大人のピアノ

大人のピアノ その百じゅうご

「もしもし。はい田原慎之助です」

 田原は携帯電話をハンズフリーのスピーカーに切り替え、胸元につけていたボタンマイクを外して受話器の部分に近づけた。

「名前を名乗る必要はありますか」

 スピーカーから声がした。篠崎はおそらくハンカチか何かを当てて話しているのだろう。そのため多少くぐもっているが、テレビの電話に乗った篠崎の声は視聴者が直接十分に意味判別可能なものだった。

「いえ、その必要はありません。私の個人的に信頼している情報源だということを私がここで明言しておきます。さっそく話そうとしていた内容をお聞かせてください。」

「今回の警察の性急な捜査活動の裏には大掛かりな警察不祥事を隠蔽する意図があります」

 声色を変えた篠崎の声に会場がざわめいた。

「具体的に教えていただくことは可能ですか」

「私も信頼できる筋からの伝聞なので詳しいことは分からない。ただ、銃器摘発を巡って警察の自作自演による不正操作が日常化しており、その不正を直接的に手伝っていたのが藤井組だと聞いています」

「これは重大な情報をいただきました。すると、こうして警察が藤井組を壊滅しようとしているのは、変な話ですが仲間割れのような意味合いもあるのでしょうか」

「藤井組が握っている警察内部の弱みを根こそぎもみ消してしまうために、過剰な火器を使って人員を大量投入しているのではないかという疑惑もあります」






「あなた、情報源はなんなの」

 元警察庁長官の亀山が大声で田原の手元にある携帯電話に怒鳴った。

「……」

「名前はいいとして、内容が内容だけに情報ソースが一体なんなのかはいう義務があるでしょう」

「はい」

「納得行くような情報ソースをはっきり言えますか」

「……藤井組藤井組長本人です」

 ややあって篠崎が言った。





 亀山は絶句した。




「えーと、Xさん」

「あ、はい」

「あなたの情報が確かに藤井組長からのものであるという証拠は提示できますか」

「証拠ですか…」

「そう。確証ある証言だという場合、あなたが今しゃべっていることは、事件解決に向けて非常に大きな意味を持ちます。」

 再び亀山が大きな声を出した。

「Xさん、いかがですか」

「私の方からはなんとも言えないのですが、必要であればこの電話に藤井組長自身から着信してもらうことは可能です」




 会場はどよめいた。

 そしそのどよめきは電波に乗り日本全国に中継された。




「分かりました。では一旦電話を切っていただいてその準備をしてください。番組は藤井組長の生電話を中継できる準備を再短時間で整えます」

「分かりました」





「大変なことになりました。いったんここでCM挟ませていただきます」



 慌ただしくCM入りを告げる田原慎之助の元に、局のスタッフが雪崩かかるように殺到している風景を一瞬映した後、番組はCMに移った。






続く

大人のピアノ その百じゅうろく

「おい、一体これはなんなんだ」



 武蔵小杉署の捜査本部を後にして、関東管区警察局長榊原、神奈川県警刑事部長本田、武蔵小杉署署長佐々木、合同捜査の千葉県警刑事部長吉沢は、横浜市中区海岸通の神奈川県警察庁舎ビル19階の大会議室にいた。
 
 壁には近隣の主要地域、及び神奈川県警察管轄区域全域の方面配備の映像がリアルタイムで映し出されている。
また、埋め込み式のテレビチューナーが縦横に数十機埋め込まれており、地上波衛星CATV主要チャンネル放送が映し出されている。


 埋め込まれたチューナーのテレビ朝霧の『徹夜で生テレビ』を見ながら叫んだのは、関東管区警察局長榊原だった。

 その他の居並ぶ幹部も顔面が緊張で白く変容しており、武蔵小杉署所長佐々木はあり得ない光景に体を震わせていた。

「佐々木警視正、事態を説明したまえ」

 榊原は佐々木武蔵小杉署署長を面罵した。

「はっ。ただいま所轄に連絡を入れ捜査一課長に至急こちら来るよう指示しております」

「そんなことはどうでもいい。なぜ我々からのマイクを使った呼びかけに一切応答せず、電話回線も繋がらない藤井組と民間の放送局の一司会者がホットラインを繋げることができるんだと聞いているのだ」

「はっ」

 畏まって脂汗を滲ませる佐々木警視正に見切りをつけ、榊原は神奈川県警刑事部長本田と千葉県警刑事部長吉沢を睨みつけた。
 しかし厳粛な濃紺の制服に身を包んだ二人はただうなだれるばかりで、下を向いて榊原と視線を合わせようとしなかった。
 

 そうこうしているうちにCMが開けた。

「それでは藤井組組長独占インタビューの前に、番組で用意いたしました、警察の拳銃横流し疑惑についての要点をボードにまとめてあるのでそれをご覧ください」

 田原慎之助が数枚の数十枚のフリップを万年筆で指差しながら、事件の裏の全容核心の流れを解説し始めた。『徹夜で生テレビ』が進行中に腹心の番組スタッフが電話で篠崎及び、篠崎に紹介された斎藤邸にいる南方組ナンバーツー石橋にヒアリングしたもので、関係者でなければ知り得ないディテールが随所に盛り込まれていた。







「おいおいおい。これは殆ど我々がやっていたことの全貌に迫るものじゃないか」

 榊原が腹の底からやっと絞り出すような声で呻いた。

 直立不動で榊原に対していた三人も立っているのがやっとだった。




「元警察庁長官の亀山さん、ご覧になっていかがですか」

 亀山もまた蒼白な顔でフリップを眺めていたが、しばらくしてやっと口を聞いた。

「ディテールから言って極めて確度の高い情報であるらしい、ということはできる。しかしにわかには信じられない、というか到底信じたくないことだ」

「仮にこれが事実だとしたならばどうでしょうか」

「日本の警察機構はおしまいだ。いったん完全に解体しなくてはならないのはもちろん、法治国家日本の信頼は国際的にも地に堕ちて信頼を回復するには途方もない年月がかかるだろう」

「ちょっといいですか」

 先ほど発言した大宅壮一賞作家の佐伯が手を上げた。

「はい、どうぞ」

「この後世紀のホットラインが繋がるとのことですが、藤井組組長の証言もさることながら、ここまでの大掛かりな裏取引ですから物的証拠もあるわけですかね。いえ証言それだけでも、今の今まで我々が思っていたような、暴力団の武装を解除するという大義名分が嘘っぱちかもしれないということの確証になり得ますけども、まるっきり暴力団側の証言だけというのも…」

「おっしゃることは分かります。このフリップをご覧ください」

「モノクロ写真にかなり鮮明に顔が写っていますね」

「はい。証言資料によりますと警察側の窓口の人間が銃器を実際に藤井組幹部と取引している現場だそうです」

「隠しカメラで撮っておいたわけですか、名前は分かっているのでしょうか」

「神奈川県武蔵小杉署の寺村巡査長ということです」




 会場は静まり返った。

 亀山は古巣の決定的不祥事の証拠に憮然たる顔だった。

 神奈川県警察本部19階大会議室は凍りついた。






「大丈夫です。まだ方法があります」

 凍りついた会議室で、さっきまでその場にへたり込みそうになっていた武蔵小杉署署長の佐々木が息を吹き返したように口はしに笑みを浮かべた。

「何?」神奈川県警察刑事部長の本田が問いただす。

「寺村に本当の英雄、「警察官の鏡」ドアになってもらいましょう」



 しばしの沈黙があった。

 会議室の暗がりの中、四人の悪辣な警察幹部は同時に笑い声を上げた。四人が同じ悪巧みを無言のうちに共有したようだった。

「早速手配しろ」

 関東管区警察局長榊原は佐々木警視正に命じた。



 佐々木警視正はキャリア組が滅多にしない現場警察官の警察式敬礼で三人に無言で挨拶し、そのまま会議室から消えて行った。




続く
 

大人のピアノ その百じゅうなな

 武蔵小杉署署長佐々木警視正は黒塗りの公用車を飛ばして武蔵小杉署にとって帰り、寺村巡査長および脇田巡査を呼んだ。

 田原慎之助の『徹夜で生テレビ』で警察が実際に裏取引をしていた動かぬ証拠を生放送されてしまったわけだが、これを寺村巡査長の囮捜査の大手柄として記者会見を開いて発表し直す。

 これが悪のキャリア四人組が一瞬にして共有したさらなる陰謀であった。

 寺村は自分がマスコミの方列の前に晒されることに恐怖し、脇田は表立ってしまうことで自分が南方組の犬(スパイ)であることが露見するのを恐れた。

 絶体絶命のピンチから一発逆転のシナリオを思いついた佐々木警視正は、二人のそうした感情には気がついていないようだったが、役者二人の腰が引けていることの危険性には思い至らぬ様子であった。

 慌ただしく記者会見のセッティングが遂行され、マスコミへの緊急記者会見開催の情報が駆け巡った。




 一方関東管区警察局長榊原の動きも早かった。

 神奈川県警刑事部長本田、千葉県警刑事部長吉沢に対し、マスコミへを巻き込んで再度都合の良いシナリオを世間に流布させる工作の援護射撃を命じたのだった。

 援護射撃の内容は他でもない。夜が明けてからの藤井組への強行突入を前倒しして藤井組長のホットラインでの生番組出演を阻止することであった。

 本田と吉沢は神奈川県警のヘリコプターにて県警本部ビルの屋上から千葉県警へと飛んだ。






「ここで新しいニュースが入ってきました」

『徹夜で生テレビ』会場で田原がスタッフからのメモを読み上げた。

「警察はこの後午前3:00より、神奈川県武蔵小杉署捜査本部にて緊急記者会見を行い、某テレビ局で報道された大掛かりな警察陰謀説について公式発表をする、とのことです」

 会場は再びどよめいた。

 速報性を旨とするテレビ番組ではあるが、放送の速報性ではなくテレビ番組そのものが事態を大きく動かしていることを会場の人々も番組の視聴者も実感していた。

「あと三十分ほどで記者会見が始まりますが、一連の事件の推移、いかがでしょうか…」

 田原がパネリストに話を振ると論士たちは百花繚乱で自説をまくし立て始めた。

 田原はあえて最小限の仕切りでその興奮の状態を電波にのせ続けた。






 神奈川県警察19階大会議室の薄暗い中に一人残ってテレビを見ていた関東管区警察局長榊原は満足げな笑みを浮かべた。

 そして、おもむろに会議室のコーナーの内線電話の受話器を上げてオペレーターに指示し、警察庁公安部長を呼び出した。

「私だ。テレビを観ていたかね。うむ…あの中の司会者に電話をかけてきた謎の情報提供者、見つけしだい直ちにその場で拘束しろ。公安警察の名にかけて国家秩序紊乱の元凶を探し出せ」






続く

大人のピアノ その百じゅうはち

 寺村渚巡査長は午前3:00を目の前にして緊張で目がくらみそうだった。

 記者会見用に使う捜査本部の雛壇はさっきまで自分が永遠に手の届かない雲の上の存在のお歴々が座っていた場所だ。寺村が所轄の交番勤務を経て憧れの刑事になってから何度も見てきた憧れの聖域、サンクチュアリ。自分がそこ座るというだけで寺村は顔が上気してくるのを抑えることができなかった。

 部屋の空気もまた熱気に包まれ、他社を少しでも出し抜こうという総勢60-70名のハイエナのような目をした記者たちの視線が飛び交っている。

 自分の人生にこういう瞬間がやってくるとは思ってもみなかった。

 望んで諦めるという類のものではない。望んではいけないもの、望まないからこそ裏方で警察の暗部の裏街道を歩けた気がする。その自分が警察組織を守るための虚偽の発言を求められてのこととはいえ、こうして日の当たる場所でスポットライトを浴びようとしている。

 半信半疑の記者たちは、自分が「私こそは市民のために危険を冒して身を呈した潜入捜査官です」という発言を信じてくれるだろうか。






 今までの四十数年の人生の中で自分が人に好印象を与えたという記憶はどこを探してもなかった。

 物心着いた頃から「なんだその犯行的な目は」と父親に怒鳴られた。何も不満があったわけではない。それどころか仕事から疲れて帰ってきた父親に、「僕たちのためにご苦労様です」という思いを持って玄関に出迎えた時にもそんなことを言われることもあった。

 生まれつき少し斜視気味の右目が悪いんだろうか。一人っきりの時寺村はそっと母親の鏡台のカバーを跳ねあげて自分自身の顔を見つめるのが常だった。

 神経質そうで何か腹に一物こっそり含んでいそうな、可愛げのない男の子の顔がそこにあった。

 そんなことはないんだ。何もおかしなことは考えてない。僕は…

 何百回目か忘れた。

 鏡の前で笑ってみる。

 笑うとかえって可愛げのない顔は一層可愛げがなくなった。

 父親が「なんだその目は」と言いたくなるのも無理はないなと思った。

 涙がこぼれてきた。




 愛されたい!

 お父さんとお母さんから、近所の大人たちから、子供達から愛されたい!

 僕は…

 こんなにいい子です!

 もう一度鏡に向かって笑ってみた。

 だめだった。



 ある日いつものように鏡を向いていると、鏡に引きつった顔の母親の顔が突然浮かんだ。

「気色悪い!お母さんの化粧台であんたいったい何やってるの!」

 振り返った瞬間母親の怒鳴り声がした。

 僕がちょうど必死に笑い方の練習をしている時だった。

 母親は僕を変態少年を見るような蔑み目で見下ろした。

 あの時の頬が焼け付くような思いは、多分部屋でマスターベーションを見つかった男の子が恥じ入る気持ちの数千倍の衝撃だったように思う。





 僕は人生の全てをかけて母親に笑ってみた。

 違うんだ、母さん。僕はただ母さんに愛されたかったんだ。右の目が目立たないような笑い方の練習をしていただけなんだよ。そんな僕の気持ちをわかって。

「何よ、その不気味な目つき。ヘンタイ」

 母は憎しみさえこもった目で僕を見た。

 僕は今後一生決して笑うまいと誓った。




 高校を卒業して警察官になった。

 刑事になりたかったが、そのチャンスはなかなかやってこなかった。

 決して笑わない、少しでも笑おうとすると強烈に不気味な印象を与える俺の目は、最初に配属された横浜市の中華街の中にある交番の中で少しずつ光を取り戻した。

 街を仕切っている中国系の不良のガキどもや、それに金魚の糞よろしくくっついている日本人のはなたれ小僧どもは俺の鬱屈した内面を瞬時に見抜いた。見抜いてその秘められた危険性に畏れ、そして共感した。

 犯罪予備軍のガキが俺の最初の理解者だった。

 俺はガキを手なずけ、適当に餌を与えながらうまく付き合った。暴力団まがいの縄張り争いから暴動が起きても俺が仕切るとすぐに街の秩序は回復した。

 ガキどもから薬を取り上げ、あるときは薬を与えてやった。ヤクザとの揉め事の仲裁役も丁寧にこなした。そして一年に一回ほどガキどもの感謝の印として、敵対するチームが絡む覚せい剤の密売の現場の情報を流してもらった。

 俺の働きはやがて神奈川県警本部に伝わった。




「佐々木といいます」

 始めて間近で接する警視正という雲上人はまだ二十代後半の東大出のキャリアだった。

 いけすかない野郎だった。

「私が来月赴任する武蔵小杉署で刑事として活躍してもらえませんか」

 いけすかない警視正様は俺にそう声をかけた。

 俺は黙って微笑んだ。なぜ笑ったのかは分からない。自分の人生に訪れたチャンスに素直に喜んだというわけではなかったように思う。お前は俺の正体を知ってるのか?俺がどんなやり方で交番で実績を上げてきたのか、俺という人間が母親に鏡台の前で死刑宣告されてからどんな風に自分の心の中に闇を育ててきたのか知っているのか。

 分かるわけないよな、警視正様は…

 そんな悪魔の笑顔だったはずだ。



「そうですか。喜んでくれてるますか。ありがとう」

「!?」

 俺は一体どんな笑顔をしたと言うんだ…。

 おそらく母親に蔑まれたあの時の何倍もの醜い笑顔だったはずだ。

 警視正様は握手を求めてきた。

 演技ではなさそうだった。

 そういうことに無頓着な人間なんだろうか。

 世界の闇を知らない警視正様の笑顔を俺は信じたい、と思った。



 佐々木警視正が俺に白羽の矢を立てた理由は程なくわかった。

 しかしそれはどうでもいいことだった。

 警視正様の犬となって俺の人生には笑顔が戻った。

 笑うことはいいことだ。

 それがたとえ悪人同士の不敵な笑であったとしても、俺は自分を笑って受け入れてくれる人間の中でやっと人間になれたのだった。




 俺はその場所を守りたい。

 俺の望みはそれだけだ。

 しかきっとこの晴れ舞台は、俺の人生の終末への引き金になるに違いない。

 なぜだか分からないが、それは確かなことのように思われた。





 午前3:00がきた。

 寺村は捜査本部のドアを開けてひな壇に向かった。

 戻れない舞台の緞帳が今上がった。







続く
ゆっきー
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