地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街~12 ハーフ&ハーフ

 大変だ。死んだように寝てしまった。

 日付が一日飛んでいる。土曜に姉さん、いやこの家に帰ってくると実感が急に湧かなくなってくるから由紀子ちゃんか・・・由紀子ちゃんと会ったのが土曜日。

 今は月曜の午前7時10分。支度をして会社に出かけないと。



$小説 『音の風景』 同僚や電話でお客さんと話をしていてもどこか上の空だった。午前中はあっという間に過ぎた。

「おい君島、なんだか疲れてるな」

 昼休みに直前に神田先輩が話しかけてくれた。

「気分転換に、飯でも食いに行かないか」

「ああ、神田さん。そろそろお昼ですね」

「10分前だけど、出るか」

「はい」

「じゃ、行こう」




 行きつけの定食屋は、12時前だったのですいていた。テーブル席に座ったぼくは、朦朧とする頭の中で何も考えずに土曜日の話をし始めた。相手が神田先輩だっという安心感もあったのだと思う。

「最近変なんですよ」

「税理士試験の勉強で疲れてるだろ。見てて分かるよ」

「ああ、それもそうなんですけど、工場は消えてしまうし、地下鉄も時々なくなる。女性のチャット友達とこの間会ったんですけど、自分は僕の姉だっていうしなあ」

 先輩はカキフライ定食のカキを次々と口に放り込みながら吹き出しそうになった。

「おいおい、大丈夫か、もう少し受験勉強のペース落としたら、はははは。試験に落ちたらしゃれにならないけどな」

「そうですねちょっと根を詰めすぎたかもしれませんね。」




 ぼくは冷静になって話を切り出そうと思った。

「でも不思議なんですよね」

「何が?」

「そのチャット友達のおんなのこ、確かに死んだ姉さんにそっくりなんです。家に帰ってきてからも写真で確認したんですけど、まるで同一人物なんです」

「まあ、他人の空似ってことはよくあることだからな」

 神田さんは定食の野菜をほおばりながらちらっとこっちをみた。

「そうなんですけど、そういえば、しゃべり方とか、目のあてかたとかもそっくりだなあ。しかも、健太郎という僕の名前も知っていたし、他にも色々としゃべってないことまで知ってたんですよね」

 神田さんは、曖昧に微笑みながら、年上の顔で優しく答えてくれた。

「君のお姉さんだったら、もう随分な年だぜ。いくつくらいの人?」

「まだ17歳だそうです」

 ぼくもおかしなこといっていると思いながら、言ってみた。

 案の定回りに聞こえるくらいの声で笑われてしまった。

「ありえねーよ。なにいってるの。からかわれているんだよ。ははは。34歳の君島に17歳の姉さんね。こいつはまあすばらしいファンタジーってやつだな」

 僕もつられて笑った。すっと土曜日のことが非現実の世界に遠のいたようだった。





「そうですよねえ。からかわれているんですかね」

「当たり前だ。はははは。今はどこからどういう個人情報が漏れるかわかったもんじゃないさ。お前の下の名前だってどこか他に書いた情報をどうもお前らしいと特定して当てずっぽうで言ったことだって十分ありえるし、お前占い師のテクニックのコールドリーディングって知ってるか?言葉の端々からかまをかけて情報聞きだして、さも自分は最初から何でも知っていたかのように思わせるテクニックだってかなり確立されてるそうだぜ。大方そんなところだろう」

 あの日の現実を失いたくはなかったけれど、先輩にそう言われてみればそういうことだって十分なあるだろう。僕は客観的にそう考えられる自分も認めざるを得なかった。

「今度の土曜日もう一度会うんです」

「そうか、まあ、気分転換にいいじゃないか」

「ええ。そうですね。」




まだ休憩時間があったので、お茶を飲みながら雑談をした。

「ところでさ、由貴ちゃんとどうなってるの」

「進展ありません」

「もしかして、そのチャット女の子のことが気になるのか」

「少し」

「ははは。勉強疲れだな。現実世界の大切な人を一番大事にしないとな」

「はい」

「まあ、昼間は淡々と仕事こなして、夜は受験勉強。謎の女子高生はその次だね」

「そうですね」

「よし、そろそろ会社戻ろう」

「はい」





 戻るところ、どこなんだろうそれは。

 いい。そんなことは。

 今はとにかく会社に戻る時間だ。



 淡々と業務をこなすこと。そして試験勉強をすること、そして彼女と会うこと。



 神田先輩のおかげで現実と非現実はちょうど半分ずつのバランスになった。




続く

地下鉄のない街~13 会社での出来事

 ああ、しかし大変な一週間だったな。

 気をとり直してそろそろ出かける支度をしないとあの子とのデートに遅れちゃう。



 窓の外ではまた季節はずれの蝉の鳴き声がしている。

 神田から蝉が呼んでいるような気がした。

 僕は普段着にごく簡単に身づくろいをしてとりあえず駅に向かった。



 この一週間は夜のチャットの時間もあまり取れなかった。

 この一週間でまた僕の会社での立場は壊滅的にひどくなってしまった。

 商店街を抜けて駅まで抜ける道すがら、一週間のことがぼんやりと頭をよぎる。




「いったいお前は何をやっているんだ」

 この言葉が課長からだったら別になんとも思わない。

 しかし呆れ顔でこういったのは、車内での唯一の僕の理解者の神田先輩だった。



「こうする仕方なかったんです」

「しかしなあ、結局お前後輩に思いっきり裏切られたわけだろ」

 僕はただ頷いた。

 半径数メートルしか自分の領域を作って来なかった僕にとって、自分の会社がコンピュータシステムの開発をやっていることなどどうでもよかった。

 ただ、営業からの伝票を受け取って振替伝票にしたり、月末に発注伝票などと照らし合わせたりというのが僕の仕事であって、それは別にコンピュータのシステムでなくてもなんでもよかった。

「岸本のやつ前にもノルマ達成のために架空の受注伝票作って会社クビになりかけたのは知ってるよな」

「はい。ぼくの前任者から引き継ぎの時に聞いてました。要注意人物だから経理の処理はルール通り厳格にって」

 以前、一つ後輩の岸本が2年がかかりくらいの大きなシステムの開発を取引先と共謀して受注したことにし、それが発覚して大騒ぎになった事件があった。岸田は架空受注で会社のノルマを達成し、架空発注をした会社は決算ぎりぎりに手付金をうちの会社に振り込むことで脱税をしようとしたらしい。経済誌にも事件の記事が載った。

「オレは信じてるけど、お前もぐるになって今回また似たようなことをやったってことで課長は上に報告したそうだぜ。」

「はい」

$小説 『音の風景』





「岸本になんか弱みでも握られてるのか」

 神田先輩は怒りの表情を少し引っ込めて心配そうな顔で訊いてきてくれたけど、僕は首を横に振ることしか出来なかった。






続く

地下鉄のない街~14 踏切の音

 他人事のように自分の人生を生きること。

 いつの頃からか、それが自分の生き方になった。

 無責任というのとは違う。責任はいつも果たしてきたつもりだったし大抵の人は僕のことを大した人間ではないけれど約束は守る誠実な人間だと思ってくれいるはずだ。

 もっとも責任を取らなきゃいけないことを極力避けてきて、取れる範囲の責任しか問われないところで生きてきたことには変わりない。
 人を傷つけたり争いごとになったりするくらいなら、全部自分が悪かったことで構わない。ヒーローを気取るんじゃない。人と争うという根本的な力が僕には欠けていたし、それは鍛えてなんとかなるようなものでもなさそうだったから・・・。

 だから、耐え切れない現実は白昼夢のようにやりすごす。

 これができなかったら僕はとっくの昔に気が狂っていたかもしれない・・・。

 


「まあ、お前がそれでいいならいいんだけどな」

 神田先輩はそういう僕の生き方を見ぬいて多分そう言った。

 不正経理の片棒を担がされた格好になっても、僕はどうしても岸本に怒りをぶつけることが出来なかったのだ。

 神田先輩の言うように弱みを握られているなんて言うことではない。

 そう・・・。


 僕には、人に怒りをぶつけるということそのものができないのだ。

 気が弱いというのとは違う。

 聖人君子というわけでもない。

 だから、できないというより、人に怒りの感情を持つことが分からないんだ。




 怒りに似た気持ちが湧いてくると、あ、これが怒りの感情がって思うこともあった。でもどこからかそれをすっと冷ましてしまう何かがやってくる。

 『岸本は悪くないんじゃないのか。』

 『悪いのはもっと別の何かだ。』

 その声がすると僕はすべてのことに怒りを感じることができななくなってしまうのだ。

 そして今回みたいに最終的には自分が悪かったようになってしまう。

 それの繰り返しだった。



 多分、どうしようもない不治の病気なんだ。誰にもわかってもらえない。同情すらしてもらえることのない病。

 いや、一人だけわかってくれる人が昔いたんだったね、姉さん・・・。


 ぼくはあの子とのこの一週間の途切れ途切れの短いチャットを思い浮かべながら駅へ急いだ。





 
 今日も地下鉄はなかった。

 地上を走る電車は、まるで、素直な昔のぼくの心のようだった。

 窓の外から降り注ぐ日差しは明るくて温かい。

 河原で野球をやっている小学生。まるでここまで声が聞こえそうだ。

 いつからぼくは地下鉄を必要とする生活を送るようになったのだろう。

 覚えてない。

 でも多分あの頃か、な・・・。



$小説 『音の風景』 この陽射し、このさわやかな線路の音。

 踏み切りの音が途方もなく懐かしく聞こえる。

 地下鉄には絶対にない踏切。

 踏み切りの音って、こんなに楽しいんだね。

 もっと怖いものだと思っていたよ。



 もうすぐ君に会えるね。





「もう、おそいよー。待ちくたびれた」

 日本武道館を左手に坂を登り切ると、少し不機嫌そうな君がいた。

 僕は見つけても駆け足になるわけでもなく、ゆっくりと歩いていった。

「ごめん、ちょっと寝坊しちゃった」

 僕はとりあえず謝まった。




「いいよ。あまり時間が無くなってきたからさ、ちょっと言いたくなっちゃった」

 視線を遠くにやって、少しさびしそうに君はつぶやいたね。



 恐怖にも似た胸騒ぎがしそうになったけど、僕は黙っていた。

 君は前をゆっくり公園の奥の方に歩いて行く。

 今言ったのは今日のデートの時間のことではないんだよね。

 会えたばかりなのに、もうお別れの時間がやってくるのかい、姉さん・・・。



 懐かしい長い髪の後ろ姿の17歳の姉さんに、僕は聞こえないくらいの声で小さくつぶやいた。



続く

地下鉄のない街~15 ふたりだけの踏切の音

「あれ・・・時間って、今日何か用事あるの?」

 もう一人の僕が姉さんに聞こえるような声をかける。もう一人の僕。由紀子ちゃんという高校生とチャットで知り合った、会社で少しヘマをやらかした僕だ。

「違うよ・・・」

 姉さんはこの演技に付き合ってくれる。

 姉さんは、僕がかすかに姉さんとの別れの始まりがすでにスタートしたことに気がついたことを知っているはずだった。

 なぜなら・・・。もちろん姉さんは何でも知っているから。



 
「あたしの話だれかにしたでしょ」

 さびしそうな眼だった。

「え?」

「お友達とかに」

「え!したけど少しだけ。どうしてわかるの?」

 顔は驚いてもいなかったし、声も普通だったと思う。だって、姉さんの弟の健太郎の僕は、姉さんのその言葉で、自分が犯してしまった致命的なミスをその時すでにはっきりと分かってしまっていたから。




「やっぱりそれでか・・・」

「それでって?」

「あたしがいなくなる時間が早くなっちゃったよ」

 なんだか昔姉さんに怒られてたときみたいだった。




「意味がわからないよ。待たせたのは本当に悪かった。待っていてくれているとは思わなかったよ」

「三時間も女の子待たせて・・・。それじゃもてないよ健太郎。」

「あ、いや、そうだけど、・・・ごめんなさい、姉さん」

「いいよ」


 僕の中の健太郎が前に出てきて思わず姉さんに謝ってしまった。

 多分、別れは加速する。
 
 でも僕はねえさんの「いいよ」が聞きたかったんだ。

 世界の中でただひとつ、自分が完全に赦されるあの場所でいつも鳴っていたあの姉さんの声で。



$小説 『音の風景』「あした休みでしょ。」

「うん」

「これから山の上ホテルでお食事しましょ」

「ああ、うんでも・・・」

「できれば、そのまま泊まりたいな。時間がないから」

「え?」

 いきなり誘われて、僕はびっくりしてしまった。

 いや、嘘だ。

 もう一人の僕は知っていたはずだ。

「いやなの?」

「いや、いいけど」




「今踏み切りの音が聞こえる?」

 踏み切りの音・・・。

 もちろん聞こえるよ。



 ぼくの耳に踏み切りの音が鳴った。ぼくを励ますように。やさしく、懐かしく。



「キスしようか」

 姉さんの声が確かにそう聞こえた。

 僕は、ふたりだけに聞こえる踏切の音に紛れて、その声が聞こえなかったふりをした。





続く
ゆっきー
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