大人のピアノ

大人のピアノ そのじゅうご 武志と朝子

「おお、ピアノだ」

 リビングの奥はソファが置いてある。篠崎が水割りの用意をしている間、武志はさっそくピアノを発見して、近寄った。
 朝子が小学校に入学した時に買ったものだった。朝子はピアノが好きだったと篠崎は思っている。バイエルやハノンの基礎練習を嫌がらない、と近所の三十代のピアノ教師が褒めていたそうだ。実際うまかったらしい。いまのなつみ先生よりもう少し上の女性教師は、もっと熱心に習いたいのなら自分の師匠筋からしかるべき先生を紹介したい、とまで言っていたそうだ。

 もっとも篠崎は朝子がピアノをやっていることに特別な関心はなく、年間数回あった発表会というのも一度も行ったことがない。仕事で忙しかったといえば嘘ではないが、当時は子育て全般に関心がなかったと言った方が良いかもしれない。

 そういえば、何となく自分の意思で選んだつもりになっていた今度の発表会の『トルコ行進曲』だが、これは幼い朝子がお気に入りだった曲で、よくあのピアノで練習していたものだった。
 父親に聴かせるつもりで篠崎がリビングで水割りなど飲んでいると、よくピアノを練習しにきたものだった。うかつだったのは、自分がいる時によく自分の前で朝子がピアノを弾いていたのは、自分に褒めてもらいたからだったのではないか、と最近気がついたことである。

 自分がトルコ行進曲を練習して、少しでも先へ進むことができると妻や朝子の賞賛の顔が見たくてピアノを弾くのをやめて振り返った。
 褒めて欲しいと心から思った。たぶん、いや、間違いなく朝子もそう思っていたはずである。しかし、篠崎は聴いてやった、褒めてやった覚えはただの一度もなかった。褒めれば良かったな、と心の底から思うとともに、そうしなかったことへの後悔が自分がピアノを弾くたびに湧き上がる。自分が褒めて欲しいと思うたびに、自分のどうしようもない身勝手さを感じた。

 もう遅かったけど…。

 弾けた時にピアノを中断し、今でも時々後ろを振り返る。たいていは、さっきまでいたはずの朝子の姿が見えなくなっていた。おそらく、幼い頃のことを思い出して、朝子はもう一度傷ついていたのではないだろうか。昔幼い朝子を大人の残酷な無関心で傷つけ、反対に今は大人の朝子を子供染みた自分の身勝手な思いで傷つける、多分それが自分という人間なんだ。

 篠崎は少し泣けてきた。

「お嬢さんがピアノ弾かれてたんですね」武志がまだ譜面台の横に捨てずにとってあった朝子の使ったうすく黄ばんだ楽譜や、コンサートの時の写真を見て言った。

「ああ、今にして思えばもう少し子供がピアノやっていることに関心をそそげば良かったな、と思うよ」今頭の中に反芻していたことを篠崎は武志に話してみた。

「いえ、きっとお嬢さん、朝子さんはどっかで篠崎さんの気持ちを感じてるはずですよ」

「いや、それは残念ながらまったくないよ。オレ、今じゃ悪かったとホントに思ってるけど何にもしてやらなかったもん。発表会でビデオ回すこともしなかったし、練習を褒めてやったこともない。結局中学の時やめたんだけどさ、今思うとそこそこ頑張ってたのに、まわりの無理解に白けていったというところじゃないのかな」

 懺悔のニュアンスの漂う篠崎の言葉に武志は、少し気の毒そうな顔をしながら笑った。

「篠崎さん、感性の方程式ってご存知ですか」

「いや知らない。なにそれ」

 武志と自分の分の水割りダブルを作って、片手を上げて乾杯の仕草をすると、篠崎はソファに深々と体を預けた。

「『知識=覚えた量ー忘れた量』ですね」武志がピアノから離れてソファの方に歩いてくる。

「うん。そうだね。最近その忘れた量がどんどん覚えた量を食いつぶしてるのがオレの悩みだ」

「感性はちょっとだけ違ってて、『感性=覚えた量+忘れた量』だそうです」ソファに座りながら武志は笑った。

「ほう。忘れちゃってるけど、それがプラスされて全部で感性になってるってわけか」

「ええ、小さい頃の忘れた思い出も含めて今の自分のものの感じ方を作ってるっていうわけです」頂きます、と言って武志が水割りに口をつける。

「ふーん。面白い考え方だね。でもそうするとあれだなあ、ますますなんか娘に悪かったような気がするよ」

「朝子さんに…。どうしてですか?」

「どうしてってこんな父親が目に見えない感性部分まで影響与えてしまったのかと思うと罪悪感もひとしおだね」冗談めかしながらも篠崎は自嘲気味に言った。

「そんなことないと思います。いいお嬢さんじゃないですか」


 おそらく年下のはずの武志のこのものの言い方は少し変かな、と篠崎が思った瞬間篠崎は気がついた。武志はさっき廊下で挨拶しただけの朝子に少し関心を持ったのかもしれなかった。




つづく

大人のピアノ そのじゅうろく 組織からの連絡

「あ、すみません。ちょっと待ってください」

 水割りのグラスをコースターに置いて、武志はケータイのバイブを止めて画面に見入った。メールなのでそんなに長く文章を読んでいるわけではないはずだが、武志は十分以上もそのままじっとケータイを握りしめていた。

「ふう…」

 やっと顔をあげると今度はリビングの天井を見上げてまたしばらくそうしていた。

「どうしたんだい」篠崎が心配そうに尋ねた。

「あ、すいません。店の仲良かった先輩からメールでした。状況を知らせてくれたんです」

「そうか…」



 武志の話を要約すると、こういうことだった。

 武志に殴り飛ばされ失神から気がついた叔父貴は当然のことながら怒り狂った。いつも店にくる時にはボディガードなどは連れずに一人できていたので、直ちに武志が取り押さえられることはなかったのだが、知らせを聞いてさっそく店には二十人ほどの幹部が招集された。

 このままでは武志が見つけられて半殺しか、もしかすると本当になぶり殺されることは時間の問題であった。絶体絶命のピンチに、南部平蔵が動いてくれたらしい。

「南部さんは、『うちの店で起きたうちの身内の事件』だということで、怒り狂ってる叔父貴の組の若い衆をなだめて、蜷川会のけじめとして僕を捕まえてしかるべき責任を取らせる、ということでとりあえず話を納めてくれたらしいです」沈痛な面持ちで武志が言った。

「すると、いますぐ急に見つけ出されて殺されるとかいうことではなくなった、ということなのかい」早くホッとしたくて篠崎が早口で武志に確認した。

「はい。ただ仕切るところが叔父貴の組じゃなくて船橋の蜷川会に変わっただけですので、身柄を確保されたあとどういうことになるのか…実はあんまりかわらない結末のような気もします」武志はあきらめたように淡々と言った。

 二人はしばらく無言で水割りを傾けた。時折篠崎が自分と武志のグラスに氷とウイスキーを足した。武志はその度にきちっと頭を下げて「すみません、ありがとうございます」と言った。

「そういや、状況は聞いたけど、動機の部分って聞いてなかったよね。なんでまたそんな、殺されるかもしれないことやっちまったんだい?」

「最初ラウンジピアニストがやらされたことと同じことを叔父貴が南部さんにやらせたんですよ。ピアノでカラオケマシンのようなことを面白がって南部さんにさせて、『小指の音が抜けた歯みたいに欠けてて気持ち悪くて歌えねえ』だの難癖つけたんです。それがやむことなくずっと続いたんで、しまいにテーブルの上で空になっていたビールの大瓶で思いっきり顔面を殴りつけたというわけです」

 武志ははじめてみせる、目の座った暴力性を感じさせる凄みのある表情をした。ピアノが上手くてたまたまそうした状況に出くわしたというだけならば、あるいは南部氏も武志をここまでかわいがらなかったのかもしれない。武志には、自分が譲れないところに関しては、それがどんな結果をもたらそうが一歩も引かないといった強烈な部分がありそうだった。それは例えば強情というような、自分のエゴから出てくるものではなく、例えばこの場合のように後先考えずにということはあるにせよ、今回のように自分の大切なもののために殉ずるという行為にもなるように篠崎には思えた。

「そっか、そういうことなら少なくとも船橋蜷川会は武志君の味方かな」

「心情的にはそうだと思います。今メールくれた先輩も『お前がやらなかったら俺がやってたところだ』と書いてます。多分みんなそういう感じでしょう」武志はそれでも浮かない顔だった。

「それでも状況は変わらないかな」

「ええ、船橋蜷川会が僕の身柄確保を仕切ることになって、南部さんの立場はかなり苦しいものになったと思います。叔父貴の組が探し出せなかったという場合には、それは向こうの失態となるだけなんですが、この流れだと、僕が仮に逃亡に成功したとすると、南部さんの立場がなくなります」

「あ!そうなるか」篠崎は小さく叫んだ。当事者とはいえ、二十歳すぎの若者がよくこんなに冷静に自分の置かれている状況を把握できるものだと篠崎は舌を巻いた。

「僕、とりあえずこの水割りいただいたら船橋に戻ります」

「今からか」

「ええ。メールには指示めいたことは何も書いてませんでしたが、こうなった以上一刻も早く僕が自分でけじめをつけるべきでしょう」

「そのまま殺されるかもしれないのにかい」

「はい」武志はきっぱりなんの迷いもなく即答する。

「はいって、君は世話にはなってるかもしれないが、蜷川会の構成員でもないわけだし、このまま逃げてしまえばいいじゃないか。オレだって逃亡についてもできる限りの手助けはするつもりだったんだよ」篠崎が目を赤くして必死に説得した。

「今日初めて会ったばかりの僕にありがたい話です。僕も短い間でしたが何だか篠崎さんのことがとても好きになりました。もっとここでおしゃべりもしていたいです。でも篠崎さんのご好意に甘えるわけにはいきません」

「どうしてもか」

「南部さんにはご迷惑をかけられません」武志は迷いなく答えた。立派なものだと篠崎は感動すらした。

「しかし、せめてもう一回なつみさんに会ってから行ったらどうだい。考えたくないけどそれが別れになるかもしれないんだし」武志を行かせまいと篠崎は必死だった。

「いえ、そうしたい気もありますが…」

「お父さんとだってまだ仲直りしてないし。このまま君が二度と帰らない人になってしまったら、お父さん、君と行き違いがあったことに一生涯苦しむことになるよ。同じ親としてそれは忍びないことだ。君のお父さんの味方をするわけじゃないが、そのあたり少しでも話をする時間はないのかい」

 武志はゆっくり首を振った。

「篠崎さん、僕のためにこんなに真剣になってくれてありがとうございます。でもいかなくちゃいけません」

 武志はソファを立った。



 その時篠崎の脳裏に、さっきリビングに入ってくる時に娘の朝子が廊下の先に消えて行くのを目で追っていた武志の姿が思い浮かんだ。

「おーい、朝子。こんな深夜に悪りい。お父さんの一生のお願いだ。今晩は下でお父さんの晩酌に付き合ってくれ」

 今にもリビングでを出て行こうとする武志を目で制しながら、篠崎は深夜零時をまわった家中に響き渡る大声で二階の娘を呼んだ。



「いるわよ、ここに」

 振り返るとドアのところにもたれた愛くるしい顔をした朝子が立っていた。

「へ?何でお前また、用意がいいな」篠崎はポカンとした顔で言った。

「ごめんなさい、全部立ち聞きしちゃったの」

 朝子は小さく舌を出してチョコンと頭を下げた。




つづく

大人のピアノ そのじゅうなな ホステス役の朝子

「おいおい、立ち聞きかよ。お父さんはお前をそんなはしたない娘に育てたつもりはないぞ~」

 おどけた様子で篠崎は朝子に言った。朝子は篠崎には軽く一瞥をくれただけで、リビングに入ってきて武志の座っていたソファの隣に座った。

「あらためましてこんばんわ。篠崎朝子です」

 朝子は座ったまま、今にもドアに向かって去って行きそうな武志に挨拶をした。武志は立ったまま挨拶を返すのも戸惑いがあったらしく、いったん朝子の横に座り直し、「斎藤武志です」と挨拶した。これは朝子の作戦勝ちだったかもしれない。取り敢えず武志はもう一度さっきのようにソファに座ることになった。

 朝子は髪を乾かして、普段着のトレーナーと短パンという格好になっていた。廊下でずっと立ち聞きしていて寒かったのか、いつの間にかパジャマを着替えていた。客の話を立ち聞きなどということはこれまで一度もなかった。たぶん、武志と同じように玄関で会った時に何か惹かれるものを感じて、トイレにでもおりてきた折にリビング越しに中の様子を見ようとしたのかもしれない。
 その時に「捕まる」だの「殴り倒す」だの「殺される」だのという話し声が聞こえてきたので、驚いて話の内容を確かめようとしたのだろう。その意味ではそんな物騒な言葉をリビングで話していた篠崎たちにも非はあったといえるのかもしれない。

「ピアノ、弾くんですね。それもかなり上手に」

 朝子はしかし、そういった物騒な話を問いただすことはしなかった。黙っている武志にさらに話しかけた。

「私も昔は弾いたんですよ。将来の夢はピアニストになることだったの」

「え!お前そうだったのか。お父さん全然知らなかったぞ」

 朝子はあきれ顔をして「そうでしょうね」と鼻で笑った。そういえば、朝子と会話が成立したのは高校の卒業式以来のことだった。もっともこんなのも父娘の会話と言ってよければであるが…。





「聴いてみたいわ」

 朝子が少し上目遣いに武志の顔を見た。もしかしたらもうコンタクトレンズを外しているのかもしれなかったが、焦点の少し曖昧になったような涙目のような瞳で甘い声を出す朝子は、我が娘ながらなかなか魅力的に映った。あれで膝に手でも置いたら篠崎が大好きな夜の倶楽部活動のお姉さんたちのようだな、とあらぬことを想像して篠崎はブルブルと頭を振った。

 これまでのクールでクレバーな武志の印象からは、こうした朝子の態度も笑って軽くいなされると思い込んでいた篠崎は、意外にも武志が緊張気味に「どんな曲が好きなんですか」と答えたのに驚いた。

 いつの間にか大人っぽさを増した我が娘は、取り敢えず、とにかくも武志を引き止めるという役割を見事に果たしたのだった。



つづく

大人のピアノ そのじゅうはち 朝子の思いと武志

 初めはテキトーに話に加わったものの、篠崎はすぐに二人の話に置いてけぼり状態になっていた。

 二人とも実に生き生きといろんな曲や作曲家の話に興じていた。武志がそうした話を出来るのは当然として、驚きだったのは朝子が武志と対等…にというと何か変な言い方だが、楽しんで会話をしてることだった。そしてどうやら話の流れだけ追っていると、武志が一方的に朝子に話を聞かせているのではなくて、朝子の方から話をすることに対して武志が深く頷いたり、朝子の言葉を確認したりすることも多いようだった。

「あれなんだな、お前ずいぶん音楽に詳しいんだね」

 篠崎は思ったままを口にしたのだが、たちまち朝子のしらっとした視線にたじろいだ。

「いや、朝子さんの視点は面白いです。今まで気がつかなかったことをいろいろ考えさせられます」朝子の代わりに武志が真面目な顔をして篠崎に応えた。

「さっき言ったこと本当だったんだから」朝子は少し怒ったような顔を篠崎に向けた。

「…というなんだったっけ?」

「ああ、もうやんなっちゃうな。ピアニストになりたかったっていうことよ」

「あー。そっか。ごめんな気がついてやれなくて」

 篠崎は何と言って良いやら分からず、とりあえず謝ってみた。かと言ってその当時何をどんんな風にしてやればよかったのかは皆目見当がつかなかったのでそんな月並みなことしか言えない自分がもどかしかった。

「ま、いいけどさ。中学の時やめちゃった後もずっとピアノが好きで、お父さんのいない時にはずいぶん練習してたんだ」

「何でまた俺のいない時になの?」久しぶりの会話だ。篠崎は話が途切れないように懸命に相槌をうった。

「だって、真剣に弾いてるときオナラしたり、急にリモコンでテレビのスイッチ入れたりするんだもん」朝子は少し悲しそうな顔をした。

「あああ、ごめん。悪かった、気がつかなかったよ」

「小さい頃はね…じつはあたしお父さんのこと結構好きだったから、お父さんに聴かせたいという思いでこのリビングで練習してたんだよ」

「…そっか。それも気がつかなかったんだな、お父さん…。ひどいお父さんだよな…」篠崎はショックだった。




 しばらく沈黙が支配したあと、朝子が明るい声で言った。

「ねえ、せっかくの機会だから明日ピアノが弾ける時間になったらミニコンサートしようよ。お父さんも来週発表会とか言ってたから予行演習したらいいじゃん」

 魅力的な提案だったが、いかんせん状況はそれを許しそうもなかった。ここまでよく武志を引き止めた朝子だったが、かえってこの積極的な提案が、武志に今の状況を思い起こさせた。

「あ、ごめん。せっかくなんだけどやっぱりそれは無理そうです。いま朝の四時五十分。ずいぶん話し込んじゃったけど、あと三十分したら始発が動き始めるから僕はお暇しなければならないです」リビングの柱時計を確認して武志が沈痛な面持ちで言った。


 再び沈黙が訪れた。今度の沈黙は深く長かった。このまま三十分が過ぎれば、今度こそ武志は朝子の引き止めなど意に介さずこの部屋を出ていくだろう。




 今度も沈黙を破ったのは朝子だった。しかし今度は明るい声でではなく、泣き声だった。

「ごめんなさい。どんな状況に置かれてるか考えてもみないようなこと言って。でもあたしにはどうしたらいいか分からなかった。無理にはしゃいでみたりしてあなたの気をそらそうと頑張ってみたけど、頭の中にはヤクザに捕まっちゃって小指落とされて腕も切られちゃって、結局どこかに連れていかれちゃうみたいな怖いシーンが浮かんできて、それでとうとうパニックになっちゃって、ミニコンサートだなんてノーテンキなこと言っちゃった。ばかみたいです。ごめんなさい」

 そこまでいうと朝子はソファの背もたれに顔をうずめて泣き崩れた。嗚咽がしんとしたリビングに寒々と響いた。

「朝子さん、ごめんなさい。僕も勝手に押しかけて来て、結局自分の都合ばかり言ってます。優しいお父さんの気持ちもご提案もきちんと受け止めずに、ただ『帰る』の一点張りだったかもしれません」

 武志はそういって朝子の丸くなった背中を最初はためらいがちにそっと撫でた。

 しばらくすると嗚咽も止んできて、朝子はこちらを向いた。目が真っ赤だった。最初一瞬まさかこれも引き止め工作か?と思った篠崎はまたもや自己嫌悪に襲われていた。朝子はもしかすると、武志に一目惚れのような状態なのかもしれないなと篠崎は思った。



「待ってくださいね。お二人のおかげでだいぶ僕も冷静になれました。南方さんに一本直接メールを打ちます」

 そう言って武志は真剣な面持ちで親指を動かした。時々手を止め、時々考え込み、時々窓際まで行ってまだ暗い庭をじっと見つめたりした。悠に三十分はかかっただろう。武志が予定していた始発電車が動きだし始めた頃、大きな深呼吸と共に武志が「送りました」と言った。

 篠崎も朝子もいったいどんなメールを書いたのか心配そうな顔をして、武志を顔を覗き込んだ。でも内容は聞かなかった。

 武志は何か一点に賭けたようだった。その賭けが成功したかどうかはおそらくこの後の南方からの返信でハッキリするのだろう。

 三人はテーブルの上の空になったウイスキーの瓶の横に置かれた武志のケータイのバイブレーションが振動するのを祈るような気持ちでじっと待った。




つづく
ゆっきー
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