大人のピアノ そのはちじゅうよん 幽霊との戦い
「潰すってどうやって…」
武志はやっとのことで口を開いた。
「うん…それがな、具体的にはまだ分からねえんだ」
藤井はあっさりそう言った。一瞬武志の張り詰めた緊張の糸がふわりと緩んだが、苦渋に満ちた藤井の顔を見るとその糸を再び手で手繰り寄せてピンと張っておかねばならないと感じた。
藤井は苦しそうに言葉を続けた。
「幽霊に勝つにはどうしたらいいか…。極道は良くも悪くも身分が割れてる。ワルはワルの社会の仁義ってもので犯した罪や不義理にはけじめをつけなくちゃならねえ。しかしあいつらはそのけじめってものがはなっからねえわけだ。一番最初が嘘から始まっている。自分から始まってねえわけだ。中国マフィアも日本は旅の恥のかき捨てじゃねえが他所からきてしくじったら、大陸に逃亡すればいい。半グレどもはやることは暴力団並だが対外的な仁義もへったくれもねえ。都合が悪くなりゃバックれちまって恥じるところもねえ。幽霊にされちまった暴力団員は一番わかりやすい。最初っから戸籍もなけりゃ整形して顔も失っている。」
「戦いようがない…っていことですよね」
「ああ。ヤクザ組織が解体していって減った分は幽霊になっていく。目に見えない二重底のように世界が分離して行く。あっち側のワルにはやがて警察や国家の力は及ばなくなって行くだろう。警察やこの国は暴対法を使って何かとんでもないことの後押しをしてるんじゃねえかって、そう思うわけよ」
藤井はそこで言葉をつぐんだ。ソファから立ち上がってガラス張りの千葉海神の天守閣から街を見下ろす。
「南方さんは…」武志が南方に尋ねた。
「うん…?なんだ」
「南方さんも何か考えているんですよね」
「ああ、まあな」
「どんな事を考えてるんですか」
「俺もまだ漠然としてるんだが、幽霊に勝つには暴力じゃなくて経済力で勝つしかないと思ってるよ」
「経済力ですか…」
「ああ。結局歌舞伎町爆竹事件の連中も、しのぎさえきちんと出来てればあんなことにはならなかったはずだしな」
「はい」
「地上げの片棒とか借金の取り立てとかカタギの尻拭いで金にするんじゃなくて、自分たちが何かできないといけないだろうと思ってる」
「具体的には何かお考えがあるんですか」
「ああ」
「それは…」
「まだ言えない」
南方は笑った。自信を秘めた笑いに見えた。
「こいつはよ、何か多分途方もないこと考えてるんだろう。俺にも秘密だときてる。まあ、いいさ。無理に聞いたとしても俺の頭じゃ理解できねえような気がするしな」
藤井はそう言って武志ににやりとした。
「ああ、もうめんどくせえな」
藤井は再びソファに座り直して武志顔を正面から見た。
「もういい、武志」
武志は藤井の次の言葉を待った。
「今すぐお前にどうこうして欲しいわけじゃねえ。半分は本気で誘ってはみたが、やっぱりお前は極道には向かないだろう。このやりとりでよく分かったよ。うちの組みで預かるという話ももういい。うちの連中には南方との間で話がついたってことにする。あとの詳しいことはお前は知らなくていい」
「でも…」
「まあ、いいさ。幽霊戦うには多分いろんな方法があるんだろう。おめえもずっと南方のところにいるというわけでもないんだろう。どんな道に行ったとしても、今日俺と南方がおめえみてえな若造に熱く語っちまったことを忘れてくれなければそれでいいさ」
「それでいいんですか」
武志は藤井と南方の両方を見た。二人は頷いた。
「頭の悪い俺はな、おめえも南方巻き込まずに具体的に一つ考えていることがあるのさ」
藤井はそう言って武志見た。今度は南方が苦渋に満ちた顔をした。
おめえにそれを見せてやろう。対照的に藤井の声は明るくなっていた。藤井は天守閣の角にある内線電話のところに歩いて行って受話器をあげた。
「おう、三浦か。話はついた。おめえ不満はあるかもしれねえがこれで決着だ。指詰めも腕落としもなしだ。おめえが組みの若い者に言って納めておけ。分かったな。ああ、それでいい」
藤井が若頭の三浦に指示している声を南方と武志は黙って聞いていた。
「それとな、上の天守閣まで弾薬庫の鍵もってこい。ああ、そうだ。武志に俺が何を考えているか教えてやろうと思ってな」
藤井高笑いが聞こえた。天守閣こだまする領主藤井の声聞きながら、南方の顔にはさらに苦悩の色が滲んだ。
続く
大人のピアノ そのはちじゅうご 弾薬庫
数分後、三浦が武志たちも通った細い階段を登ってきた。
「おう、ご苦労さん。そういうわけで武志のことはもうええ」
藤井は三浦から弾薬庫の重厚な鍵を受け取りながらそう言った。三浦はなおも不満そうな顔を武志に向けた。
その時藤井がつぶやくように弱々しく「もういい。タケシという名前に俺は弱いのかもしれん」と口にした。
武闘派の三浦の顔は一瞬複雑に歪み、そして藤井に対して悲痛ともいえる目をした。
「まあ、ええわな。そんな目で見るな。おう、お前も久しぶりに弾薬庫一緒に行こうか」
「はい」三浦は静かに頷いた。
もう一人のタケシ…?自分の他に武志という名前をもった人間が藤井の周りにいる?武志は状況が飲み込めず南方の方を向いた。南方は苦い顔を武志によこしたがその目はやはり藤井に対して三浦が投げかけたような悲しみを含んだものだった。
「何のことか分からんだろ」
気配を読んでいた藤井が武志に語りかけた。
「はい」
「南方の口からはちょっと言いづらいことかも知れんな。タケシっていうのは今話に出た幽霊でも何でもない。俺の一人息子の名前だ。漢字は…まあ、そんなことはどうでもいい。もう済んだことだ」
鍵の束を受け取った藤井は鍵をじゃらつかせながら言った。
「済んだ…といいますと…」
「先月死んだ」藤井は短く感情を込めずに反応した。
「……」
「コカイン中毒でな。浦安のホテルの一室で注射器片手に死によった」
「……」
「…と警察は言っとるが、実は警察に殺されたんだ」
「え…。」
武志はめまいを気力で抑えながら話の展開に必死でついて行こうとした。
「タケシには今から行く武器弾薬庫の責任者やらせとったんだ。まあそこに行って話の続きでも聞かせたろか」
藤井はそう言うと立ち上がって階段を降り始めた。
三浦と南方は事情を全て知っていると見えて沈痛な面持ちのまま一言も言葉を発せず、藤井の後に倣った。武志も立ち上がって後ろからまた階段を降りてた。
踊り場を右に折れた時に垣間見た藤井の表情はヤクザの長の顔ではなく、息子を失った初老の父親のそれだった。
つづく
大人のピアノ そのはちじゅうろく 警察公認拳銃摘発システム
「ここだ」
藤井が振り返って武志に笑いかけ、鍵穴に鍵をさす。横にいる三浦がコンサートホールの防音扉のような分厚いドアを開ける。入り口の照明スイッチを点灯する音がすると、目の前に広がった光景に武志は度肝を抜かれた。
地下弾薬庫というと薄暗いカビの臭いのする背徳的な小部屋を想像していたのだが、そこは入り口の印象そのまま広さも天井の高さもコンサートホールのようだった。奥行きは五十メートルはある。左手ホールの舞台にあたる場所には刑事ドラマで見た射撃訓練場の人型の的が並んでいた。右手にはカウンターがありそこから標的を狙うのだろう。カウンターから標的までの距離は約百メートル。天井はフィットネスクラブのプールのような高さがあった。
コンサートホールと違っているのは客席の椅子がなく、舞台に向かった傾斜はなくて地面は全てフラットでコンクリートの打ちっぱなしであることだった。藤井、三浦、南方、武志はカツーンカツーンという四人の革靴の残響が天井付近で混じり合う射撃場を対角線上に横断した。
藤井が鍵束から別の鍵を選んでPAルームのような部屋に入ると、そこにはありとあらゆる銃器が並んでいた。やはり弾薬庫というカビ臭いイメージはなく、大きなガンショップのようだった。
木製の棚に整然と立てかけられた数百丁のライフル銃、コート掛けに吊るされた使用されているアーミーチョッキ、巨大なテーブルに銃口を一方向に揃えてずらっと並べられたマシンガンとショットガン。
藤井がまた別の鍵を使って開けたキャビネットには高さ50センチ、長さ80センチほどの木箱があり、三浦が箱を開けて見せると中にはぎっしりと拳銃が詰め込まれていた。その木箱が五列に分けて8個ほど積み上げられており、キャビネットは壁一面に12あった。木箱一つに拳銃が50丁あるとして、拳銃だけで二万丁…
「なあ、まるで銃器のデパートだろ。あの奥にはパトカーを一発で爆発炎上させることができる迫撃砲やロケットランチャーも数十台あるぜ。桜の大紋のヘリを落とせる移動型地対空ミサイル発射台も六基ある」
藤井が上機嫌でそう言った。
「はい…」
武志はようやくそれだけ口にした。
拳銃を実際に見るのも初めてだった。しかもたったひとつの銃弾で人を死に至らしめる凶器がこれほどまでに一つの場所に充満している。それは息苦しさとともに、一生かかっても使い切れない札束や金塊、一晩で抱ききれない美女のようなある種の肉体的な快楽感を武志に与えた。
「これだけの武器が一箇所に集まってるのは日本では自衛隊の基地以外にはここだけだ。ああ、あと警視庁の押収された武器弾薬保管庫はこんな感じらしいな、桜田門の警視庁庁舎の地下にあるらしい。現職の刑事がそんなこと言ってたな」
藤井がそう言うと一瞬三浦の顔に緊張が走った。武志も今の藤井の「刑事がそう言ってた」という言葉引っかかりを感じた。
「三浦、いいんだ。武志にはそいつも話そうかと思ってる。俺は警察に殺された息子のタケシをこの武志に見てるのかも知れない…。それでこいつには甘いのかも知れないな」
藤井がそう言うと、三浦はまたあの沈痛な面持ちで頷くようにして視線を床に落とした。
「警察公認なんだよ、この弾薬庫はな」
「ええ!?」武志は頭の中が真っ白になった。
「もっとも国家公安の警察組織公認というわけじゃあもちろんない」
南方も三浦も無言だった。
「千葉県警の生活安全部銃器対策課を裏窓口として全国の現場の警察署がお得意様なんだよ」
「え…、地方の警察署が自分たちの銃をここから買ってるんですか」
「あほかお前は、そんなわけないだろが。そうじゃなくて首なし拳銃だ」
「首なし拳銃…」
武志はその不気味な言葉に背筋に冷たいものが走る気がした。
「ああ。誰が持ってたかは分からねえが、持ち主不明のまま押収された拳銃のことをサツではそういう隠語で呼んでる」
「…はい」
「ピンとこねえか」
「はい。いえ、分かりません」
「警察官にも厳しいノルマというのがあるのは一般企業のサラリーマンと同じだ。分かるな」
「はい、なんとなく」
「出世する警官は押収する銃器の量も同僚より抜きん出てないといけないわけだ」
「あ!まさか…」
「分かったかい。警察官だって金がなくてもどうしても金が必要ならサラ金に行く。それと同じでノルマに追い詰められた銃器対策の警官はサラ金で金を借りる代わりに、ここに来るってわけだ」
「そんなことが…」
「ああ。恩を売るという貸しでトカレフを渡してやることもあるし、警察の裏金で取引、つまりお買い上げいただく場合もある。ひどい県警になると上司と一緒にグルになって、県警が押収した覚せい剤を代金がわりに物々交換してるところもある。みんなそれぞれ地元に持ち帰って、適当に暴力団事務所にから発見されたことにしてノルマを果たしてるってわけさ。世も末だな」
藤井は面白そうに高笑いをした。藤井の哄笑は開け放たれた弾薬ルームを抜けホールのような射撃場の天井でこだました。
「…でもそんな警察庁全体がひっくり返るような大スキャンダルが公になったら…」
「そうさ。あいつらはだから俺たちに頭が上がらない。俺たちを利用してるつもりがいつの間にか組織ぐるみでもう後戻りできな深みにはまっているわけだ。もっとも俺たちとしては最初っからそのつもりで警察全体を嵌めたわけだけどな…。取引履歴もパソコンに全て記録されてる。銃の型番もバッチリだ。裁判沙汰になれば押収したはずの首なし拳銃と取引データにある拳銃の型番が一致というわけだな。警察が何をやってたかは自動的に白日の元にさらされる」
藤井の言葉に三浦と南方も薄く笑った。武志は直接的な暴力とはまた別の暴力団の恐ろしさを感じて身震いした。
「大丈夫なんですか…」
思わず口にすると、藤井が笑うのをやめた。
「大丈夫じゃねえよ。だからこの部門の最高責任者のタケシは、行き違いからサツにシャブ漬けにされて殺されたんだ」
藤井は血走った目でテーブルに置いてあった機関銃の一つを肩にかかえてドアまで小走りに走ると、ドアを開け放ち、射撃場の人形の標的に向けて機関銃を乱射した。
殺人の匂いのする硝煙が弾薬ルームの中にも入り込んできて武志に鼻腔をきつく刺激した。
「警察官全員皆殺しだあ!この弾薬庫の全弾をてめえらにぶち込んでやる」
機関銃の発射音が消えた後、藤井の狂気を帯びた大音声が天井に何重にも谺した。
残響が消えた後、今度は藤井の愉快そうな朗らかな笑い声が聞こえてきて、武志は自分の膝が音を立てて震えるのを抑えきれなかった。
つづく
大人のピアノ そのはちじゅうなな 藤井の長男の末路
「おめえも撃ってみるか、武志」
ドア越しに藤井の声が聞こえた。
「いえ、僕は…」
「ふん。まあいいだろう」藤井はそう言ってまた弾薬ルームに入ってきた。
「息子はな、もともとカタギだったんだよ。カタギの普通の商社マンだった。俺との関係は普通の親子だった。あいつはこの稼業には子供の頃から自分から一線を引いててな、家がこういう家だっていうことは運命として諦めるけれど自分からは関わらないっていうスタンスだったんだよ」
弾丸が空になった機関銃をテーブルに無造作に投げ出し、藤井が椅子にドスっと座って武志に話し始めた。
「それがどうして…」
「ああ、会社でも聞いてる限りじゃそこそこうまく行ってたようなんだがな。誰でも名前を知ってる総合商社だ。そこで史上最年少課長だかで頑張ってたんだがな。ある日『オヤジ、この会社はヤクザだ。いやヤクザより遥かにタチが悪い。人間のやることじゃねえ』そう言って辞表を出しやがった」
「理由は…」
「いや、結局理由は詳しくは言わなかった。あいつだって入社数年のガキってわけじゃなかった。課長になるまでにはそれなりに裏も表も使い分けてやってきたはずだし、何より生まれ育ったこの家で裏稼業のエグいやり方もチラチラ垣間見てるはずなんだ」
「はい」
「俺は言ってみたよ、冗談半分でな。じゃあうちの仕事やってみるかって」
「それでこの仕事を…」
「ああ。この警察を嵌めた銃器供給システムあいつが作り上げたのもあいつだ。それまでは必要最小限のチャカしか藤井組にはなかったんだがな。あいつが全国の都道府県警に営業かけてお得意様を開拓したってわけだ」
「営業…」
「ああ。お前も随分悪だなあって言ってみたんだが『いや、前の会社でやってたことこれに比べたらかわいいもんだよ』って笑ってたな」
「…そうなんですか」
「ああ。それでも子供の頃からこの稼業に一線引いてきたのも、あいつには何処か優しいというか、甘いというか、そういう自分があったからだと思う」
「甘い…?」
「そう。武志、おめえみたいにだ」
「……」
藤井はどこが甘いということはそれ以上口にしなかったが、武志を苦笑混じりの柔和な目で眺めた。穏やかな表情はおそらく普段藤井が息子に注いでいた視線だったことを想像させるものだった。
「そこを百戦錬磨の警官付け込まれたんだ」
「…はい」
「エスされちまった」
「エス?」
「ああ。スパイのSだ」
藤井は苛立ちのこもった目でテーブルの機関銃を弄んだ。
つづく