大人のピアノ

大人のピアノ そのにじゅうさん 南友会幹部石橋

 篠崎は武志と一緒に玄関まで行った。

 石橋は上背のあるガッチリしたタイプの男だった。篠崎の家の玄関は靴を脱いで廊下に上がる時の段差が15センチほどある。だからまだ靴を脱がずに玄関客に対応すると、普通は家の住人は客を見下ろすようになる。ところが石橋の場合、身長170センチを少し越えたくらいの篠崎が若干石橋から見下ろされるような感じになった。だから187~8センチはあるだろう。外の住人に家の主である自分が見下ろされる。市民の良識もマイホームの砦も通用しないかのようだった。威圧感は二重三重であった。


「突然お邪魔して恐縮です。斎藤が働いている職場の責任者の石橋と申します」

 石橋は蜷川会も南友会の名前も出さず、つとめて礼儀正しく篠崎に挨拶をした。見たところ粗暴な感じられないし、休日なのにきちんとスーツを着た石橋はスーツの着方にも崩れたところもなく、きちんとした企業の多少コワモテの重役と言っても通用しそうな雰囲気であった。しかし落ち着いた物腰の中にもいつでも相手次第で牙を一瞬で剥くことができるような、長年に渡って日常生活が暴力と背中合わせであった者だけが持つ凄みのようなものは隠せなかった。


「石橋さん…」小さく震える声で武志がつぶやいた。

「おう」

 武志に対して仲間うちが見せる笑顔を見せたが、表情は険しかった。

「石橋さん。どうして私の家にあなたがご用事の斎藤武志君がいるのかそれはひとまずおいて置いて、私が武志君から聞いた話ですと武志君があなたと面談するのはもう少しあと、一週間後だったとお聞きしていたのですが…」なんとか声も震えず、表面的には堂々と篠崎は対応した。

 鋭い眼光が篠崎を射抜いた。

 しかし意外にも、すぐに石橋は大きなガタイを二つに折って深々と篠崎に頭を下げた。横で見ていた武志もあわてて一緒に頭を下げた。

「その通りです。すでに武志からお聞き及びと思いますが、私どもの組織としては一週間後の今日、土曜日が正式な対応日となっております。今日はそういうわけで私一人、組織の人間ではなく石橋個人として篠崎様にご迷惑のお詫びに伺った次第でございます」

 篠崎は必死に頭を整理した。「…ということは、今すぐ武志君をどうこうしようというわけではない…と」

「はい。南方や榊原、榊原というのが武志がビール瓶で殴り倒した人間ですが、その辺りの今の様子などお伝えしたいと思いまして」



 軽くうなずいてしばらく考えていた篠崎は思いきって石橋に尋ねてみた。

「本当にそれだけですか?」

 石橋は反射的に「はい」と言いかけたように見えたがその言葉を飲み込み、人物を見定めるような静かな眼光でじっと篠崎と目を合わせた。

「いえ、実はそれだけではありません。武志が本当に一週間後に私どもの前に出頭するかどうか監視するためでもあります。…いえ、それが本来の目的です。ただしこれは南方の一切知らないところで私が独断でやっていることです。南方はあくまで武志を信じています。そしてもちろん私も武志を信じている。しかし、万が一にも一週間後にどんな事情があれども武志が南方の前に顔を出さなかったということになると、お察しいただけると思いますが蜷川会においてオヤジの立場は非常に厳しいものとなります」丁寧に言葉を選びながら石橋が誠意を持って篠崎に答えた。




「事情とお立場はお察しいたします」篠崎も石橋の心中をおもんばかる言葉で対応した。

「実は当初はこのように玄関からご挨拶するようなことをせず、ただ、密かに監視しようとしていたのです」監視という言葉を使うとき、石橋は少し心苦しそうな表情をした。

「それが普通だと思います。それがどうして…」篠崎はその本意を確かめようとした。

「武志がお姉さんを頼って自由が丘の先のピアノ教室を訪ねた後、あなたたちと知り合って…」

「ちょっと待ってください!」篠崎は思わず石橋の場合言葉をさえぎった。

「ピアノ教室まですでにあの時辿り着いていたんですか!?」

「はい。そこは私どもの組織力をすれば簡単なことです。連絡を受けて私自身が自由が丘に行きました。ファミレスのあなた方の会話も失礼ながら知っております。南方の指示があればいつでも身柄は拘束できました」

「ええっ!」声をあげたのは篠崎だったが、これには武志も驚いたようだった。

「はい。ですので万が一武志が南方にも私にも連絡を入れずにそのまま逃亡など考えた場合には、即刻身柄は拘束され、榊原のところに護送されることとなっていたのです」

 武志もさすがにこれは想定外のことであった。世間を知らない自分の甘さを改めて痛感するとともに、野菜くずのように切り刻まれる自分を再び想像して身が震えた。

「うううむ」

 逃亡の手助けもすることになるかもしれないなどと考えていた篠崎も見通しの甘さ、組織の怖さを思い知った。



「しかし、昨日からのお二人今日のご来客の方々まで観察しておりますと、あなた方は武志の逃亡に手を貸そうというのではないらしいということが察せられてきました。逃亡劇は何度となく経験してきましたので、一般の方にはお分かりにならないでしょうが、武志が南方へのメールと裏腹に、南方を出し抜くような逃亡を密かに計画しているわけではないことがはっきりと感じらました」

「なるほど。それで」

「それで、みなさんが必死になって考えているらしい最良の策、最悪から二番目の策について私も思うところをお話し、一緒に相談させていただこうと思った次第です」

「…そういうことだったのですか」

 ようやく事情が飲み込めて安堵した篠崎はどっと疲れてそのまま玄関口にへたっと座り込みたくなってしまった。武志もまた安堵の気持ちと感謝の目で石橋を見た。


「よく分かりました。ここではなんですから中にお上がりください」ようやく少しだけリラックスした表情で篠崎は石橋に言った。

「では、失礼いたします」


 靴を脱いで中に上がると石橋の大きさが際立った。篠崎はその威圧感の中に一週間後の事態の収拾の困難さを再認識するような気持ちだった。




つづく

大人のピアノ そのにじゅうよん 武志のピアノ

 石橋は篠崎に続いてリビングに入った。武志が最後に入って後ろ手にドアを閉める。朝子は顔面が蒼白だった。武志は軽く手招きをして朝子を呼び寄せ、玄関での話をした。朝子は少しは安堵の浮かんだ顔をしたものの、生まれて初めて至近距離で、しかも自宅のリビングで見るヤクザに緊張が静まることはなかった。

「ほう、さっそくピアノですな」

 石橋が篠崎に勧められてソファに座りながら、午前中まだ話が緊迫してくる前に武志と朝子が弾いていたピアノを眺めた。

「こちらが武志君のお姉さんですか。お姉さんもプロのピアニストでいらっしゃる」

「ご挨拶が遅れました。武志の姉でございます。この度は武志がとんでもないことをしでかしまして、ご迷惑の段、お詫びのしようもございません」なつみ先生は石橋の目を見て気丈に挨拶した。

 なつみ先生の言葉に石橋は何も言葉を発せず、ただ、すべてはやってしまったこととして対応しなければならない、とでもいった静かな表情で頷いた。

「石橋さん、私もこうしてビールを飲んでます。もしよろしかったらビールでも飲みながら少しリラックスした雰囲気で話ができませんか。もちろんアルコールを口にしながら話す内容ではありませんが、なにしろ昨日からいろなことがありすぎて、私などビールでも飲まなければ身も心も持ちません」自嘲気味に篠崎がいうと、石橋は屈託のない顔で笑った。

「どうぞどうぞ、ここはあなたのお家ですから、どうぞ私などに何のご遠慮もなさらずに」石橋はかえって恐縮であるという表情をした。

「では私だけというのは気が引けますから、石橋さんもぜひおつきあいください」

「ではお言葉に甘えるといたしましょうか」


 朝子が武志のビールをさりげなく下げ、あらためて父親と石橋用のビールとグラスを持ってきた。

「では、乾杯というのも変ですが、お近づきのしるしに」
 
 二人は儀礼的に乾杯の真似事だけして、グラスを口にした。



「おい、武志。いつも南方のオヤジと俺が店で打ち合わせする時みたいに、なんかこう静かな曲でも弾いてくれないか」石橋が武志の方を見て言った。

 反射的に立ち上がると、武志はどうするべきか目で篠崎に確認した。篠崎は軽く頷いた。

「では、朝子さん、ピアノをお借りします」朝子は無条件に目で許諾する。




 そういえば、武志のピアノを聴くのは初めてだった。いったいどんなピアノなのだろう。南方のを唸らせ、特別な客人扱いで南方が手元においていた武志のピアノ。篠崎はピアノを習っているものの一人として、とても興味が湧いてきた。おそらく、いや当然、ただ上手いだけのピアノではないはずだ。

 篠崎がビールのグラス置き、朝子の姿を探すと朝子はなつみ先生並んで奥のソファから少し離れた食事用のテーブルになつみ先生と並んで座っていた。

 二人もまた、篠崎と同じような目で武志の演奏が始まるのを待っていた。




つづく

大人のピアノ そのにじゅうご 篠崎のピアノの思い出

 篠崎は音楽の才能に特に自分が恵まれていると感じたことは一度もなかった。そんなことは第一これまで意識したことがなかったことであり、大人のピアノ教室に通う前まではどちらかと言えば不要なものでもあった。

 遠い昔、まだ朝子が未就学児童だったころ、たった一度だけ朝子と妻と三人でクラシックコンサートに行ったことがあった。篠崎は名前すら知らなかったが、著名な日本人ピアニストらしかった。ロンドンを拠点にソロ活動をしているという、スラッとした長身の甘いマスクの男は、演奏が終わると自分では抱えきれないほどの花束を客席から受け取っていた。



 クラシックピアノ、ロンドン、長身、イケメン、お上品そうな女性からの賛辞と花束…

 どれも現実離れしたもののように感じられたし、実際のところどこをどう逆さに振っても今の自分やこれまで自分、これからの自分と関係なさそうに思えた。妻と朝子が今日の演奏をどう感じたのかは分からなかったし、どう尋ねたらいいかも分からなかった。満足はしているようなので余計なことは言わない方がいい、そんな風に感じたことを覚えている。途中退屈してしまって、予約した六本木の評判の中華料理屋の料理のことばかり考えていたなどとは座興でも言わない方がいいだろうな…と思って一人苦笑していた。




「ほんと凄かったわあ。◯◯様」

 ごった返すホールの出口のところで、四、五人の二十代前半の女性の集団がそんなことを言いながら興奮していた。

「でもさ、あの第二楽章の出だしのところ、ほんのちょっと指の引っかかりが緩くなかった?」

「え?どこどこ」

「だからぁ、32分音符で上から三オクターブ一気に降りてくるあのテーマのところ」

「ああ、そういえばぁ」

「でしょ?」

「でもさあ…」



 やれやれ。…と言ってももちろん会話の内容などまるで分からなかった。

 そうではなくて、クラシックが好きな女性というのはどうしてこう、古いリバイバル映画に出てくるヒロインのような雰囲気を一人残らず醸し出しているのだろう…。篠崎は思った。
 例えば今は押しも押されぬ大女優が、まだ駆け出しの頃のうぶでけがれなき若き自分の主演映画を好んで観るとは思えない。恥ずかしいからだ。そしてこの恥ずかしさはファンの側にもある。



 今はもうすっかり時代遅れになった髪型や洋服やしゃべり方。

 ああ、自分はああいうのに熱狂していたんだな…。

 気恥ずかしさは、男優を見てはああなりたいと密かにファッションや口ぶりを真似たり、女優を見てはあんな女性を自分の女にしたいと心の底から思った若き日の自分の未熟さがそこに容赦なく見えるからだ。当時最先端だった映画は、まるでその当時の人間全員が集団催眠にかかった状態を外側から観るようなものである。



「へ~。俺たちってああいうのがいいと思ってたんだなあ…やれやれ…」

 この「やれやれ」感を篠崎は目の前のクラシックな女性たちに感じるのだった。トラディショナルな服装や髪型に文句を付けたいわけじゃない。紺色の高級感漂う渋い光沢のワンピースは多分50万とかしそうだし、肩までゆるやかにかかる、揺れるたびにキラッと輝く黒髪も美容院一回3万とかかかってそうな気がする。

 高嶺の花とかそういうのじゃない。ああいう女性もいいなと思う自分がいないわけじゃない。どういうシチュエーションか想像しにくいが、もし一晩ああいう女性を好きにしていいというのなら、やはりそれなりには心は浮き立つだろう。

 しかし、気恥ずかしいのである。この気恥ずかしさは、気後れなどとは全然違うのだ。かと言ってもちろんバカにしてるわけでもないのだ。




 十代の竹下景子にキスを迫れるか、二十代の吉永小百合とホテルに行って本当に最後までいけるのかという問題なのだ。
 もしかしたら実際クラシックな女性とホテルに行ったとしても、自分は全く役に立たないかもしれないな、などと篠崎は「32分音符で上から三オクターブ一気に降りてくるあのテーマのところ」と言ってた女性が出口の先に見えなくなるのを目の端に捉えながら苦笑した。
 綺麗な女性だった。でも明日には顔は忘れてるだろう。これはつまり歌謡曲のメロディは覚えられてもクラシックのメロディはすぐ忘れるのと似てる。


 武志がピアノに向かって、しばらく自分の内面と対話するようにじっとしてる時、篠崎はそんなことをぼんやり思っていた。







 じっとしていた武志が上体を少しかがめた。

 右手が指揮者のタクトのようにそっと動き出した。

 右腕が自らの重みだけで、だいぶ以前から決まってたような必然的確かさを持って、吸い寄せられるようにゆっくりと鍵盤に降りていった。

 初めの音は、ただ無造作にも見える右手の人差し指が触れた、88鍵ピアノの真ん中くらいの多分「ラ」の音であった。






 衝撃を受けた…。

 放課後の誰もいない中学校で、目の前の同級生の女の子の胸の膨らみを眩しく見つめながら、その膨らみを確かめるように自分の手のひらでそっとセーラー服の上から撫でたあの時の、あの官能的な電流が、およそ三十年ぶりに確かに篠崎の脊髄を突き抜けた。






つづく



 

大人のピアノ そのにじゅうろく 大人の音

 篠崎は延髄あたりにぼぅっと溜まった肉体的な快楽の余韻と、まだ次から次へと迫ってくる鍵盤の官能のスコールに自分の身を任せていた。

 武志のピアノは二十歳そこそこの人間の指から生まれたものとはとても思えなかった。何と言ったらいいのだろう…。音楽の技巧を語る言葉を持たない篠崎はまず、「円熟」とか「豊穣」とか「艶やか」といった言葉を思い浮かべたが、そのどれもが若者に対する賛辞の言葉としては似つかわしくないようにも思えた。しかし、目の前の演奏を聴いていると、それらはもしかすると必ずしも若さと矛盾するものでもないかと思いなおした。若さを保ちつつ、いや若さゆえのその独特な円熟味、豊穣さ、艶やかさといったものがこの世には確かにあるんだと思った。

 この音を紡ぎ出す若者は、大げさにいえば生きていくことの急所のようなものを見たことがある、感じたことが確実にあるのだと思った。人は普通年齢を重ねることで、自然と樹木の年輪が増えるように円熟したり、豊穣さが自然と湧いたり、艶やかさが内側から出てくるのだと無条件に前提している。若さの特権という言葉があるように、加齢の特権もまた等しくあるのだと思っている。
 篠崎は人からどれだけいい加減な男だと笑われながらも、自分なりにはその急所のようなものを垣間見、打ちのめされ、咀嚼し、小さく喜びを噛みしめて丁寧に生きてきた自負がある。だから「本物」だけは分かるつもりだったし、そのことは誰にも言ったことがないが絶対の自信を持っている。

 若い武志のピアノは「本物」だった。その本物さは技巧を褒めそやす言葉では捉えることのできない種類のものだった。32分音符の下降音がどうのといった言葉はむしろ滑稽に思えた。
 それにしても篠崎は不思議でならなかった。若い武志はいったいどうやっこの急所を捉えて咀嚼して自分のピアノに反映させることができたのだろうか。自分のような凡人がまったく想像もできない手順で人生を近道する秘密がこの世界には隠されているのだろうか。

 篠崎はこの世界の迷路の中で出口を見失ってしまう人間がほとんどだと経験上確信していた。自分もまたこうして自分の家の中に妻と子供と生活をし、仕事に出かけ、ピアノを覚え、人と喧嘩したり仲直りしたりする毎日を送れていることは奇跡だと思っていた。

 しかしそれが奇跡だと気がつくまでに実に少なくとも四十年はかかった。気がつけて良かったと心の底から思っている。無信仰の自分だが、神に感謝したいくらいだ。自分には神はいないので、密かに妻や娘や仕事仲間に神に感謝するようにこっそり感謝してる。妻も娘も仕事仲間も誰一人篠崎の気持ちを察するものはいないだろう。察せられないことがこの信仰の証であり、そんな恥ずかしことがバレないことが信仰の条件だ。

 武志のピアノは、その誰にも言ったことのないはずの篠崎の気持ちを鍵盤に載せ、優しくそっと一緒に感謝してくれるような音だった。僕は篠崎さんのその心の音を聴いたことがあるよ。武志のピアノは篠崎にそう語りかけていた。その音は自分だけしか知らないはずの音だった。しかしその秘密の音が、今目の前の若者の指から奏でられては自分の精神と肉体の髄に達して心地よく自分を支配していた。




 たぶん石橋もまた自分と同じようなことを感じていると篠崎は確信した。

 おそらく南方もそうなのだろう。





 さて、困った。

 この天才をどうやってこの窮地から救ったら良いのだろうか…





 篠崎がふと顔をあげると、同じような顔をしている石橋と目が合った。

 二人はにっこり笑いあった。

 そしていくつかのことに対して苦笑した…。

 幸せな気持ちだった。




つづく

 
ゆっきー
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