同じ頃、田原慎之助は朝霧テレビ最上階の編成担当取締役の役員室に呼ばれていた。
「忙しいところわざわざすみませんね」
役員室に入ると戸田編成担当取締役は座っていた椅子を立ち上がって田原を出迎えた。
朝霧放送の出演がほとんどの田原だが、身分はあくまでフリーのジャーナリストである。いわば局にとってはプロ野球で言うところのある程度勝星の読める外国人助っ人、視聴率がある程度読める重宝なゲストである。部下を呼びつけて何かを申し伝えるというスタンスではない。
しかし役員室に田原慎之助を呼んだ戸田の本音は、その弱り切った顔と、応接ソファに先客として座っている平取の役員袴田の姿に現れていた。
戸田と袴田が並んで座るソファの前に田原も不承不承腰を下ろした。
「まあ、そんな不機嫌な顔をしないでくださいよ」
警察庁からの天下り役員の袴田がタバコに火をつけながら田原に言った。
「警察から何かありましたか」
先手を打って田原が袴田の目をまっすぐ見て言った。
袴田は元警察官僚らしい鋭くほの暗さを秘めた瞳の中に田原の視線を吸収した。
「正式要請じゃありませんがね」
「正式要請ではないけれど、あのホットラインの主を明かせと」
袴田は肩をわざとらしく揺すって笑い声を出した。
「そんなこと言ったってあなたは取材源の秘匿を理由に拒否なさるでしょう」
「最高裁判例に従って法治国家日本でのすべての取材源には秘匿の権利があると解釈しています」
「まあ、そんなことはいいです。その取材源には警備局公安が動きましたので特定できるのは時間の問題です」
公安…。動きが早い。田原は何も知らない篠崎の笑顔が浮かんだ。
「番組を中止しろなんてこともいいません。あなたは『徹夜で生テレビ』の編集権も契約書できっちり保証されたフリーのジャーナリストです。私にも戸田さんにも今すぐに解雇ということはできません」
解雇という言葉に戸田がギョッとして袴田を一瞥したが、そんなことに一切無頓着な袴田は平然とタバコをくゆらせている。
戸田は「すみませんね」という目で田原をそっと見た。
「このまま藤井組組長を電話で生出演させながら番組を続けるつもりですか」
戸田が袴田に代わって田原に訊ねた。
「すでに番組中にそのように視聴者に予告してありますので今更変更はできません。どうしても変更するならば、変更に至った理由を生放送でそのまましゃべります」
二人の役員は静かに笑った。
袴田取締役は不気味に陰にこもり、それと対照的に戸田編成担当取締役は諦めたような苦笑をもって。
「警察に勝てると思ってるのですか」
袴田が不敵な笑みを浮かべて田原に言った。
田原は平取の袴田よりも本来上席の常務取締役である戸田に視線をやった。しかし、こと今回のこの件に関しては力関係は逆転しているようだった。警察組織を敵に回すという判断は局全体としては避けたいところなのは田原にもよくわかっている。袴田の思惑に積極的に加担せず、のらりくらりと適当に相槌を打っているのがせめてもの抵抗なのだろう。
「勝ち負けじゃないですよ」
「ほう。ではジャーナリスト魂とかいうものですか」
問いただすまでもなく、その言葉に幾分かの揶揄のニュアンスが籠っていることは先刻承知だったので、田原は笑って受け流した。
「あえて言えば"B面の真実"ですかね」
「何ですかそれは」袴田は少し興味を持ったようだった。
「例えば討論の中で、賛成反対の正しさとか正義みたいなのを超えて、ふっと一瞬、誰一人として見えていなかった世界が浮かび上がる瞬間です。みんながA面しか知らなかったのが急に同じレコードの反対側の世界が見えてくる」
「ほう」
「今日本人なら誰でも知ってる曲も世に出た時にはA面の付録としておまけでついていたような曲です」
「ふむ。例えば?」
「『リンゴの歌』『スーダラ節』『ドレミの歌』『伊勢佐木町ブルース』『翼をください』『学生街の喫茶店』『港のヨーコ、ヨコハマ・ヨコスカ』『ビューティフルサンデー』『浪花節だよ人生は』『矢切の渡し』『釜山高に帰れ』…」
「ほう。有名な曲ばかりですな」
「『もしもピアノが弾けたなら』」
「おお。それは警察時代からの私のカラオケの18番ですな。私もピアノが弾けないが思いだけがある、といった気持ちで生きてきた」
「そうですか」
田原は袴田が意外にも話に興味を持ったことに多少の驚きを感じた。
「誰一人として見えていなかった世界が浮かび上がる瞬間…ね」
袴田はもう一本タバコに火をつけ腕組をして目を閉じた。
「真実はいつも一つとは限らない。しかし真実は一つであるとしなければ世の秩序は保たれないのもまた真実だ。そこには大きな犠牲ももちろんある…しかしながら……」
田原は袴田の独白をじっと聞いていた。
「もう少しお話ししたいですな」
「しかし私には番組が…」
入室してからすでに10分少々過ぎている。スタジオは衝撃の舞台裏のフリップボードの内容について、パネリストたちが喧々諤々の放談をしている。そろそろ田原の仕切りが必要なタイミングのはずだった。
「田原さんの強い決意は十分にわかりましたので、何もわざとらしく引き止めようというわけではないんですよ」
袴田が不気味に笑った。
「…といいますと」
「しばらくは中継メインで討論によって"B面世界が浮かび上がる"どころじゃなくなるということです」
「どういう意味ですか…」
役員室はしんと静まり返った。
田原が口を開こうとしたその瞬間だった。
役員室のドアが強くノックされ、女性秘書が緊張した顔で戸田に視線をよこした。
戸田はすっと立ち上がって自分のデスクの上に置いてあった部屋の大画面のプラズマテレビのリモコンのスイッチを入れた。秘書には会議中にかかわらず何か大きな動きがあれば知らせるように伝えてあったようだ。
画面からは望遠カメラで写した藤井城周辺と思われる風景が映し出され、激しい銃弾の発射音が連続して流れてきた。
「警察の藤井城への突入の前哨戦が始まったんだよ」
あっけに取られている戸田と田原に袴田が解説した。袴田は
関東管区警察局長榊原から藤井組組長をテレビに出さないための警察の突入前倒しの報告をすでに極秘に受けていたのだった。
「すこしこのテレビで事態の推移を見守りましょう。先ほどの"B面世界論"は非常に興味深い。ぜひその話をしながらね」
袴田が満足そうに声をあげて笑った。
続く