大人のピアノ

大人のピアノ その百にじゅうさん

「なるほどな。確かに自衛隊のトップが基本的人権だの言論の自由だの言うのはなんだか違和感がなくもねえな」

 藤井はそう言って三浦と南方を見た。

「思い出しましたが、実際藤井さんのように言う人間も多かったですよ」南方が言った。

「ほう」

「ただし、恐らく全然違う意味でですが」

「どう違うんだ」

 南方は改めて当時アジアばかりでなく、欧米の諸外国のマスコミを巻き込んだ陸自幕僚長論文問題を思い出していた。





「メディアや政治家や識者と呼ばれる人間の大方の反応は、痛いところを突かれたという苦々しいものだったと記憶してます」

「まあな。数万人の陸上自衛隊のトップとはいえ憲法で保障された表現言論の自由を否定するわけにゃいくまい。個人的な歴史観を表明するのは誰にも止められねえはずだ。それをやってしまったら、自分たちの言う基本的人権ってのがいかに自分たちに都合のいい偽物の薄っぺらいルールかってことがバレちゃうもんな」

 藤井はおかしそうに笑った。

「そうですね。万人の生まれながらの権利とか言いながら本音では自分たちの決めたルールに従わない人間には認めたくないっていうのが透けて見えます」

「ああ」

「そんな中で少し面白いこと言うのもいました。そいつは言論の自由っていうのは本来何も武器を持たない丸腰の人間に、いわゆる弱者に認められた権利であって、数万の兵士に命令できる立場の人間には制限があってしかるべきだと」

「ほう」

 藤井は鋭い目を南方返してよこした。そしてしばしの沈黙の後口を開いた。





「そのジャーナリストは多分自分じゃまったく気がついてないだろうが、とてつもない危険なことを言ってるな」

「…はい。私もそう感じました」

「強者であるから弱者の武器の言論の自由は認めない。この論理でいけば、強者はいつその強者の武器を使用するのか、それはもっぱら強者の側の行使自由な権利だという論理になるはずだ」

 聞いていた武志はハッとした。武闘派のヤクザの親分としか見てなかった藤井は多分このことの本質を一瞬で見抜いてると思った。横で聞いている三浦を見ると三浦は真剣な眼差しで無言で藤井組長の次の言葉を待っていた。





「その幕僚長が『そうですか、確かにそうですね。私は確かに自衛隊員に死ねと号令できる立場にあります。いつその力を発揮するかは確かに私の手の内にあります。そんな私にあなたたちの大切な権利である基本的人権はいりません』こう言ったらどうなる」

 南方、武志、三浦の三人は息を飲んで藤井の解釈に耳を傾けた。

「この刺し違えの権利の交換で、幕僚長はシビリアンコントロールの枠の外部に出てしまって、極端な話、部下に『祖国の理想のために死ね』とクーデターを指示することができてしまう。逆に基本的人権による個人の歴史観を含めた言論の自由という餌を与えておけば、文民統制という内部に軍人を囲っておくことができるわけだ。平和ボケとしか思えない。そんな簡単なことにもそのジャーナリストは気がつかないのか…」

 南方が頷いた。

「藤井さんのおっしゃることは、昭和の時代に三島由紀夫が自衛隊員に決起を促した論理ですね。言論とは異質な「行動」というものに君たちは目覚めなくてはいけない、と市ヶ谷の駐屯地バルコニーで演説したわけですが」

「強大な行動力を認める代わりに言論の自由を制限する。そしてその逆もまたしかり。三島由紀夫が泣いて喜びそうなシナリオじゃねえか」

「はい」

 南方は我が意を得たりとばかり頷いた。





「飼い殺しとかなくちゃいけねえんだよ。ヤクザもな」

 武志は再び目を剥いて藤井を見た。飄々とした物言いの後ろに持っている、自分たちヤクザの置かれた透徹した認識の一端が武志にもうっすら見えたように思えた。

「暴対法も同じ理屈で底の浅い人間が考え出した茶番だと言える。ヤクザは強大な暴力を所有しているから、暴対法によって基本的人権を制限します。この理屈だとヤクザの持つ強大な暴力の行使をそれと気がつかずに認めたことになる。さっきもテレビで暴力団にも基本的人権があるとかぬかしてた暴力団の味方の振りした弁護士出身の国会議員のバカがいたが、その安っぽいジャーナリストと同じレベルだ」


 武志は必死に藤井の論理について行こうとしていた。

「なるほど、そういうことになりますね」

 南方が言い、三浦が感極まった顔で藤井を見た。

「飼い殺しをやめて暴力団を壊滅に追い込む。市民は暴対法を持って。そしてトチ狂った警察庁、神奈川県警、千葉県警は警察の武力を持ってというわけだ」

 南方と三浦が頷く。武志にも藤井の理屈が飲み込めた。

 ヤクザの世界では親分が白と言ったら黒いものでも白になるという。これが白いものが黒に、黒いものが白になるマジックの瞬間なのか。それは、暴力によって押し付けられたものではなく、研ぎ澄まされた生き方から出てくる行動化された言語だった。




「基本的人権なんぞいらねえよ。それと引き換えに認めてもらった強大な暴力を存分に発揮させてもらおうじゃねえか」

 藤井の高らかな哄笑が地下弾薬庫に大音声で響した。








続く

大人のピアノ その百にじゅうよん

「おやじさん」

 三浦が感極まった目で藤井を見た。

「おう。悪りいな、おめえの話さえぎっちまって」

「いえ…とんでもありません。その…組長はそうしたお考えを誰から教わったというか、どうやって身につけたのですか。自分は思いはあっても頭が良くないのでやはりこうして自分の奥深いところで言葉にならなかったものをズバッと言っていただけると興奮で体が震えます」

 三浦は背筋を伸ばして藤井に向き合った。





「自衛隊ではそういうのは教えてはくれなんだか」

 藤井は少しヤニに染まった、しかし歯並びの良い前歯が並んだ口を豪快に開いて笑った。

「少なくとも自分は自衛隊では何もつかめませんでした」

「それは多分な、この国が喧嘩に負けて起き上がるところから始めずに、地面に倒されたまま、喧嘩は良くないと小賢しくしゃべるところから始めたからだよ」

 三浦はなおも藤井の言葉を求めて熱い視線を藤井に投げかけた。

 藤井は照れることなくその視線を受け取った。




「その幕僚長はもしかすると、俺が今言ったジャーナリストのいう矛盾を分かった上で基本的人権や言論の自由を口にしたのかも知れねえぜ。俺にはなぜだかそんな気がするんだが、だとしたらその幕僚長は正真正銘の男だな」

 三浦は何かを必死に考えているようだった。

「自衛隊ってのはよ、喧嘩に負けましたっていうところから、喧嘩に負けた人間が立ち上がるってところから始めることをしなかったんじゃねえか。おめえも俺も喧嘩が仕事というか生きることそのものだから分かると思うんだが、一旦負けたらとことん負け切るところからしか自分の生きていく方向は見えねえ。そしてそこからしか心からの相手への謝罪も新しい関係もない。これはヤクザの鉄則だ。だからどれだけ血みどろの抗争をしても手打ちの後はそこから昨日の敵とも新しい関係が始まる。

 生きていくにはそこから始めるしかねえはずなんだ。それを『そもそも喧嘩は良くないです』とかいうところに話をすり替えて、自分自身が負けた人間であることを棚上げして偉そうなことを言い始める。そういう人間がそのまずっと憲法第九条をこねくり回してるように俺には見えるんだ。昔の学生運動なんてのはその最たるもんだろ」

 武志は次第に藤井が憲法第九条などと口にすることへの違和感が消えていった。三浦はなおも無言で藤井の次の言葉を一言も聞き漏らすまいとしていた。





「学の無え俺だが、終戦後吉田茂が防衛大学の卒業式で言ってた言葉を覚えてるよ。

『君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生だと思う。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、国民が困窮して国家が混乱しているときだけなのだ。言葉をかえれば、君たちが『日陰者』であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい……』

 新聞記事になってたのを繰り返し読んだものだ。その幕僚長さんはよ、直接吉田茂に卒業式の祝辞を聞かされた世代じゃないと思うが、そういう思いでやってこられたんじゃねえかな。なんとなくそういう気がしたんだが」

 三浦は必死に言葉を探しているようだった。




「『負けました』っていうところからじゃなくて『けんかは良くない』っていうところから始める嘘くさい辛さを幕僚長は引き受けた上でのご発言だったんでしょうか」

「いや、分からねえがそういう感じ方もあるかな、と思ったまでよ」

 藤井は静かに笑った。



 三浦はしばらく何かを考えている様子だった。誰も何も言わなかった。考えてみればこの警察が突撃準備を進めている状況は負け戦が最初から確定している戦だ。やがては警察の特殊部隊の突入は避けられないだろう。藤井組側では命を落とす人間が何人もでるはずだ。

 そうすると、こうして静かにこういう話をしていること自体が武志には何だか別世界のことのように感じられた。

 しかし、すぐに思った。

 これが藤井さんのいう「負け切る」ことなんだろうか。

 そのことを南方さんも三浦さんも知っているのだ、と武志は思った。





 三浦が口を開いた。

「なんて言うか、日本が誇れる国<だから>日本を守れるというんじゃなくて、仮にそうじゃなかったとしても守らなくちゃいけない。それが国を守るってことなんじゃないかって俺は思います」

「ほう」

 藤井の三浦への眼差しは思春期の自分の息子に対するもののようだった。


「例えば、歴史を詳しく検証して、その結果日本の戦前からの主張が全部正しかったとする。あるいは中国が言ってることが正しかったとする、あるいは韓国が言ってることが正しかったとする。そういう検証作業は大事だと思うんですが、それはまた別の話じゃないかと思うんです。

 一番極端な話、全部日本が悪かったとする。じゃあそのとき自分たちは日本人たるをやめ、志願して中国や朝鮮の民衆を守れるのか。そうじゃない。侵略して悪かった、しかしそれでもその悪かった自分たちの先祖と子孫のために今あるこの日本という国を武力を持って中国や朝鮮から守らなければならない。

 我が子の罪は罪である。しかし親は自分の子供を守らなくてはならない。

 父親の罪は罪である。しかし自分は老いた父親を謝った当の相手から守らねばならない。

 そういうところに国防はあるんじゃないのか」

 三浦はうまく言えたかどうか自信がなかったようだ。そこで言葉を切って藤井を見た。





「それが負け切ることだと思うぜ。そこにだけ本当の誇りがある」

 藤井は三浦の不安を打ち消すように笑いかけた。


「三浦よ、俺は思うんだ。自分は日本人として生まれたからそういう考え方を持つのかもしれない。これが他所の国に生まれたらまったく別の考え方で生きていったのかもしれない。人間生まれた場所は選べねえ。親も選べねえんだ。カタギに生まれたらそういう生き方を磨いていくし、幸か不幸かヤクザの家に生まれたから多かれ少なかれ、最後にそれを否定しようともその宿命を引き受けて生きていかなくちゃいけねえんだ。

 しかし、思想ってそういうもんじゃないのか。生きるってそういうことなんじゃねえのか。逆にそういう根拠薄弱なものだからこそ尊いんじゃないのか。たまたまここが祖国だった、たまたまこの親が自分の親だった。そしてたまたまこの自分の運命が自分という存在そのものだった。その偶然そうなったことを後から知ること、知ってそれを認めること。
 そこに、自分の運命とはまったく違ってはいるが、自分と同じようにそうやって生きていかざるを得ないことに気がついた他人様が確かにいることに、もう一度そのとき気がつくんだと思う。

『暴力はいけません』ってのはよ、暴力団がそういっちゃいけねえだろ。それを信じた人間、そこにしか希望を、生き方を見つけられねえ人間にたいしての責任はどうなる。八方塞がりで戦争しかけてそしてそれに負けた国がどのつら下げて「戦争はいけません」って言えるんだよ。きっちり負け切ってもいねえくせによ。ま•し•て•や、それなしに謝罪など論外だ。

 この世の中ヤクザであることはその時点で『負け戦』だろう。しかしその負け戦を完璧に負け切ることは大切なことだと思うぜ。

 そして今がその時だ」

 藤井は静かに話し終わった。





「お話ありがとうございました」

 三浦は泣いていた。

「組長の息子さん、ぼんさんも今にして思えば同じことを俺に言ってくれたんだと思います」

「ほう。じゃあ今度はお前がその話をしてくれや」

「はい」



 火薬庫の中、静かに時間が流れた。




続く

大人のピアノ その百にじゅうご

「ぼんさん、いつもおっしゃってました。強くなるのはどっちかの世界に身を任せることだと」

 三浦が話し始めた。

「うん」

 藤井は静かに頷いた。それは自分の息子の口調を思い出しながら三浦の言葉を味わっているようだった。

「『何かから締め出されて、不安にかられて自分の周りを見渡す。敵を発見して、味方を探して躍起になって自分が正しいことを証明する。そして言葉でも暴力でもなんでもいい、自分の正しさがやっと証明されたように思った時、その時一番大切なものが無くなるんだ』こうおっしゃてました」

「大切なものが無くなる…」

「はい。『最初についた嘘が嘘だったっていうことを忘れてしまう』ともおっしゃってました」





 その言葉に反応したように、南方が三浦をじっと見つめた。

「おめえ、分かるか」視線に気がついた藤井が南方がに話を振った。

 南方はハッとして藤井に向き直った。

「…はい。実は自分もおそらくぼんさんと同じような感覚にこだわってきたような気がします」

「その右手の小指か」

 言われて初めて南方は、自分が無意識のうちに自分の欠落した小指探すように親指を動かしていたことに気がついた。





「おめえと武志はよ、これから本格的に始まる警察との戦争でどんな手を使ってでも無事にシャバに送り届けてやる」

 藤井は南方武志を見た。

「だがよ、もう充分にわかってるだろうが、俺も三浦もこの戦争を生きて終えようとは思ってねえ」

 三浦は無言で藤井を見つめ、満足そうに頷いた。

「今、冥土の土産の三浦の一番大切な話を聞かせてもらった。息子の話を聞きながらおめえの話も聞きたいんだよ」

 藤井は南方に微笑んだ。

「誰も聞いたことのねえ、お前のところナンバーツーの石橋でさえ知らないらしいお前の右手の小指。ヤクザになってから落としたんじゃなくて、中学生の時にやったっていうその話をそろそろ聞かせろよ」

 一瞬戸惑った顔をした南方だったが、藤井が悪戯小僧のような人懐こい目で自分を見ていることに気がつくと、南方自身も少年のような顔つきになった。

「分かりました。こうなってはここでお話ししないわけにはいかなくなったような気がします」

「おう、そうこなくっちゃな」藤井が三浦に笑いかけた。

「はい」三浦が破顔する。

「武志はよ、あんまり興味ねえかもしれねえが、まあ付き合ってくれ」

 藤井がそう言うと、南方は首を振った。

「いや、そんなこともないと思います」






 武志がその言葉の意味を問うように南方を見た。

「さっき、三浦が話してくれたぼんさんの『最初についた嘘が嘘だったっていうことを忘れてしまう』。柄にもなく自分が昔吐いたセリフを思い出してました」

「おう。どんなだ」

「『そんなことしたら慶ちゃんのピアノの音が聴こえんようになってまうやんか』」ドア

 南方は武志を見た。

「俺が中学の時お前のお袋さんに言った言葉だ」

「!?」武志は虚を突かれて南方をもう一度見直した。

「笹川慶子。今は結婚して斎藤慶子さんか。お前の母親が俺の初恋の相手だ」






 沈黙を破って藤井が上機嫌で笑い出した。

「一切合切全部聞こうじゃねえか」

 藤井に合図され、三浦が長距離ライフルが収納された横のキャビネットからスコッチの瓶を運んできた。





続く





PSーーーー
本年もブログに足を御運びいただきありがとうございました。

思うとことあって、ペタ、メッセージ、最近はコメント欄も閉じて引きこもりしてますが(笑)、皆様とのそこはかとなくも得難い大切な交流があればこそ、今年も一年書いてこれたと思ってます。

来年もよろしくお願いします。

皆様、良いお年を(´▽`)


ゆっきー(三ブログ共通ご挨拶)






ゆっきー
大人のピアノ
0
  • 0円
  • ダウンロード

122 / 124

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント