大人のピアノ

大人のピアノ そのよんじゅうよん 事情聴取

 事情聴取は三十分ほどで終わった。

 篠崎はなつみ先生に伝えたように、自分でもさっきの黄色いテープのところにいた警官に見せた写真とは全く違う、会社の同じ部署の女の子の写真を見せた。すぐに覆面パトカーの後部座席篠崎の隣に店のスタッフが呼ばれ事実確認をしたが、当然店の者は「この人ではない」と首を振った。

 若い刑事は予想していた話の展開と違ったことに首を傾げたいような表情をし、車を出て隣のなつみ先生の乗った覆面パトの上席の刑事の指示を仰ぎに行った。車窓越しに様子を見る限りでは、向こうの刑事も「分からん」と言った表情で首を横に振っていたので、なつみ先生もうまいこと別の男の写真を見せて捜査を撹乱できたようであった。


「今日のところはお帰りいただいて結構です」

 車に帰ってきた若い刑事はなおも不審そうな顔を篠崎に向けたが、それが上司の指示だったのだろう。向こうでもなつみ先生が車から出てくるところだった。

「念のためにご連絡先を」と言われてしまったので、ここは嘘をついたりすると近所のことだし面倒なことになると判断した篠崎は住所を正確に伝えた。警察手帳にメモを取る刑事は住所の町名がこの事件現場とまったく同じであることに気がつき、またチラッと意味ありげな顔を篠崎に向けたが特に何も言わなかった。

「いや、お手間を取らせました。本日は結構です」

 年配の刑事がなつみ先生と一緒に車から出てきて篠崎語りかける。なつみ先生を見ると少し疲れた顔をしていたが、さっき別れる間際に寄越したようなしっかりとした目で篠崎見た。篠崎はほっとした。

 黄色いテープのところまで二人の刑事が送ってくれたが、帰り際に愛想笑いをしてこう言った。

「篠崎さんはこのすぐご近所にお住まいのようですから、またもしかしたら事件のことで御宅にお邪魔するかもしれません」

 近所の人間に朝子のことで聞き込みをやられたら、さっきの虚偽の事情聴取が一発でバレるな。篠崎はそう思ったが、その時は仕方が無い。今はとにかくまず蜷川会の石橋に連絡が取れる状態になったことだけでもよしとしなければならない。刑事もこんなに早く二人を解放したのも、すぐに自分たちで裏を取るつもりだったのだろう。



「お疲れ様でした」

 角を曲がって刑事たちが見えなくなると篠崎すぐになつみ先生に声をかけた。

「はい。うまく行きました。最初篠崎さんがあたしの靴をわざと踏んだ時には事情が全くわかりませんでしたが、すぐに飲み込めました。よかった。あたしはどっちかというとこういうことにトロイほうだと思いますので」

 なつみ先生は事情聴取が無事終わり、刑事の姿も視界から消えたことで安堵感からかそう言って、わずかに口元をほころばせた。

「いや、ほんとお疲れ様でした。しかしはっきりしたのは、どうも約束を破って武志君が殴った側の組織が南方さんの組織を差し置いて二人を拉致したようですね」

 篠崎は沈痛な面持ちで言った。ついに武志のみならず娘の朝子を直接的に巻き込んでしまったことになる。

「武志のせいでこんなことになってしまいまして、何と言って良いやらお詫びのしようもございません」

 なつみ先生もまた篠崎以上に沈痛な顔で言った。

「いえ、それよりみんなで善後策を検討しましょう」

 ここまで話し終わると、ちょうど篠崎邸の玄関についた。





つづく

大人のピアノ そのよんじゅうご 石橋の動き

 玄関の鍵を開け、家に入ると冴子と斎藤氏が玄関まですっ飛んできた。

「お疲れ様です。何か起きましたか」

 斎藤氏は二人っきりで帰ってきたことで、事態の容易ならざるを知ったようだった。

「いなかったの?二人とも」

 冴子は顔色が変わっていた。当然四人で帰ってくるものだと信じて疑わなかったらしい。

 篠崎はなつみ先生とともに厳しい表情で頷いてとにかくリビングに入った。



「二人とも武志君が船橋の店で殴った方の組織に拉致された。朝子の行きつけの台湾屋台に行ったらやっぱり二人が来ていたらしい。そこで二つの組織の乱闘があった末に拉致されたらしい」

 冴子は真っ青になった。これまでこの事態をどこか現実離れしたこととしてきた自分たちの危機感のなさが、朝子の拉致という自体に繋がったのではないか。冴子は今までのような軽口をきいてきたような雰囲気は何処かに消え去り、一人の母親としての表情になっていた。

「申し訳ございません」

 斎藤氏もまた、今度こそ自分の息子が他人を現実に巻き込んで身体の危機にさらしてしまったことを重く受け止めているようだった。

「あなた、警察には何て言ったの」

「警察にはとりあえず人違いで無関係だということを伝えた」

「どうして、正直に言って保護してもらえば良かったじゃないの」

 なつみ先生が下を向いた。篠崎の意向で拉致された被害者とは無関係という証言をしてきたが、果たしてそれで本当に良かったのだろうか。


「しかし身柄を拘束されているわけだから警察だってどうしようもないだろ」

 篠崎そんななつみ先生に申し訳なく思いながらも冴子に言った。

「それに向こうの屋敷玄関で『そんな人間はいない』と言われれば、家宅捜索の令状を裁判所に発行してもらわない限りそこから先に進めません」斎藤氏が冷静に言った。

「じゃあ、どうするの」

 冴子は掴みかからんばかりの表情で篠崎に迫った。

「石橋さんに連絡をとってみる。これは明らかに南方さんの組織に対する信義の問題だから、向こうでも黙っていないはずだ」

「でも…」

「とにかく再度警察に事情を話すにせよ、まずそれをやるべきだろう」

「冴子さん、うちの息子のせいでこうなってしまったわけなのですが、まずは篠崎さんのおっしゃる通りそのラインで事情を確認しましょう。南方組も二人の人間が関わったわけだし、次の対応をしているはずです」

 斎藤氏も篠崎に同意した。

「でも…」

 冴子はなおも食い下がった。




「とりあえず石橋さんのケータイ聞いてるからそこに今すぐかけてみるよ」

 まさに篠崎が二つ折りのケータイ開けた瞬間に着信があった。



「石橋さんからだ」

 発信者通知番号をディスプレイを確認した篠崎が言った。冴子、斎藤氏、なつみ先生の視線が篠崎に集まる。


「もしもし」

 篠崎は三人に対して深く頷いてから、石橋氏と話し始めた。





つづく

大人のピアノ そのよんじゅうろく 駆け落ちの真相

「え、なんですって…。それじゃあ武志君と朝子が台湾屋台で駆け落ち、いや逃亡の計画を話し合っていたんですか?」

 断片的に話がみんなに聞こえるのはかえって良くないと思い、篠崎は務めて石橋のいうことに「はい」「はい」と相槌だけ打ってきたのだが、向こうの組織が拉致という直接行動に出た理由を聞くに及んでたまらず大きな声で聞き返してしまった。

 斎藤氏、なつみ先生、冴子が一斉に篠崎を驚きの表情で見る。

「はい」

 篠崎は、あとでじっくり話すからという意味で相打ちを打ちながらみんなに頭を下げた。

「はい、ええ…なるほど」

 石橋氏の声は篠崎のケータイを通じては全く聞こえてこない。「そんなばかな」「なぜ」「何かの間違いだろう」三人は小声であれこれ推測で話し始めた。

「はい。え?南方さんが…」

 三人は「南方」という名前が聞こえてすっと口を閉じた。

「分かりました。こちらは構いません。はい。よろしくお願いいたします」



 電話を切った篠崎は一同に頷いて、「ソファに行きましょう」と小さく言った。



「『二人で駆け落ちの相談』って聞こえましたが…」

 斎藤氏が電話を聞いていた三人代表してまず聞いてきた。

「はい。まず状況を整理しますと、南方組に主導権を渡しながらも向こうの組織も、万が一武志君が逃亡したりしないように、配下の者を武志の監視役として密かに配置していたらしいのです」

「それは、まあありそうなことです」

 斎藤氏がもっぱら聞き役で、なつみ先生と冴子は質問を斎藤氏に託して頷きながら篠崎の話を食い入るように聞いている。

「あるいはこの家にも仕掛けられているかもしれないと石橋さんが言っていましたが、組織は台湾屋台のアルバイトの店員を買収して、注文した料理を届ける時に二人が座っていたテーブルに小型の盗聴器を置いたそうです」

「うーむ。そこまで…」

「はい。一方南方組でもこれは石橋さんがこの家で言っていたように、独自に武志君を監視していました。こちらは盗聴器を使わずに、武志君が知らない顔の堅気っぽく見える組員が二人のテーブルの横にいたそうです」

「そうでしたか」

「はい、そこで南方組の二人も確かに武志君と朝子が『駆け落ちでもしようか』と話をしているのを聞いたそうです」

「ばかな。朝子さんを巻き込んで早まったことを…」

 斎藤氏は吐き捨てるように言い、なつみ先生は顔を覆った。冴子は大きくため息をついた。



「でも、少し安心してください」

 三人は反射的に沈みきった顔を一斉に篠崎に向けた。

「実際に『駆け落ちでもしようか』という会話はあったそうなんですが、二人とも笑いながらジュースを飲みながら楽しそうに喋っていたというのです。」

「じゃあ、冗談で?」

 冴子がなつみ先生と顔を見合わせながら小さな希望にすがるように篠崎に尋ねた。

「実際に横にいた南方組の二人はそうとっていたようです」

「じゃあ…」

「ええ。おそらく感度のあまり良くない盗聴器を通して離れた場所で音声だけ聞いていた向こうの連中は、駆け落ち、逃亡の密談だと勘違いして…」

「じゃあ、誤解だったんだ」

「少なくとも石橋さん、南方さんはそう捉えているようです」

 一同にやっと安堵の空気が流れた。




「そのあたりの話を明日、実際に石橋さんと南方さんが向こうの組織に出向いて話をつけてくるそうです」

「良かった」三人はやっと心の底から胸を撫で下ろした。

「それに当たってですね…」

 三人はここで終わりかと思ったところ、まだ肝心の篠崎の緊張の面持ちが溶けていないのに気がついて、再び唾を飲み込んで篠崎の言葉を待った。

「当初の話と違ってしまい、そちらさんには大変なご心配をかけたということで、南方さんが挨拶にきたいということなんです」

 一同は静まり返った。

「蜷川会幹部の南方という人がここに…?」冴子はなぜかキョロキョロ周りを見渡した。

「安心しろ。冴子となつみ先生はもし怖かったら同席しなくてもいいよ。挨拶したいというのは俺と斎藤さんにだそうだ」

 斎藤氏は深く頷いた。なつみ先生と冴子は少し落ち着いて小さく頷いた。






つづく

大人のピアノ そのよんじゅうなな 寝室のB面会話

 南方氏と石橋氏は明日話をつけに行き、武志と朝子を連れて夜早いうちには篠崎家に伺いたいということであった。

 金曜日の夜から始まったこの事件は明日で早くも四日目。7日のリミットのうち半分が過ぎることになる。

 明日月曜日は篠崎も会社だし、斎藤氏も霞が関に登庁しないといけない。なつみ先生も昨日は思いがけず泊まりになってしまい着替えなどもしたい。

 斎藤父娘は明日夜もう一度連絡して状況を確認の上、ここに来て南方氏一行を待つこととした。

 事件の渦中の者たちの不思議な連帯感が篠崎、斎藤氏、なつみ先生、冴子に生まれていた。

 玄関を出て小さな門のところまで二人を見送ると、まだ十時前であることを確認して篠崎は斎藤なつみ門下生の神田と平林に連絡を入れた。

 もう少し状況が落ち着いてからいっぺんに話をした方がいいかな、と思いつつも連絡をしたのだが、神田はも平林も「こっちから連絡しようかと思っていた」と開口一番に言ってくれた。経過報告の連絡を入れて良かったし、朝子のことをを心配してくれる二人には勇気付けられた。

 石橋氏の話では拉致当初のようには心配しなくても良さそうなのだが、それでもこんな形で娘と離れて一日を過ごすのはもちろん初めてだし、この数年今まであまり口も聞かずに過ごしてきたことが嘘のように、金曜の晩からたくさん話をした朝子が今ここにいないことは、時間が経つにつれてじんわりとこたえてきた。

 その重苦しい気分を神田と石橋はずいぶん軽くしてくれた。陶芸教室の仲間にこんな話をするわけにもいかない冴子は、斎藤がピアノ教室の仲間に慰められているのを横で聞きながら自分も勇気付けられているようだった。二人がそれぞれ「奥さんによろしく」と心から言ってくれたのを冴子に伝えると、冴子もその言葉を単なる電話を切る時の礼儀としてではなく目を閉じて感謝していた。




「明日は普通に会社に行くの?」

 二階の寝室のツインベッドにそれぞれ入り、疲れていたので早めに電気も暗くしたのだが、当然二人ともすぐには寝付けなかった。

「ああ。いきなり朝電話で会社に事情を話すというのも何だし、明日はとにかく夜までは南方氏の事態収集を見守るしかないからね。斎藤さんも言っていたように明日は戦中の小康状態みたいなものだから、なるべく普通に過ごしておいた方がいいだろう」

「斎藤さんも『今週いつでも急な休暇が取れるように明日は役所でいろんな段取りをつけておく』って言ってたわね」

「ああ。おれもそうしておかないと。一応小さな代理店とはいえ、宣伝部長だしなオレ」

「あら!?あなた宣伝部長だったの?いつの間に」

 薄明かりの中で冴子が冗談ではなく言った。

「いつからって、今の会社に転職してからずっとだよ。電報堂のご経験を存分にということで最初っから部長さ」篠崎は仄暗く灯りを絞った天井のシャンデリアを見ながら小さく苦笑した。

「あら、知らなかったわ」

「まあ、転職のゴタゴタというか、それもあるしそれを巡っての家庭内のゴタゴタもあって、お前とはそんな話もついに何もしないままだったしな」篠崎は今度は小さく声に出して笑った。

「そういえばそうね」

 冴子も同じように声に出して笑った。





 不思議なもので同じ天井のシャンデリアを見ながら同じように笑い声をあげると、仲の良い悪いという実態はともあれ、何十年か自分たちは夫婦をやってきたんだなという事実が感じられる。コツコツと小さく深夜の寝室の時を刻んでいるあの置き時計は、結婚祝いに前の職場の上司が贈ってくれたものだったっけ。
 リビングにまだ朝子の使っていた古い黄ばんだ楽譜があることにも驚いた。一つの屋根の下に暮らすというのはそういうことなんだろうなと篠崎は思った。

 ある日突然家族はバラバラになったりはしない。

 多分当人たちが気がつかないうちにボタンのかけ違いは一つ一つ増えて行く。その掛け違いに気がついた者がボタンを一旦外そうとしても、それに気がつかない者が新しく間違ったボタンを掛けてしまっている。

 それでもふとした拍子で、寝室の置き時計はあの夫婦仲の良かった頃、大手代理店で絶頂期だった頃とまったく同じ音で時を刻んでいることに気がつく。

 リビングのサイドボードの奥にしまわれていたソナチネアルバムの楽譜を広げれば、そこにはまだ幼児体型をした朝子の弾けるような笑い声がこぼれ落ちるのだ。

 だれもその存在を否定しないだろう。完全に否定するならばそんなものはとっくに処分している。家族の痕跡はこうしてふと「まだボタンを掛け直せるかもしれない」という淡い希望を抱かせてくれる。

 いつも鳴り続けているA面レコードの針を上げ、盤面をひっくり返してこうでなかったかもしれなかったB面の曲にレコード針を落としてみるきっかけは、こういうところにしかないのかもしれないな、と篠崎は思った。


「もう少し話ししよっか」

「うん」

 冴子は短く穏やかな声で言った。その声は篠崎の耳に懐かしくこだました。





つづく
ゆっきー
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