青ざめた皆川君を見ながら僕は少し不思議に思った。確かに未来の時点から書かれているあのカルテ『地下鉄のない街』は皆川君にとって奇妙な文書だろう。
競技会の八百長事件の後、自分の命を絶とうとして踏切で死に損ない、それから数十年も経って植物人間になった僕がまた奇跡的に意識を取り戻し、見舞いにきてくれた当時のみんなとの夢うつつの話をカルテとして綴ったのがあれだ。
しかし、奇妙なのは間違いないとして、皆川君があんな風に恐怖で震えるようなことが書いてあっただろうか。
「どこ読んでるんだ。ああ、お前と
春日井先生の病院での長い感動的な話の部分か。悪いけど俺も読ませてもらった。そう。そして最後にありがとう、って書いてあるよな」
下を向いて一心不乱に『地下鉄のない街』のページをめくる皆川君に横に西村も座り直した。
「はい。ありますね」
「そのありがとうって書いてる春日井先生はもう四十過ぎだ。先生のことだからまあ、普通のオバサンにはなっちゃいないだろうがな」
「ええ。僕のことが書いてあるんですが…」皆川君の声が震えた。
「どれどれ」
「『今思えば競技会の八百長事件を苦にして自殺した皆川君のことは悔やんでも悔やみきれないけれど…』って、僕は自殺するんですか?」
西村は皆川君の手から『地下鉄のない街』を取り上げるとページをめくって確かめた。
僕は皆川君の狼狽の理由を知って納得した。確かに皆川君は競技会の後自殺するというのが歴史の事実だった。
「ああ、そうそう。そういう記述になってたよな。まいっちゃうよな。まだお前はピンピンしてるし、死ぬ気なんてないのになあ」
「それに『競技会の八百長事件を苦にして自殺』って、僕はまだその八百長事件の内容すら知らないんですよ。しかも西村さんからその話を持ちかけられようとしてますけど、僕は引き受けるかどうかも言ってない」
西村は苦笑しながら『地下鉄のない街』を指で弾いた。
「まったくだよな、これなんかの作り話だったらいいんだが」
「そうですよ。実名の僕らを登場させて誰かがこれを小説として書いただけでしょ。あれ、待ってください。それを君島のお姉さんが…?」
皆川君は信じられないといった面持ちだった。
「今待て、結論を急ぐな。その前に、おれはどうもこの『地下鉄のない街』というのが単なる実名小説だとは考えていないんだ。いや、正確には最初はそう思っていたんだが、どうも違うらしいと認めざるを得なくなったんだ」
「というと…」
「うん。すでに俺の周りで歴史の改変が始まってるんだよ。」
眉間に軽くしわを寄せて自分で軽く頷いたあと、西村は確信を持って言った。
「歴史が変わっている…?」
「ああ。」『地下鉄のない街』を指差しながら西村が話を続けた。
「春日井先生の前の章に君島のご両親の記述があるだろう。同じように『ありがとう』って」
「ありますね。寝たきりになった健太郎が途切れ途切れの意識の中で、お父さんの当時子供にも知らせていなかった苦悩を赦すシーンを、ベッド横で口述筆記して『ありがとう』って書いてる」
「そうだな。お母さんも、お父さんとの確執から由紀子さんに辛く当たっていたことを理解してもらって『ありがとう』ってわけだ」
「誤解が解けて、理解もしてもらってめでたしめでたし、というわけですね」
ゆっくりと首を振って西村は顔に少し渋面を作った。
「それがそうばかりでもない。実はあのご両親は俺の所、教団の方に子供たち、つまりあの姉弟のことで相談に来たことがあるんだ」
「そうなんですか」
「ああ。内容はもちろん口外はできないんだが、その相談事が消滅したらしい」
「消滅?解決じゃなくてですか?」
「ああ、母親の方は教団の信徒でもあるから、教団で見かけた時にその後どうですかって聞いてみたんだが…」
「はい」
「そんな悩み事は相談に乗ってもらった覚えはないし、何のことだかわからないということだった」
「妙な話ですね」皆川君は首をかしげた。
「ああ。すぐに解決するような種類の話でもないんだけどな。どうも解決したというのではなくて、そもそもそんな話はなかったということのようだ。俺がお前に持ちかけようとしてる八百長事件にしても、お前がそれを苦にして自殺する必要なんて全くないんだぜ。」
「その秘密があの『地下鉄のない街』にある?」
「ああ。どうも未来の地点で過去に遡って歴史が都合良く作り変えられて行ってるような気がするんだ」
しばし二人の間に沈黙があった。それぞれどちらがそれを口にしようか譲り合っているようにも見えた。
「僕の自殺もその未来の時点の誰かの意志?君島姉弟の意志ってことなんですか?」
「お前の気になるところはもちろんそれだよな。じゃあ、俺の想像を語ってみようじゃないか。おそらく当たっていると思うんだ。そして当たっているかどうかは、この『地下鉄のない街』に新しい展開が出てくることで判明するだろう…。」
僕と姉さんが未来の地点から過去を改変しようとしている…。そして現実に改変が始まっている?