地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街~10 父親のこと

「こんにちはー」

「いらっしゃいお嬢さん。今日はお父さんは一緒じゃないの?」

 五十代くらいの柔和なマスターが、笑顔で迎えてくれた。常連さんなんだな。

「今日は彼氏といっしょよ」

「あ、それはそれは」

 他意のない笑顔で、ぼくの方を見てくれた。なんだか恥ずかしい。

「いや違いますよ、彼氏じゃないです。今日初めてあったんですから」

「ははは、なにどぎまぎしてるのよ。初めてじゃないって言ってるでしょ」

「・・・」

 いいから座ろう。あたしはモカ。なんにする?

「いやコーヒーのこと詳しくないから」

「そうだったね。じゃあ、モカ二つお願いします」

「はいかしこまりました」

 カウンター越しから、マスターが小さく応答していた。




「お待ちどうさまです」

 アルバイトの店員の手は開いていたが、さあどうぞ、といった感じでマスターが自分で運んできてくれた。

「あいかわらずちっちゃいね、このカップ。量が少ないよ」

 ぼくはヒヤヒヤする。姉さんはいつも大人にもこんな喋り方をしてたっけ。

「また、そんなこと言って。お父さんもあなたも、おいしいおいしいって言ってくれるじゃないですか」

 マスターの柔和な笑顔と二人のあけすけな雰囲気は、17歳の姉さんがこの店にいつも来ていることを物語っていた。

 喫茶店でコーヒーを一緒に飲んだことは・・・確か無かった。

$小説 『音の風景』 「お父さんのこと好きじゃないの?健太郎は」

 ポンとボールを投げてよこすように突然、でもちゃんとそれを取りやすい胸の位置にさりげなくねえさんが言葉を投げかけてくる。

 この時だけは時間が停滞する。父さんの話になる時だ。

 外に飛んでいる鳥の声が急に大きくなって、少しそれに気を取られた。

 どのくらいたっただろう、三十秒か三分か、もっとかもしれない。




「聞いてるの?健太郎」

「ああ、聞いてるよ」

 僕は切ない思いで返事をした。そうか・・・やっぱり。

 チャットで一度も使ったことのない僕の下の名前だ。



「お父さん、健太郎のこと好きだよ。あなたもそうでしょ。だから地下鉄消えたんだよ。あたしとも会えたしね」

「悪いけどいろいろあって、ぼくは素直になれない。昔も姉さんが死んでからもさ」

「でもあなた地下鉄消してここにこれたじゃない。思いが通じたのよ、お父さんの」

「よく分からないや。言っていることが」

 不安を打ち消すように、ぼくは少しぶっきらぼうなしゃべり方で答えた。

「ここは地下鉄では来ることができない神田よ、はるか昔の」

「ああ分かってるさ」

 僕が答えると姉さんは寂しそうに笑った。





 しばらく間が空いた。





「コーヒー終わったし、また今度会おうね。今日は楽しかったわ」

 姉さんは唐突に言った。

「うん。今度はいつどこで会えるの?」

 僕はそれを止めようとはしなかった。もっとこの世界にいたかったけれど、それはたぶん無理なんだとわかっていた。姉さんがそれを促すのならそろそろ僕は元の世界に帰るべきなんだ。

「来週の土曜日でもいいわよ。ただ場所は神田だけ」

 そうか。

 あのチャットのときに文字から伝わってくるさびしそうなニュアンスは、この表情なんだね。

 姉さんの姿がすっと薄くなって、パソコンのカーソルが僕と姐さんの間で透明に点滅しているようだった。





「分かった。」

「さよなら。あたしはもしばらくここにいるから」

「そうなのか」

「そう」

「うん、わかった」

「またね、さようなら。地下鉄で帰ってね」

「そうするよ」






 あとはよく覚えていない。

 九段下の駅から地下鉄に乗って自分の家のある駅で電車を降りた。

 長いエスカレーターを登って地下鉄の通路を出ると、見慣れた町並みが広がっていた。




続く

地下鉄のない街~11 夢に堕ちる

$小説 『音の風景』「ただいま」

「といっても誰もいないけどな」

 しんとした、独り住まいのアパート。

 ベッドの脇の灯りをつけると現実にようやく完全に引き戻された。

 そうだ、なくなった姉さんの写真を見てみよう。

 たしかに亡くなったのは17歳だな。久しぶりに開けるな、このアルバム。

 写真が沢山残っていてよかった。

 あれはやっぱり・・・。確かめるまでもないかもしれない、でもそれを僕は認めていいんだろうか。

 もしこの部屋と神田の街しかなかったとしたら、僕はそれでもいい。






 でも・・・。

 多分そうは行かない。

 今日の現実は、日常世界の非現実なんだ。

 たぶん・・・

 そうじゃないと、あの世界は壊れてしまう。

 いっそ僕が頭がおかしくなったのでもいいんだ。

 それならこの頭のおかしくなった自分を大事にしたい。

 チャットの時間と、神田の時間・・・。

 それがあれば、この先もこの世界で頑張れるだろう。

 もし、頑張ることに意味があるならばだけど・・・。







 だめだ、眠すぎる。

 夢に引きずり込まれる・・・

 あの悪夢のような日の、磨り減っていった人生の始まりの日の。




 悪いのはおまえじゃない
 悪いのは、だれでもないんだ
 誰も悪くない
 だから誰も責められない

 ほんの冗談
 冗談を誰も責められない
 おまえもそうだよな
 冗談を否定したら、こんどはお前が標的だ

 自殺はしないよ
 自分のためじゃない
 おれが自殺したら、お前が困るだろ
 悪いのはばらばらにされて組み立てられたすりかえられた関係性の悪意さ

 どうしてこんなことするんだ、なぜこんなことになるんだ
 おまえにこういえたらどんなに楽だろう
 でも、誰に言ったらいいんだろう
 いつもおれをいじめるおまえか?

 ちがうよな。おまえはそんなにひどいやつでもない。
 だれににやらされているわけでもない
 やらせているのは、もっと違う不気味な何かだよな
 相手のいないところへ向かって自己主張はできない

 敵はどこにもいないんだ
 ただ、悪意だけが亡霊のようにあたりを支配している
 何かをすることは不毛なんだ
 悪意は、目で見えないし、胸ぐらもつかめない

 しゃべっていないと、何考えてるのといわれるね
 何も考えていないとは、だれもいえない
 たとえ、何も考えていなくても
 何かしゃべらないといけないように

 だれか嫌いな人間いないのか、おまえは
 だれもいないとは誰もいえない
 たとえ、そいつのことを嫌いじゃなくても
 だれかを標的にしないと生きていけないからね

 黙っていることができるところ
 姉さん、あなたはこの世の中で唯一の場所だった
 でも遠いところに行ってしまったね
 いつか、教えてね 死ぬことの意味を


   もう一度会えたらな・・・
   ・・・姉さんに





続く

地下鉄のない街~12 ハーフ&ハーフ

 大変だ。死んだように寝てしまった。

 日付が一日飛んでいる。土曜に姉さん、いやこの家に帰ってくると実感が急に湧かなくなってくるから由紀子ちゃんか・・・由紀子ちゃんと会ったのが土曜日。

 今は月曜の午前7時10分。支度をして会社に出かけないと。



$小説 『音の風景』 同僚や電話でお客さんと話をしていてもどこか上の空だった。午前中はあっという間に過ぎた。

「おい君島、なんだか疲れてるな」

 昼休みに直前に神田先輩が話しかけてくれた。

「気分転換に、飯でも食いに行かないか」

「ああ、神田さん。そろそろお昼ですね」

「10分前だけど、出るか」

「はい」

「じゃ、行こう」




 行きつけの定食屋は、12時前だったのですいていた。テーブル席に座ったぼくは、朦朧とする頭の中で何も考えずに土曜日の話をし始めた。相手が神田先輩だっという安心感もあったのだと思う。

「最近変なんですよ」

「税理士試験の勉強で疲れてるだろ。見てて分かるよ」

「ああ、それもそうなんですけど、工場は消えてしまうし、地下鉄も時々なくなる。女性のチャット友達とこの間会ったんですけど、自分は僕の姉だっていうしなあ」

 先輩はカキフライ定食のカキを次々と口に放り込みながら吹き出しそうになった。

「おいおい、大丈夫か、もう少し受験勉強のペース落としたら、はははは。試験に落ちたらしゃれにならないけどな」

「そうですねちょっと根を詰めすぎたかもしれませんね。」




 ぼくは冷静になって話を切り出そうと思った。

「でも不思議なんですよね」

「何が?」

「そのチャット友達のおんなのこ、確かに死んだ姉さんにそっくりなんです。家に帰ってきてからも写真で確認したんですけど、まるで同一人物なんです」

「まあ、他人の空似ってことはよくあることだからな」

 神田さんは定食の野菜をほおばりながらちらっとこっちをみた。

「そうなんですけど、そういえば、しゃべり方とか、目のあてかたとかもそっくりだなあ。しかも、健太郎という僕の名前も知っていたし、他にも色々としゃべってないことまで知ってたんですよね」

 神田さんは、曖昧に微笑みながら、年上の顔で優しく答えてくれた。

「君のお姉さんだったら、もう随分な年だぜ。いくつくらいの人?」

「まだ17歳だそうです」

 ぼくもおかしなこといっていると思いながら、言ってみた。

 案の定回りに聞こえるくらいの声で笑われてしまった。

「ありえねーよ。なにいってるの。からかわれているんだよ。ははは。34歳の君島に17歳の姉さんね。こいつはまあすばらしいファンタジーってやつだな」

 僕もつられて笑った。すっと土曜日のことが非現実の世界に遠のいたようだった。





「そうですよねえ。からかわれているんですかね」

「当たり前だ。はははは。今はどこからどういう個人情報が漏れるかわかったもんじゃないさ。お前の下の名前だってどこか他に書いた情報をどうもお前らしいと特定して当てずっぽうで言ったことだって十分ありえるし、お前占い師のテクニックのコールドリーディングって知ってるか?言葉の端々からかまをかけて情報聞きだして、さも自分は最初から何でも知っていたかのように思わせるテクニックだってかなり確立されてるそうだぜ。大方そんなところだろう」

 あの日の現実を失いたくはなかったけれど、先輩にそう言われてみればそういうことだって十分なあるだろう。僕は客観的にそう考えられる自分も認めざるを得なかった。

「今度の土曜日もう一度会うんです」

「そうか、まあ、気分転換にいいじゃないか」

「ええ。そうですね。」




まだ休憩時間があったので、お茶を飲みながら雑談をした。

「ところでさ、由貴ちゃんとどうなってるの」

「進展ありません」

「もしかして、そのチャット女の子のことが気になるのか」

「少し」

「ははは。勉強疲れだな。現実世界の大切な人を一番大事にしないとな」

「はい」

「まあ、昼間は淡々と仕事こなして、夜は受験勉強。謎の女子高生はその次だね」

「そうですね」

「よし、そろそろ会社戻ろう」

「はい」





 戻るところ、どこなんだろうそれは。

 いい。そんなことは。

 今はとにかく会社に戻る時間だ。



 淡々と業務をこなすこと。そして試験勉強をすること、そして彼女と会うこと。



 神田先輩のおかげで現実と非現実はちょうど半分ずつのバランスになった。




続く

地下鉄のない街~13 会社での出来事

 ああ、しかし大変な一週間だったな。

 気をとり直してそろそろ出かける支度をしないとあの子とのデートに遅れちゃう。



 窓の外ではまた季節はずれの蝉の鳴き声がしている。

 神田から蝉が呼んでいるような気がした。

 僕は普段着にごく簡単に身づくろいをしてとりあえず駅に向かった。



 この一週間は夜のチャットの時間もあまり取れなかった。

 この一週間でまた僕の会社での立場は壊滅的にひどくなってしまった。

 商店街を抜けて駅まで抜ける道すがら、一週間のことがぼんやりと頭をよぎる。




「いったいお前は何をやっているんだ」

 この言葉が課長からだったら別になんとも思わない。

 しかし呆れ顔でこういったのは、車内での唯一の僕の理解者の神田先輩だった。



「こうする仕方なかったんです」

「しかしなあ、結局お前後輩に思いっきり裏切られたわけだろ」

 僕はただ頷いた。

 半径数メートルしか自分の領域を作って来なかった僕にとって、自分の会社がコンピュータシステムの開発をやっていることなどどうでもよかった。

 ただ、営業からの伝票を受け取って振替伝票にしたり、月末に発注伝票などと照らし合わせたりというのが僕の仕事であって、それは別にコンピュータのシステムでなくてもなんでもよかった。

「岸本のやつ前にもノルマ達成のために架空の受注伝票作って会社クビになりかけたのは知ってるよな」

「はい。ぼくの前任者から引き継ぎの時に聞いてました。要注意人物だから経理の処理はルール通り厳格にって」

 以前、一つ後輩の岸本が2年がかかりくらいの大きなシステムの開発を取引先と共謀して受注したことにし、それが発覚して大騒ぎになった事件があった。岸田は架空受注で会社のノルマを達成し、架空発注をした会社は決算ぎりぎりに手付金をうちの会社に振り込むことで脱税をしようとしたらしい。経済誌にも事件の記事が載った。

「オレは信じてるけど、お前もぐるになって今回また似たようなことをやったってことで課長は上に報告したそうだぜ。」

「はい」

$小説 『音の風景』





「岸本になんか弱みでも握られてるのか」

 神田先輩は怒りの表情を少し引っ込めて心配そうな顔で訊いてきてくれたけど、僕は首を横に振ることしか出来なかった。






続く
ゆっきー
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