし、それが発覚して大騒ぎになった事件があった。岸田は架空受注で会社のノルマを達成し、架空発注をした会社は決算ぎりぎりに手付金をうちの会社に振り込むことで脱税をしようとしたらしい。経済誌にも事件の記事が載った。

「オレは信じてるけど、お前もぐるになって今回また似たようなことをやったってことで課長は上に報告したそうだぜ。」

「はい」

$小説 『音の風景』





「岸本になんか弱みでも握られてるのか」

 神田先輩は怒りの表情を少し引っ込めて心配そうな顔で訊いてきてくれたけど、僕は首を横に振ることしか出来なかった。






続く

地下鉄のない街~14 踏切の音

 他人事のように自分の人生を生きること。

 いつの頃からか、それが自分の生き方になった。

 無責任というのとは違う。責任はいつも果たしてきたつもりだったし大抵の人は僕のことを大した人間ではないけれど約束は守る誠実な人間だと思ってくれいるはずだ。

 もっとも責任を取らなきゃいけないことを極力避けてきて、取れる範囲の責任しか問われないところで生きてきたことには変わりない。
 人を傷つけたり争いごとになったりするくらいなら、全部自分が悪かったことで構わない。ヒーローを気取るんじゃない。人と争うという根本的な力が僕には欠けていたし、それは鍛えてなんとかなるようなものでもなさそうだったから・・・。

 だから、耐え切れない現実は白昼夢のようにやりすごす。

 これができなかったら僕はとっくの昔に気が狂っていたかもしれない・・・。

 


「まあ、お前がそれでいいならいいんだけどな」

 神田先輩はそういう僕の生き方を見ぬいて多分そう言った。

 不正経理の片棒を担がされた格好になっても、僕はどうしても岸本に怒りをぶつけることが出来なかったのだ。

 神田先輩の言うように弱みを握られているなんて言うことではない。

 そう・・・。


 僕には、人に怒りをぶつけるということそのものができないのだ。

 気が弱いというのとは違う。

 聖人君子というわけでもない。

 だから、できないというより、人に怒りの感情を持つことが分からないんだ。




 怒りに似た気持ちが湧いてくると、あ、これが怒りの感情がって思うこともあった。でもどこからかそれをすっと冷ましてしまう何かがやってくる。

 『岸本は悪くないんじゃないのか。』

 『悪いのはもっと別の何かだ。』

 その声がすると僕はすべてのことに怒りを感じることができななくなってしまうのだ。

 そして今回みたいに最終的には自分が悪かったようになってしまう。

 それの繰り返しだった。



 多分、どうしようもない不治の病気なんだ。誰にもわかってもらえない。同情すらしてもらえることのない病。

 いや、一人だけわかってくれる人が昔いたんだったね、姉さん・・・。


 ぼくはあの子とのこの一週間の途切れ途切れの短いチャットを思い浮かべながら駅へ急いだ。





 
 今日も地下鉄はなかった。

 地上を走る電車は、まるで、素直な昔のぼくの心のようだった。

 窓の外から降り注ぐ日差しは明るくて温かい。

 河原で野球をやっている小学生。まるでここまで声が聞こえそうだ。

 いつからぼくは地下鉄を必要とする生活を送るようになったのだろう。

 覚えてない。

 でも多分あの頃か、な・・・。



$小説 『音の風景』 この陽射し、このさわやかな線路の音。

 踏み切りの音が途方もなく懐かしく聞こえる。

 地下鉄には絶対にない踏切。

 踏み切りの音って、こんなに楽しいんだね。

 もっと怖いものだと思っていたよ。



 もうすぐ君に会えるね。





「もう、おそいよー。待ちくたびれた」

 日本武道館を左手に坂を登り切ると、少し不機嫌そうな君がいた。

 僕は見つけても駆け足になるわけでもなく、ゆっくりと歩いていった。

「ごめん、ちょっと寝坊しちゃった」

 僕はとりあえず謝まった。




「いいよ。あまり時間が無くなってきたからさ、ちょっと言いたくなっちゃった」

 視線を遠くにやって、少しさびしそうに君はつぶやいたね。



 恐怖にも似た胸騒ぎがしそうになったけど、僕は黙っていた。

 君は前をゆっくり公園の奥の方に歩いて行く。

 今言ったのは今日のデートの時間のことではないんだよね。

 会えたばかりなのに、もうお別れの時間がやってくるのかい、姉さん・・・。



 懐かしい長い髪の後ろ姿の17歳の姉さんに、僕は聞こえないくらいの声で小さくつぶやいた。



続く

地下鉄のない街~15 ふたりだけの踏切の音

「あれ・・・時間って、今日何か用事あるの?」

 もう一人の僕が姉さんに聞こえるような声をかける。もう一人の僕。由紀子ちゃんという高校生とチャットで知り合った、会社で少しヘマをやらかした僕だ。

「違うよ・・・」

 姉さんはこの演技に付き合ってくれる。

 姉さんは、僕がかすかに姉さんとの別れの始まりがすでにスタートしたことに気がついたことを知っているはずだった。

 なぜなら・・・。もちろん姉さんは何でも知っているから。



 
「あたしの話だれかにしたでしょ」

 さびしそうな眼だった。

「え?」

「お友達とかに」

「え!したけど少しだけ。どうしてわかるの?」

 顔は驚いてもいなかったし、声も普通だったと思う。だって、姉さんの弟の健太郎の僕は、姉さんのその言葉で、自分が犯してしまった致命的なミスをその時すでにはっきりと分かってしまっていたから。




「やっぱりそれでか・・・」

「それでって?」

「あたしがいなくなる時間が早くなっちゃったよ」

 なんだか昔姉さんに怒られてたときみたいだった。




「意味がわからないよ。待たせたのは本当に悪かった。待っていてくれているとは思わなかったよ」

「三時間も女の子待たせて・・・。それじゃもてないよ健太郎。」

「あ、いや、そうだけど、・・・ごめんなさい、姉さん」

「いいよ」


 僕の中の健太郎が前に出てきて思わず姉さんに謝ってしまった。

 多分、別れは加速する。
 
 でも僕はねえさんの「いいよ」が聞きたかったんだ。

 世界の中でただひとつ、自分が完全に赦されるあの場所でいつも鳴っていたあの姉さんの声で。



$小説 『音の風景』「あした休みでしょ。」

「うん」

「これから山の上ホテルでお食事しましょ」

「ああ、うんでも・・・」

「できれば、そのまま泊まりたいな。時間がないから」

「え?」

 いきなり誘われて、僕はびっくりしてしまった。

 いや、嘘だ。

 もう一人の僕は知っていたはずだ。

「いやなの?」

「いや、いいけど」




「今踏み切りの音が聞こえる?」

 踏み切りの音・・・。

 もちろん聞こえるよ。



 ぼくの耳に踏み切りの音が鳴った。ぼくを励ますように。やさしく、懐かしく。



「キスしようか」

 姉さんの声が確かにそう聞こえた。

 僕は、ふたりだけに聞こえる踏切の音に紛れて、その声が聞こえなかったふりをした。





続く

地下鉄のない街~16 遠回り

 もうあっち側に渡ろう。

 踏み切りの音がそういっていたように聞こえた。

「歩いて行こうね」

 姉さんはそう言って僕の腕をとった。


$小説 『音の風景』 僕たちはどちらともなく、山の上ホテルの方角とは反対の方向に歩き出した。
 千鳥ヶ淵公園をぐるっと遠回りしてホテルまで行くのには何時間かある。終点が決まっていてもそれを少しでも引き伸ばしたい。
 でももちろん静かに、確実に、遠回りした道は近道と同じ道に交わる。
 それはもちろん分かっているのに、僕はもしかしたらその道は永遠に交わらないことだってあるかもしれないと思いたかった。
 そうでないと一歩も動けそうになかったから。


「久しぶりにこの辺りを歩くよ」

 僕は前を見たままつぶやく。

「そっか。あたしもそういえば死んじゃってからは初めてだな」

 少し時間がかかったけど、僕は「うん」と言った。


 僕はそろそろ"あのこと"を聞かないといけないと思った。多分姉さんはそのことを話そうとしている。

「姉さんは17歳の今頃、もうとっくに夏も終わったのにどこかで蝉の鳴いていている今頃の季節に死んでしまったんだよね」

 胸が張り裂けそうになって少し目を伏せると、気の早い落ち葉が公園のアスファルトの上を小さく舞うよう這って逃げて行った。

「そうね。ちょうど今頃だったね。健太郎にさよならも言えなかった」



 僕は黙って歩いた。

 ゆっくりと、少しでも目的地につく時間が遠のくように。

 怖くて振り返れなかったあの日のことを、僕の腕に手を絡ませている姉さんの姉さんの体温を感じながらゆっくりと歩いた。

 36歳の決してもう若くない決定的に大人になり損ねた僕と、なんでも知っている、でも大人になる前に死んでしまった高校生の姉さん。

 少しだけわけありに見えるこの腕を組んで千鳥ヶ淵公園を歩く僕たちを、すれ違う人たちは気に留めるでもなくそのまま通り過ぎて行く。


「姉さんはこの公園の近くにある高校から、やっぱりこの近所に会社があった父さんと一待ち合わせして一緒に家に帰る途中、踏切事故で死んじゃったんだね」



 口に出してみるとただそれだけだった。

「うん」

 姉さんもそれだけだった。

 僕は姉さんの腕をほどいて、手を握ってみた。暖かくぬくもりのある懐かしい感触が手の先から体に染みこんでいった。

 涙が正直に頬を伝った。


「オヤジが先に踏切を渡っちゃって、はやくしろ!なにしてるんだ!って振り向きざまに姉さんに怒り出した。姉さんは無理して渡ったところを遮断機に挟まれてしまってパニック状態で動けなくなってしまった。そして電車の非常ブレーキの音にまみれてはねられて死んでしまった。そうだったね」



 僕は僕が唯一怒りの感情をまともに感じる自分の父親のことを思い出しながら一気に口にした。
 動機が激しくなる。制御の聞かない僕の唯一の怒りの感情だ。



「だいぶ話が違うみたいね」

 姉さんは、やっぱりね、そんな口調で優しく寂しそうに言った。

「え?何?」

「あたしはね・・・パパが来るなって合図したのに、はやくあっち側に行きたくて勝手に走ったのよ」


!?


「そのこともちゃんと話したくてね。それで会いに来たの。死んでしまってよく分かったんだけどさ、この世界にはあっち側とこっち側が交わる所があるのよ。あの踏切もそうだったみたい。でもあたしはその踏切を何故だか分からないけど渡りそこねた。そして死んじゃったの。でもね、あなたに先週会ってから分かったんだ。多分あたしが死んじゃったその理由が・・・」



 僕はただ姉さんの手を黙って強く握り直した。

 汗ばんだ掌を姉さんがやさしく握り返してきた。

 立ち止まって姉さんと目を合わせると、姉さんの瞳の奥の方で瞳踏み切りの音がかすかに鳴ったように感じられた。









続く
ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
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