大人のピアノ

大人のピアノ そのろくじゅうなな 洗脳反省文

「なんかすごい話になっちゃたのね。実際そういうことがあったの?その…先生たちが」

 コーヒーを置き、沈鬱な表情でなつみ訊いた。



「いっくんがそう言うのも、たぶんクラスのほとんどの生徒はあまり違和感なかったかもしれないわ」

「じゃあ、やっぱり…。でもいったいどんなことだったの?」

「先生がいじめを見て見ぬ振りというのもあってはいけないことだけど、もうちょっと陰湿なことやってたかな」

「先生たちが?」

「そう。いじめが起きるとね、その先生はクラス全員にいつも反省文を書かせていたのよ」

「それはありそうな…というかそれがどうして精神的にその転校した子を追い詰めることに?」

「その反省文そのものがいじめ隠しというか、もっと悪くいうと生徒を洗脳するようなことだったの」

「洗脳…」

 母親はコーヒーを飲み干し、再び応接室でのいっくんとの話を始めた。







「教頭先生はうちのクラスの名物の反省文をご存知ですか」

 伊佐夫は二人の教師に視線を遣ったあと、教頭に言った。二人の教師の顔に警戒する表情が浮かんだ。

「名物…か。生活指導の先生からの報告書で生徒からの代表的な反省文というのはいつも上がってきているからそれには目を通しているよ」

「失礼ですが実際にお読みになるのですか」

「もちろんだとも。あのK君の場合には添付されていたものだけでなく、先生に言ってその他すべての生徒の反省文にも目を通したよ。しかし…確か君に名前のものはなかったと思う」



 伊佐夫の質問に即答した教頭の言葉に慶子は驚いた。教頭もまた担任や生活指導の教師とぐるだと漠然と思っていたからだった。



「はい。ないはずです。ここにいる笹川慶子さんのものもなかったはずです」

「うむ。そういえば全員分はなかった。君はいろんな意味で目立つ生徒だから君の名を探してみたんだがなかったな。笹川さんのものも確かなかったよ」

 伊佐夫は「はい」と小さく頷いた。

「あの名物反省文は三つに別れてるんですよ。ひとつは生徒が書いたものをそのまま教頭先生が目にするグループ。もう一つは何度も書き直しをやらされた後のグループ。そしてもう一つが笹川さんの書いたもののように訂正させても最終的に担任の先生が気に入らなくて破棄されたり、僕のように最初から拒否して書かない、つまり存在しないグループです」

「おい、いい加減なことをいうなよ!」「お前は一体何を証拠にそんなことをいう!」

 担任と生活指導の教師の教師は顔色を変えて伊佐夫の言葉を遮ろうとした。




「静かにしなさい」教頭が二人の教師の声をぴしりと制した。

「つまり君は、ここにいる二人が自分たちの都合の良い反省文を書かせて私に読ませているということを言いたいのかね」

「そうです。K君のこともクラスで問題になるたびに名物反省文を書かされました。それをホームルームの時間にみんなの前で読まされるんです。『K君は積極性がないのでいつもクラスの雰囲気を悪くしています』とか『自分ができないにもかかわらず、自分がいじめを受けているという作り話をして同情をひこうとしていますが、あれはいけないとおもいます』とか、そんなのですね」

「それは事実ではないと…」

「そういう作文が出来上がるまで何度もやり直しをさせるんです」

「ほう…事実かね、それは」



 教頭は二人の教師に問いただそうとしたが、教師たちは教頭の視線をそらし、伊佐夫にすさまじい憎しみの目を向けた。





つづく

大人のピアノ そのろくじゅうはち やったのは僕です

「転校のいきさつは、いじめられたと被害妄想を感じていたK君がクラスの友達六人に怪我を負わせて、その責任をとってという事だった」

 教頭は確認するように伊佐夫に語りかけた。

「Kにそんなことはできません」

 ところが伊佐夫は教頭の目を見て言下に静かに言った。

「どういうことかね」

 応接室に異様な空気がさっと流れた。




「Kはいつも集団であの六人にいじめられていました。休み時間や体育などの教室外の授業では必ず六人が輪になってKを囲むようにしていました」

「うむ。その六人に逆に暴行をするなど無理だということかね」

「はい」

 教頭は生活指導の教師を呼び、何かを小声で指示した。程なく戻ってきた教師は手に書類を抱えていた。

「あの事件の記録をみると、K君は六人を文字通り半殺しの状態にしたようだ。しかも何か武器を使ったというのではなくて、素手で。おや…」

 教頭は老眼鏡を掛け直して、書類のある箇所に顔を近づけた。

「六人は左右の腕を折られ、十本の指もまた骨折させられていたとある。腕が六人分で十二本。指も六人分で六十本か…。確かに君がいうように素人には無理だな」

 伊佐夫を見る教頭の目が変わった。

「それに、この負傷の仕方はどこかで見たことがあるよ」

「はい」

「君がやったのかね、K君ではなくて」

「僕がやりました」

 教頭、生活指導の教師、担任、伊佐夫の両親、慶子の両親はそれぞれに無言だった。

「君は知ってたのかね」教頭は慶子に訊いた。



 大変な展開になってしまった。慶子はそう思いながら伊佐夫を見た。伊佐夫の目は「安心しろ」と慶子に語っていた。伊佐夫に何か考えがある、そう思った慶子は教頭に向き直った。

「知ってました。K君から相談を受けて伊佐夫君をいれて三人で話しました。」

「どんな相談かね」教頭の顔に緊張の色が浮かんだ。





「このままじゃあの六人と先生たちに殺される。暴力事件を起こしたということにして転校したい。力を貸してくれって言われました」

 当時のことを思い出して話をする慶子の声はわずかに震えた。


 生活指導の教師の顔は蒼白になり、担任教師はハンカチで額の汗を拭った。





つづく

大人のピアノ そのろくじゅうきゅう 仕切り直し

「つまりこういうことかね。K君は…そうした言葉を本当に使ったとしてだが…クラスのいじめと担任と生活指導の教師によるその幇助によって『殺される』と言いたくなる程追い詰められていた。そこから逃れるために自らが暴力事件を起こしその問題行動によって転校するしかないと思いつめ、それを君たちに相談した。そして君はK君に替わって六人に暴力的制裁を加えたが、それを実行したのはK君であると口裏を合わせることを六人に要求し、六人は何らかの理由、例えばもうこれ以上君が制裁を加えないなどの条件でそれを飲み込んだ。」

 教頭は話しながら言葉を組み立て、確認するように伊佐夫に語りかけた。

「その通りです」

「ふむ…。ここにいる二人の教師はそれを知っていたのかね?」

 二人は慌てて口を開こうとしたが、教頭に「君たちには聞いていない」と鋭い口調で遮られた。

「はい。知っていたと思います」

 二人の教師は教頭と視線を合わさないようにうなだれた。




「ふむ…。これは大問題になってしまった。今回のことについてあれこれ議論する前に片付けなくてはならない事が明らかになったようだ。」

 教頭は軽くため息をついた。

「いつものパターンになると思ったんです。あの六人がここにいる笹川慶子さんに陰に陽にちょっかいを出す。問題になりそうになると、そういう事実を隠蔽するために先生たちが茶番の反省文書かせて何事もなかったかのようにしてしまう」

「この二人の教師はすべてそういうことを知った上で事実を隠そうとしてきたと…?」

「先生たちはすべて知っていたと思います。そういう反省文を書かせる一方で、後で僕を呼び出して『Kのこと頼んだぞ』って耳打ちするように言ってきたりしました。時々みるに見兼ねて僕があの六人を暴力で締め上げたあとのことです。先生たちは僕の暴力もまたうまく利用しようとしていたんではないでしょうか」




 しばらく重苦しい沈黙があった。

「こうしたことを、ご両親はお子様からお聞きになったことはございますか」

 伊佐夫と慶子の両親に向かって教頭が尋ねた。慶子の両親は直ちに首を振ったが、伊佐夫の両親、特に父親はじっと伊佐夫の顔を見たあとにゆっくりと「ありません」と答えた。その様子は少なくとも父親はある程度のことを息子から聞いて知っているようにも見えた。




「本日は一人の女子生徒をからかった生徒に対して、同じクラスの男子生徒が振るった暴力関する問題を話し合うためにお集まりいただいたのですが、どうもその前に我々学校サイドでその背景の事実関係を含めて問題を整理する必要があったようです」

 渋面を二人の教師に向けたあと、教頭は二組の家庭に対して言った。



「せっかくお集まりいただいたのに恐縮なのですが、本日予定していた話し合いは後日再度話し合うということでご了承いただけますでしょうか」

 伊佐夫の両親、慶子の両親は頷いた。

 尻切れとんぼになってしまった伊佐夫の暴力事件はこうしていったんペンディングとなった。






「こんな感じだったのよ」

 話し終わると母親の慶子は冷えかかったコーヒーを飲み干した。なつみがおかわりは?と目で尋ね、母親はそれに頷きなつみがサイフォンのコーヒーを温め直す。

「どうなったの?そのあと…」なつみがコーヒーを淹れながら尋ねた。

「取り合えず、学校からまた何か連絡があったらということでいっくんとあたしの親たちは帰って行ったわ。あたしたちは…」

「お母様たちは?」

「いっくんが『サボっちゃおうぜ』って言ったから、そのまま教室に戻らずに屋上に行ったの」

「あらら、ずいぶん不良なお母様ですこと」

 なつみはわざとらしく母親をからかった。

「そうよ」

 母親は笑いながら話を続けた。




つづく

大人のピアノ そのななじゅう 自分が最初についた嘘

「なあ、慶ちゃん」

「うん」

 屋上をに出ると、校舎を吹き抜ける風は意外に強かった。もっとも伊佐夫は五分刈りに近い短髪に学生服だったので、顔にかかる風を一瞬うるさそうに右手で遮っただけだった。慶子はスカートがひるがえりそうになるのを膝もとで食い止めながら、フェンスまで歩いて行く伊佐夫に従った。

「あかんな、うまくいかん」

 伊佐夫は屋上のフェンス右肘を置き、それを腕枕にするよう顎を乗せて言った。フェンスは慶子顎あたりだったので、慶子はフェンスを背にしてもたれかかり顔を伊佐夫の方に向けた。

「あかんて、なにが。あかんことだらけでどれのことかわからへんわ」




 白い歯をこぼして慶子が楽しそうに聞く。自分の家、笹川家には無縁のあかんこと、悪いことが伊佐夫周りにはごく普通にあるような気がした。しかし慶子は伊佐夫周りのそのあかんことには不思議と不快な忌み嫌うような匂いは感じなかった。

 伊佐夫がいう「あかんこと」と「悪いこと」には明確な区別があったように慶子は感じていた。「悪いこと」は伊佐夫が暴力を持ってで阻止しようとする、例えばあの六人組の陰湿ないじめのようなことだった。「あかんこと」を伊佐夫は、「しょうがないこと」といったニュアンスを込めて使っていた。


「Kのときも結局暴力では最終的に解決出来んかった。あいつはええやつやったで。転校なんかせえへんでもええような手がもしかしたらあったかもしれん」

「うん。でも…」

「せやな。慶ちゃんが俺のところにKが俺が六人組締め上げてそれ自分が引き起こした事にしてってシナリオ相談した時には、もう遅かったんや」

「うん。あかんかった」

「そう、どうにもならんかったわ。あのまま卒業まで陰湿ないじめに耐えられたかどうか、それこそこのフェンスからKが飛び降りるなんてこともありえない話やなかったと思うわ」

 慶子は自分の顎の高さのフェンスをKが乗り越えようとする姿を想像した。その想像は突拍子もない空想ではなかった。



「あの、先生がクラスのみんなを、なんていうのかな自分から自発的に書かせる反省文がいけないと思う」

「そや、あれや諸悪の根源は。悪いことやであれは。あれは洗脳と一緒や。担任に都合のいいようにKを悪者にして、なおかつそれを教師から押し付けるんじゃなくて自分で書かせて自分の意見としてクラスで発表させる。いつの間にか教師が思う通りの空気がクラスを支配するわけや。」

「うん」

「みんな一つのことを信じ込まされて、最初についた自分の嘘を忘れてしまうんや。そしていつの間にかもともとクラスに溶け込めなかったKが悪者だったように日常生活が作られて行く」

「やだよね。そういうのって」

「そやな。裸の王様のお話や」

「裸の王様?」

「そや」

「なんで裸の王様話なん?」

「それはな…」

 伊佐夫はフェンスに乗せた腕を降ろし、慶子同じようにフェンスに背中を付けて話し始めた。






「ねえ…『裸の王様』の話ってお父様がよくあたしと武志に聞かせようとした…」

「そうよ。あなたのお父様があなたたちに話をしようとしていたこと、それと同じことをあたしは中学生の時いっくんから聞いたの、屋上で。あなたのお父様と結婚してあなたたちが生まれて、あの人がある時あなたたちに『裸の王様』話をしようとしたドアのには驚いたわ」

「全く偶然だったのね」

「そう。全く偶然。しいて言えば初恋のいっくんも結婚したあなたのお父様も、あたしが好きになった人だということね。」

「でも、なんでお父様があたしたちにその話をしようとした時、聞かせないようにしようとしたの?」



 なつみの問いかけは自然なものだった。確かに父親の『裸の王様』の解釈は子供が聞いても混乱しそうな深い話だった。しかし母にとってとても意味のある偶然、自分が愛した男が二人までも偶然にその話を大事にしていることをどうして自分の子供に聞かせようとしなかったのだろう。


「それはね…その後のいっくんの波乱の人生の始まりというかその秘密の核心みたいなものだったから」

「『裸の王様』話が?」

「うん。だから恐かったの、自分の子供がそういう世界に触れるのが…」

「分かったわ。今はもう聞いてもいいのね」

「うん。聞いて欲しい」


 母親はまた話を続けた。





つづく
ゆっきー
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