大人のピアノ

大人のピアノ そのよんじゅうきゅう 我が友平林君

「しっかしまた大変なことになったものですね」

「ああ」




 ランチ時を避けて1:30に待ち合わせをしたヒカリエの沖縄料理店。篠崎が相槌を打ったのは、営業で渋谷近辺に足を伸ばしていた平林だった。

 ヒカリエがオープンした当初はどの店も長蛇の列だった。行列を作る若者は決まってスマホを取り出しては、ソーシャルゲームをやったりネットの口コミ食べ物サイトなどを見て入店までの時間を潰していた。

 最近では店の混雑度合いにもバラツキが出始め、店のメニューによって夕食時は混み合うとか、ランチは美味しいわりに空いているとかしてきている。道玄坂の巨大オフィスビルに入居している篠崎の務める会社の社員もランチはここでとっている者も多く、篠崎は同じ部内の女の子にオススメの店を確かめてここで平林と待ち合わせた。女の子のいうとおり、この店はコアランチタイムを過ぎると少し落ち着くらしい。

「まあ、今話したとおりなんだけどさ、 まさかオレも自分の娘がヤクザに拉致されるなんていうことが起きるとは思ってもみなかったよね」

 2:00までオーダー可能のランチは「海ぶどう」「ゴーヤチャンプルー」「切り昆布のイリチー」「ラフテー」「ドュル天」などが小皿に盛ってあり、なかなかボリュームがあった。平林も自分と同じランチを注文するものとばかり思っていたのだが、メニューをかなりじっくりと時間をかけて見渡したあと平林はあっさり「ソーキそば大盛り」とメニューを閉じて単品で頼んだので篠崎は拍子抜けした。

 ランチを並べて追加注文でオリオンビールでも軽く飲もうと思っていた篠崎は、テーブルのほとんどが自分の頼んだランチセットで占められてしまい、ソーキそばの大盛りが平林の目の前にポツンとおいてある状態でビールを頼みにくくなってしまった。

「あ、平林さん、オレこんなに食べられないから箸のばして小皿つついてね」

 篠崎がそういうと「いえいえ」と最初はにこやかに遠慮していた平林だったが、そのうち自然と箸がのびてきた。平林の前に運ばれてきたソーキそばの大盛りはたしかに美味しそうに見えた。しかし上に乗った味付け豚肉は大盛りになっておらず、にもかかわず麺はこれでもかというほど大盛りになっていたので、平林もだんだん美味しくても単調な味のソーキそばを口に運ぶのがしんどくなってきたのかもしれなかった。

 篠崎はこれをチャンスとみてさりげなくオリオンビールを追加注文した。

 勤務時間中にビールを飲むという発想のまったくない平林だったが、今日は疲れた表情の篠崎に付き合った。この外回りでお客さんと対面しないといけないシーンはすでにここにくる前に終わっていたので、まあ今日はいいかといったところだ。聞けば篠崎もこの後社に戻って明日からの有給休暇の申請の段取りをして帰るだけだという。



「ただ、お話を聞いていて大きな間違いはなさそうにも思うんですが、やっぱり心配ですよね」

 平林は昼間にしては心なしかグラスの空くピッチの早い篠崎にそう声をかけた。

「うん。やっぱね、昨日一言でも朝子の元気…とはいわなくても声だけでも聞けたら良かったんだけど…」

「無事は無事なんですよね」

「ああ。石橋さんは武志君と朝子を電話口に出させて声を聞いてくれたそうだ」

「どんなだったか言ってましたか?」

「『異常な気配は全く感じられなかった』という答えだったよ」

「痛めつけられてるとかそういうことはなさそうだと」

「ああ。勘違いで拉致した上に武志やお嬢さん、朝子のことね、二人に指一本でも触れたら身内だろうがなんだろうが盃割った上で全面戦争だと伝えたらしい」

 盃割って全面戦争…。平林の脳裏に菅原文太が広島弁で日本刀を振り回しているシーンが浮かんで消えた。

「まさかそれはないですよね。この暴対法の世の中で」

「そう思いたいけど、わからないよ。オレには…」

 当然のことだったが篠崎にはいつものような飄々とした冗談めいたところがほとんどなかった。時々明るく笑おうとするのだが、その笑い顔はすぐに内心の不安にすぅと引き戻されていた。

「篠崎さん、ご自宅で奥さんいる前だとお酒とか飲みにくいでしょ。ここは泡盛でもいっちゃいましょ」

 昼間からアルコールなどということは辞書にないはずの平林だが、篠崎の返事を待たず、平林は沖縄風の割烹着をきたお姉さんに泡盛を頼んだ。
 平日昼から泡盛という客もいないわけではないのだろう。お姉さんは平林の椅子の角にかけてあった伝票をヒョイととりあげ泡盛の追加オーダーを無造作に書き込み、「グラスは?」と普通に聞いてきた。

「二つ」

 おそらく自分は飲まないのだろうが平林は当然のように答えた。篠崎はソーキそば大盛りを頼む平林や飲みもしないのにグラスを二つ要求する平林が何とも言えないほど好きになってしまった。





「実はこの後僕は神田さんと会うんです」

「あ、そうなの?木曜だったら午後休診なんだけど月曜はすでに予約いっぱいで歯医者休めないからってことだったんだよ」

 篠崎は何杯めかの泡盛を飲み干した。

「ええ。それでもすごく会いたがってたみたいで、そのあとこっちに電話かかってきたんです。5:30に午後の診療終わるからそれから篠崎さんの様子がどうだったか聞かせてくれって」

 泡盛のせいもあって篠崎は思わず涙腺が緩んでしまった。

「ありがと、ほんとにありがと。大人のピアノバンザイだよね」

 篠崎は右腕の甲で目頭の涙を拭ったが、一回では拭いきれなかった涙がポタリとテーブルの上に落ちた。

「じゃあ、最後の泡盛あけちゃいましょう」

 平林は篠崎と自分のグラスに残りの小さいボトルの泡盛を注ぎ、乾杯をして自分から飲み干した。

「ご無事をお祈りしています」

「ありがとう」

 最後の泡盛を篠崎は飲み干した。泡盛は熱く食道を通過して篠崎のはらわたに染み渡った。




つづく

大人のピアノ そのごじゅう 藤井組

今回表現の中に一部暴力の描写があります。話の展開に必要な最小限のものではありますが、ご不快の念を抱かれる場合もありますので、その旨ご了承の上お読みくださいませ(ゆっきー)



「藤井の兄貴、お二人を返せないって、それはまたどういう理屈です」

 上背のある30名ほどの屈強な男たちが藤井の左右に整然と立っている。和服を着た藤井と呼ばれた男は黒いフチの眼鏡の茶色がかったた遮光レンズ越しに石橋を凝視している。首筋が異様に太い。その筋肉の付き方はまるで陸上の室伏広治選手を思わせるものがあったが、その体躯が放つ匂いはオリンピア十種競技のフェアプレイの精神などではなく、ドーベルマンのような獰猛な獣のそれであった。

 南方の組が事務所を構える船橋市の市街からほど近い海神という古い街に、およそ1500坪を占有する藤井組の「城」がある。

 海神は東京に本社を持つ有名企業の創業者の自宅や別宅などがあり、千葉県有数の高級住宅街としても知られている。千葉というと東京の人間はすぐにベッドタウンを思い浮かべるが、その歴史は古く、記紀の日本武尊の遠征記にまで遡る。日本武尊が船を使って東方に遠征したことの名残りが船橋、海神という地名に今も残っている。
 80畳はあるかと思われる畳を敷きつめた和室の再奥に藤井は胡座をかいて座っている。その頭上の神棚にも日本武尊が祀ってあった。

「返せないとは言ってないだろう、石橋」

 黙している藤井のすぐ左ににいる藤井組ナンバーツーの三浦が、射抜くような視線を石橋に投げてよこす。武闘派で知られた藤井の懐刀だ。

 今でこそ南方が幹部を務める広域暴力団の外郭団体となっているが、この組の歴史は古い。旧大日本帝国陸軍習志野学校解体跡地に進駐した米軍絡みの闇物資の流通や、街娼、賭博の元締めを一手に引き受けて地力をつけてきた初代藤井組の組長がこの藤井の祖父である。

 一方船橋競馬場付近の新興の繁華街でその後勢力を拡大したのが南方の組織だった。合従連衡を巧みに繰り返し、その過程で蜷川会の盃を受けた南方は立場上は独立独歩の気風を崩さぬ藤井組を監督する立場にいる。しかしそうしたいきさつから藤井組の方では南方組を格下として軽んずる傾向があったのである。



「ではいったい、どうしろというので」

 石橋の横にいる南方が口を開いた。

「ふざけるな!」

 三浦が上座から畳の上を滑るように矢のような速さで駆け下り、正座している南方の顔面に下段回し蹴りを入れた。遠心力のついた丸太のような三浦の右脚が捉えたのは、とっさに南方の前に出た石橋の顔面だった。しんと静まり返った和室の端で石橋が顔を上げ、無造作に畳の上に吐き出した血糊には石橋の歯が数本含まれていた。

「三浦」藤井が静かに上座から声を掛ける。

「はい」三浦が藤井に一礼してもとの位置に戻った。



 石橋が三浦の回し蹴りを顔面で受けたのは身を呈した究極の判断だった。阿吽の呼吸で藤井の意を汲み、藤井の代理として南方を攻撃した三浦に対して反撃したり攻撃を防御したりするのは、即ち藤井に対してこの場で宣戦を布告したのと同じになるからだ。
 かと言って親である南方が三浦の回し蹴りを顔面で受けることは阻止しなくてはならない。そこで藤井の代理で攻撃をかけた三浦に対し石橋は代理であえて無防備の顔面を差し出した。口の中のものをわざと畳の上に吐き出したのは、こうした気概をその場の藤井組の者たちと藤井本人に対して見せるためであった。

 藤井が三浦を静かに呼び戻したことで、その真意は藤井に伝わったと判断して良かった。

「痛いか、石橋」

 藤井が声をかけた。石橋は無言で身じろぎもしなかった。

「痛いだろうなあ。俺も痛かったぜ。おたくの武志のビール瓶」

 藤井はそう言って額の右の絆創膏をビリビリと引き剥がした。

 まだ紫色に腫れている傷口からは、藤井が乱暴に絆創膏を剥がしたため再び血滲んだ。




 南方は静かに藤井を見ている。石橋は無言で南方の言葉を待った。




つづく



 

大人のピアノ そのごじゅういち 朝子解放される

「武志と一緒に拉致されたお嬢さんに会わせていただきましょう」

 南方は「会わせて欲しい」ではなく、当然の権利としてという表情で言った。静かな揺るぎない声だった。三浦がその口調に再び気色ばんだが、今度は藤井がそれを止めた。

「ああ、いいだろう。確かに武志は別として、武志と一緒にいたお嬢さんに関してはこちらもこれ以上ここにいていただく理由もない」

 顎をしゃくるようにして藤井が三浦の隣にいた年の若い黒服の男に合図した。男は頷いて南方たちから見て左側の次の間の襖を開け放った。

 武志と朝子が正座していた。二人とも極度に緊張した面持ちではあったが、何か危害を加えられた様子もなく、石橋の「何ともないのか」という声に小さく「はい」と応えた。

「昨日は食事も与えているし、風呂も自由だ。軟禁させてもらったが指一本触れちゃいない」

 藤井の言葉を確かめるように石橋が目で二人に尋ねたが、二人は藤井の言葉を肯定するように頷いた。

「藤井さん」南方が藤井に語りかけた。

「ああ」

「あんたたちの早とちりのおかげで関係のない方を巻き込んでしまった。これについてはきちんと筋を通してもらいたい」

「筋を通すとは」

「まずはこのお嬢さんにきちんと詫びをいれていただきたい」

「うむ」

 藤井はそれにはこだわりはないようだった。素人衆を巻き込んでの今回の強行に関しては、この世界の常識から言っても、本来藤井組のような歴史ある組織がやることではない。メンツの生き物のヤクザではあるが、ここで朝子に頭を下げるということは今回は止むを得ないところであった。

 藤井がさっきの襖を開けた若者の方に歩み寄り、いきなりその若者を蹴り倒して朝子の前にひざまずかせた。

「お嬢ちゃん、こちらの早とちりので申し訳なかったね。完全にこちらの勘違いだったようだ。こいつの顔は覚えてるかね」

 藤井は若者の頭をつかんで畳に擦り付けるようにして土下座させた。朝子は震えながら武志にしがみついた。

「こいつが昨日の実行犯だ。私も一緒にお嬢ちゃんにお詫びをする。悪かったね」

「申し訳ございませんでした」

 手をついたまま強面の若者が大音声で朝子に詫びをいれた。どうしたらよいのかかえって恐怖にかられた朝子は目の合った石橋に救いを求めた。

 石橋は朝子にツカツカと歩み寄り、中腰になって朝子に謝った藤井に対して「お嬢さんを自宅にお帰しして構いませんね」と言った。

「ああ」

 藤井は短くそう言って再び日本武尊の真下の上座に戻った。



 南方は石橋と目を合わせ、お互いに頷きあうと石橋はそのまま朝子を連れて大広間の襖を開けて外に出た。石橋はまず朝子を篠崎邸に送り届けるつもりだ。朝子は何度も武志を振り返ったが、そのたびに武志は「大丈夫」と口を動かした。


「さてと、じゃあお次だな。予定より早くなったが本題に入ろうじゃないか」

「ええ。しかしこの人数はいらんでしょう」

 南方はあごで男たちをしゃくって睨みつけた。

「うむ。まあいいだろう」

 藤井は三浦に合図して男たちを下がらせた。三浦はなお不満気な目を南方に鋭く向けたが、最後に黙礼をして部屋を退出した。


 大広間には、藤井、南方、武志の三人が残された。






つづく

大人のピアノ そのごじゅうに ヤクザのけじめ

「武蔵小杉まで一時間弱で到着いたします」

 黒塗りのセンチュリーの後部座席に案内された朝子は、横に乗った石橋にそう告げられた。運転手はたしか台湾屋台で武志と朝子を守ろうとして果たせなかった青年だ。

 海神交差点から船橋インターに乗る時に、石橋が「一ノ橋ジャンクションを抜けて荏原で降りてすぐ武蔵小杉です」と教えてくれたのでこの車が確かに武蔵小杉方面に向かっていることが実感できた。大きな体といかつい顔つきにもかかわらず、そういう気遣いをしてくれる石橋は朝子にあまり怖さを感じさせなかった。

 
「武志さん、このあとどうなるんでしょうか」

 大きめの膝掛けを腰から下に包むようにして少し背を丸めた朝子は、さっき別れた武志のことが気になって仕方がなかった。「大丈夫だよ」なんども口はそう動いたが、あの状況で大丈夫なわけがないという気がした。

「南方がいますので、すぐにどうこうということはありません。予定より早くなってしまいましたがあれは想定内のシーンではあります」石橋は静かに言った。

「そうなんですか…」

「武志自身は堅気ですからね。最終的にやくざ者のケジメの付け方を強要されることはありません」

「やくざ者のケジメ?」

「ええ、まあお嬢さんにはどぎつい話ですが、素人さんが考えがちな指を詰めるとか片腕落とすとか、埋められるとかね」

 石橋はつとめて明るく笑いながら言った。朝子は武志がそうなるかもしれない、と武蔵小杉の篠崎邸で言っていたことが否定されて驚いた。

「そうなんですか?」

「ええ。武志がそんなこと言ってましたか」

「はい」

「そうですか」

 石橋は静かに薄く剃り残したあごひげをジャリっと撫でた。

「武志がそう言ったのはもちろんお嬢さんを脅かすためでも同情を引くためでもありません。実際武志はその覚悟でいるんでしょう」

「はい。そのようでした」

「うむ、あいつらしいです。しかし武志自身はそういうことはありませんからお嬢さんもそこは心配なさらなくて結構ですよ」

 石橋はそう言って柔和な顔で笑った。



「…あの、今武志"自身は"って言いましたよね」

「はい」

「じゃあ他に…」

「南方が最終的なケジメをつけることになるでしょう」

「え!?」

「ただ、藤井と南方は六四の盃で藤井が上とはいえ南方は蜷川会の直系です。しかも身内ないの喧嘩ですから、東京湾に沈むなんてことはあり得ません。直接手を下したわけでもなく監督不行き届きですから、せいぜいこじれて腕一本」

「腕が…」朝子は震えた。

「普通は指でおさまるでしょう」

「指…」

 石橋は朝子の震えには気がつかない様子で話をおしまいまで続けた。

「ところが、今回の件に限らず藤井と南方は前から反目し合ってます。こんなことお嬢さんにお話してもしょうがないのですが、歴史ある藤井組と大きな後ろ盾のある新興の南方組。水と油なんですよ」

「はい」

「まあ、ここでこれ以上詳しい話はしませんが、普段の鬱憤を晴らすようにして藤井が南方と武志にあれこれ言ってくるのは間違いないでしょう」

「…というと」朝子はおさまりかかった動悸が再び早鐘のようの鳴り出すのを感じた。


「例えば南方が懸念していたのは、武志が極道のケジメを取れないのならばいっそ正式に武志を組に入れた上でケジメをつけさせろ、とか…いかにも言いそうですね、あの藤井なら」

「武志さんが正式に…」

「ええ。そうなると当事者だしなんの力も持っていない、ただ南方のお気に入りというだけの武志のケジメの付け方は、利き腕一本というところが妥当でしょう」

 朝子が震え上がってむせるのを聞いて、石橋は初めてさっきから朝子が膝掛けの角をよじるように握りしめていたことに気がついた。

「あ、失礼しました。少し話しすぎたようです」

 石橋は頭を下げてそのまま黙った。



「そういうことってあるんでしょうか」

 少し落ち着いた朝子が石橋に訊いた。

「そういうこと、といいますと」

「武志さんが正式に…」

「武志の性格から言って南方の指落とさせるならば自分の腕、と…」

「そんな」

「多分藤井はそういう武志の性格も読んだ上で、ネチネチと締め上げてくるでしょう」

 石橋は険しい顔をした。

 朝子は膝掛けの角をきつく握りしめることで、かろうじて眩暈を押さえ込んだ。





つづく


 
ゆっきー
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