大人のピアノ

大人のピアノ そのろくじゅうよん いじめと報復

 なつみは母親の次の言葉を待った。

 母親は多分このことを父には話してはいないような気がした。結婚する前の恋の話というにはあまりにも時間がたっていたし中学校時代の話だ。そのことに父が嫉妬の感情を抱くなんてことも考えられなかったが、そういう理由ではなくて、この思い出は母の心の中で何か未解決のままそっと封印されていたもののようになつみには感じられた。



「父の誤解はね、そのあとすぐに解けたのよ。『明日病院に行こう』ってどんどん話を進めようとする父と祖父に、珍しく母親が強い調子で反対したわ。母と二人っきりで話をしたあとに、母の方から祖父と父に『何の問題もありません』と言ってくれてそこは収まったの」

「うん。よかった」

「ところがね…。家の門の前に集まっていたご近所の方や野次馬の人の誰かから、面白おかしく尾ひれがついてうわさが広まるのは母にもどうすることもできなかったわ」

「そっか」

「次の日学校にいくとね、黒板にイラストが書いてあったわ。セリフ付きで右から左に黒板いっぱいに創作漫画みたいにね」

 母親は辛そうな顔で言った。

「……」

「内容は…まあ言わなくても分かるでしょ。うぶな中学生が赤面するようなことよ」

「いっくんは…」

「あたしより少し遅れて同じクラスの教室に入ってきたわ。一瞬で状況を把握したいっくんは、私の方は一切見ずに、黙って黒板を消していった。慌ててじゃなくて、丁寧に間違ったものを当然のように始末するっていう感じで消していった」

「クラスの子はどうしてたの…?」

「一言も誰も何も言わなかったわ。無言で時間をかけて丁寧に黒板を消していくいっくんの後ろ姿が恐ろしかったんだと思う」

「うん」



 その場にはいなかったなつみも、博徒元締めの息子の伊佐夫が静かに不気味に黒板を消して行く様子を想像して身震いしそうになった。



「消し終わると、いっくんは無表情で今消した黒板を背にしてクラスのみんなを見たわ。そして、スタスタと散歩でもするように机の間を抜けて教室の後ろの方の男の子のところに行って止まった」

 その時の様子を思い出して、母親は両の手を自分の上半身の震えを包みこむように交差させた。

「『命令したやつは他におるやろ。とりあえず描いたんはお前やな』そう言ったのを覚えてるわ。」

「…」

「時間にして多分十秒もたってなかっと思う。その子は顔中を血だらけにしていっくんの足元に崩れ落ちた。あとで分かったんだけど、両腕と左右の十本の指が全部折れてたって」

「……。それでどうなったの」

「先生が授業のために入ってきて大事になったわ。その子はとにかく救急車で病院に運ばれた」

「いっくんは…」

「先生に連れていかれたわ。まるで映画の中で親分の身代わりで自首する人みたいに、自分から淡々と事務的に教室の外に出て行った」

「お母様は…」

「自習になった一時間目が終わって呼び出されたわ、職員室の奥の応接室に。びっくりしたのはそこにうちの両親といっくんのご両親が座ってたの。私が部屋に入ってすぐにいっくんも部屋に入ってきたわ。悪びれもせず、やっぱり淡々とした表情だったわ」


 あわい青春の思い出から始まった母親の話は意外な展開になってしまった。なつみは母親が話を続けやすいようにお寿司の桶をシンクに片付け、サイフォンにコーヒーをセットした。




つづく

大人のピアノ そのろくじゅうご 学校呼び出し

「もう、大変だったのよ。応接室での話は…」

「えっと、お母様といっくん、お母様といっくんのご両親と担任の先生…」

「それと、生活指導の先生と教頭先生もいて全部で9人ね」

「応接室も満員ね」

「そう。もともと9人も入るようには作られてないから、教頭先生が上座の一人掛けの椅子で、あたしたち三人といっくん側三人がソファに向かい合う形。担任の先生と生活指導の先生はパイプ椅子持ってきて不機嫌そうに座ってたわ」

 コーヒーを淹れながらなつみは小さく笑った。

「ありがと」と言って母親もソーサーを引き寄せた。




「いっくん大人しくしてたの?」

 さっきの話では、いっくんが教室を出て行く様子はふてぶてしさを通り越して、教師の怒りと狼狽を無視するかのような態度のように聞こえた。

「それが…」

「やっぱり」

 母親が話す前に相槌を打ったなつみのユーモアで、二人は「しょうがないなあ、いっくん」という表情で顔を合わせて笑った。なつみはまるでいっくんという少年に、実際どこかで会ったことがあるような気がした。

「『暴力だけはいかん』生活指導の先生がまず口火を切って担任の先生が『そうだぞ』というところから始まったの」

「うん」

「教頭先生が厳かに頷いて、それを承けた担任の先生がいっくんたち家族に向かって粛々と経緯の説明とお説教を始めようとした時に…」

「何か起きたのね」

 ねこ舌のなつみは、まだ熱いコーヒーにちょこんと口をつけていったんソーサーに戻した。



「『暴力がなんでいかんのですか』いっくんは静かにそう言ったの」

「あらら。いっくんのお父様は?博徒の元締めだからやっぱり暴力肯定なの?」

「あちらのお父様は『息子がまたややこしい話を始めやがった』っていう顔をなさって、お母様はまるで聞こえなかったような顔をしてたわ」

「困ったいっくんだこと…」

 なつみは居並ぶ教師たちの困惑の顔を思い浮かべて笑いをこらえた。




「あたしは同じクラスだからよく知っていたんだけどさ…」

「うん」

「実は『暴力だけはいかん』とか教頭先生の前で言ってた担任の先生も生活指導の先生もなんだけどさ、普段はいっくんのその「暴力」を上手に利用してクラスをまとめたり、教頭先生や校長先生の目に触れない学校の秩序を保とうとしてたの」

「え!どういうこと…?」

「クラスでいじめがあったりするでしょ」

「うん、そっかお母様の時代もあったのよね」

「そう。今に始まったことじゃないわ。表に出ないところで生徒が不登校になったり転校せざるを得なかったり、自殺に発展しちゃうようないじめって今も昔も残念なことだけどどこにもその芽はあると思う」

「悲しいけどそうね」

「うん。そういう教師にはなかなかどうすることもできないいじめなんだけどね、あたしの学校では先生たちはいっくんにそういう実態を把握させたり、解決してもらったりしてたのよ。もっとはっきり言うといっくんの「暴力」をあてにして」

「あれれ、先生たちがいっくんの力を利用してたんだ」

「そうなの。だから本当は先生たちは強いこと言えないわけね。でも教頭先生まで出てくる騒ぎになっちゃったから、教頭先生の手前『暴力だけはいかんぞ』っていうところから話をせざるを得なかった」

「なんか、ずるいね。ずるい大人の見本みたい」

 なつみが愛らしい顔を少し歪めた。

「そうね。いっくんはそういう嫌らしさを応接室に入って一瞬で見抜いて、わざそういうこと言ったわけ」

「いっくんやるなあ、ずるい先生たちよりさらに一枚上手だ」

「そうね…いっくんとしては二人の教師を少しからかってやろうということで、それはそれで良かったんだけど、教頭先生というのがなかなかの人だったの」

「…というと?」

 ねこ舌にも適度な熱さにおさまってきたコーヒーに口をつけながら、なつみが興味深そうに言った。

「教頭先生は、生活指導の先生と担任の先生のバツの悪そうな様子を見て『何かあるな』ということを見抜いたのね」

「さらに上手がいたか」

「そう。『君はなかなか面白いこというな。その君の考えというのをぜひ聞いてみたい』教頭先生がいっくんにそう言ったわ。二人の教師の顔もわざとじっと見ながら」

「あららら。大変なことになりそうな…」

「うん。いっくん次第で応接室に大波乱が起きそうな雰囲気だったわ」





つづく

大人のピアノ そのろくじゅうろく いっくんの弁明

「だいたいね、こんな話だったわ」

 母親の慶子はコーヒーを飲みながら、職員室の様子をなつみに語って聞かせた。




「今回の君の教室での暴力、まあ私的制裁と言っておこうか。それについては君は悪いことだとは思っていないわけだね」

 教頭は伊佐夫に静かに語りかけた。

「はい。思ってません」

 伊佐夫がそう言った瞬間、生活指導の教師と担任の教師が我先にと伊佐夫を非難する言葉を発しようとした。しかし教頭はむしろ怒ったような顔をして二人を制した。教頭に『黙って聞きなさい』という風に首を横に振って言葉を遮られた二人は不承不承頷いて、今度はそのバツの悪さを伊佐夫を睨みつけることに転嫁した。


「では、君に聞いてみたいんだが、暴力には良い暴力と悪い暴力がある、こういうことかね。自分のとった暴力は良い暴力だと、そういうことか」

 教頭は試すような言葉で伊佐夫に訊ねたが、その目はむしろ二人の教師に向けられた目よりも伊佐夫をしっかりと見ていた。

「いえ、そうは思いません。僕はあれが良いことだとも思っていません」伊佐夫は教頭に淀みなく応えた。

「ふむ」

 二人の教師は理解できないといった不機嫌な顔をし、対象的に教頭は"ほう"という表情で伊佐夫を興味深そうに見た。

「僕は暴力には肉体的な暴力の他にも、精神的な暴力もあると思っています」

「ふむ。例えば今回の黒板の落書きのようなものだね」

「はい」

「しかしいきなり怪我を負わせるような制裁はまずいのではないかな」

 教頭の言葉に二人の教師は我が意を得たりとばかりに頷き、憎しみの混じった侮蔑の視線を徳に向けた。

「はい。まずいと思います」

「ほう。では自分の非を認めるかね」

 意外なほどあっさりとした伊佐夫の受け答えに教頭は拍子抜けした様にも見えた。二人の教師はやっと自分たちのペースに伊佐夫が嵌まってきたことに満足した顔をした。

 しかしその直後だった。

「教頭先生は去年転校して行ったK君のことを覚えていますか?」

「K君。いじめを苦にしてというまことに不本意な形で学校を去ってしまった生徒だね。もちろん覚えているとも」

 伊佐夫はここで二人の教師に視線を向けた。二人は伊佐夫の冷徹な目の中に殺意のようなものを感じてたじろいだ。

「Kはこの二人の先生に精神的暴力で殺されかかったんですよ。そのこともご存知ですか」





 応接室は9人の沈黙で支配された。

「どういうことか教えてくれるかね」

 教頭先生は二人の教師を一瞥したあと、柔和な顔を伊佐夫に向けた。






つづく

大人のピアノ そのろくじゅうなな 洗脳反省文

「なんかすごい話になっちゃたのね。実際そういうことがあったの?その…先生たちが」

 コーヒーを置き、沈鬱な表情でなつみ訊いた。



「いっくんがそう言うのも、たぶんクラスのほとんどの生徒はあまり違和感なかったかもしれないわ」

「じゃあ、やっぱり…。でもいったいどんなことだったの?」

「先生がいじめを見て見ぬ振りというのもあってはいけないことだけど、もうちょっと陰湿なことやってたかな」

「先生たちが?」

「そう。いじめが起きるとね、その先生はクラス全員にいつも反省文を書かせていたのよ」

「それはありそうな…というかそれがどうして精神的にその転校した子を追い詰めることに?」

「その反省文そのものがいじめ隠しというか、もっと悪くいうと生徒を洗脳するようなことだったの」

「洗脳…」

 母親はコーヒーを飲み干し、再び応接室でのいっくんとの話を始めた。







「教頭先生はうちのクラスの名物の反省文をご存知ですか」

 伊佐夫は二人の教師に視線を遣ったあと、教頭に言った。二人の教師の顔に警戒する表情が浮かんだ。

「名物…か。生活指導の先生からの報告書で生徒からの代表的な反省文というのはいつも上がってきているからそれには目を通しているよ」

「失礼ですが実際にお読みになるのですか」

「もちろんだとも。あのK君の場合には添付されていたものだけでなく、先生に言ってその他すべての生徒の反省文にも目を通したよ。しかし…確か君に名前のものはなかったと思う」



 伊佐夫の質問に即答した教頭の言葉に慶子は驚いた。教頭もまた担任や生活指導の教師とぐるだと漠然と思っていたからだった。



「はい。ないはずです。ここにいる笹川慶子さんのものもなかったはずです」

「うむ。そういえば全員分はなかった。君はいろんな意味で目立つ生徒だから君の名を探してみたんだがなかったな。笹川さんのものも確かなかったよ」

 伊佐夫は「はい」と小さく頷いた。

「あの名物反省文は三つに別れてるんですよ。ひとつは生徒が書いたものをそのまま教頭先生が目にするグループ。もう一つは何度も書き直しをやらされた後のグループ。そしてもう一つが笹川さんの書いたもののように訂正させても最終的に担任の先生が気に入らなくて破棄されたり、僕のように最初から拒否して書かない、つまり存在しないグループです」

「おい、いい加減なことをいうなよ!」「お前は一体何を証拠にそんなことをいう!」

 担任と生活指導の教師の教師は顔色を変えて伊佐夫の言葉を遮ろうとした。




「静かにしなさい」教頭が二人の教師の声をぴしりと制した。

「つまり君は、ここにいる二人が自分たちの都合の良い反省文を書かせて私に読ませているということを言いたいのかね」

「そうです。K君のこともクラスで問題になるたびに名物反省文を書かされました。それをホームルームの時間にみんなの前で読まされるんです。『K君は積極性がないのでいつもクラスの雰囲気を悪くしています』とか『自分ができないにもかかわらず、自分がいじめを受けているという作り話をして同情をひこうとしていますが、あれはいけないとおもいます』とか、そんなのですね」

「それは事実ではないと…」

「そういう作文が出来上がるまで何度もやり直しをさせるんです」

「ほう…事実かね、それは」



 教頭は二人の教師に問いただそうとしたが、教師たちは教頭の視線をそらし、伊佐夫にすさまじい憎しみの目を向けた。





つづく
ゆっきー
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