三人三様のニヒリストたち
原敬暗殺は実はあるルートから平岡定太郎の耳入っていた。親分にそれを伝えに行ったが、原敬は話しだけ聞いてあまり真剣にはとらなかったようである。
果たしてその定太郎の情報は的中した。原は帰らぬ人となって、原の子飼いだった人間たちはまさに死屍累々という風で、殉死というわけでもないのだが、不承不承に歴史の波に飲まれるように失脚していったのだった。
豪放磊落というにはどこか間が抜けている感じに見えなくもない定太郎には、名家の出の夏子との間に一子があった。
平岡梓である。
猪瀬直樹氏の文章をひいてみよう。
「平岡梓は、とらえどころのない、信念を明確にしない男だった。消極的ニヒリストと称したらよいのだろうか。彼のニヒリズムは両親の定太郎や夏子から反面教師として学んだ結果と見るほかないのである」
猪瀬直樹『ペルソナ三島由紀夫伝』
ニーチェによればニヒリズムは二つの態様があるという。
平岡梓のそれはニーチェの言う受動的ニヒリズムに相当するといってよい。
「何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度。」ウィキペディア
もっとも、ひとつだけ補足が必要のようで、平岡梓が何も信じられなくなるほど何かに打ち込んだ形跡はこれといって残っていない。小市民が常にそうであるように、単に状況に軽度に、しかし当人としては大きく、正確には大げさに絶望していたということだろう。
自ら「平々凡々」と称していた梓は岸と同じ農商務省といっても、岸が日本の将来の要は経済にありという理由で農商務省の商に入省したのに対して、農商務省の「農」に進んだ。理由は単純でこの人らしく、役人として幅をきかすことができるかもしれない定太郎の培った利権や人脈が、森林やパルプ工業に残っていたからである。
その役人ぶりを同じ職場で間近で見ていた、梓の7年後輩で岸信介の同志であった楠見義男は平岡梓をこう評している。
「退庁時間が近づくとそわそわするような人だった。岸さんも、”あいつは駄目だからなあ”と放ってました」
猪瀬直樹『ペルソナ三島由紀夫伝』
こうしたエピソードも貴重なのだが、彼が書いた『倅・三島由紀夫』なる本を読めば上記の人となりの印象をいっそう確かにできる。しかし多分三島由紀夫が好きで三島をもっと知りたいとあの本を手にすることとなって、最後までそのまま読み通した人はそう多くないのではないだろうか。このブログでのあの本の引用はやめておく。
どんな雰囲気の本かというのを少しだけ・・・。
岸信介が産業統制法の確立・強化に向けて獅子奮迅の働きをしているころ、大蔵省の役人に官費でご馳走し、出された料理がまずいということで嫌味を言われたので他の予算を流用したところ、次年度からその流用した予算が不要とのことで農商務省の予算がカットされて憤慨したりしたことが書いてある。
今で言う官官接待はよろしくないとかいったことではない。
もちろん三島由紀夫とも関係ない。
ではなんのためだろう・・・。
まことにもって不明なのである。
三島は生涯で三人の代表的なニヒリストを観た。その第一は父親である。
三島が見たニヒリストのもう一人。その人については三島自身の描写を引用しよう。
「記者クラブのバルコニー上から、大群衆というも愚かな大群衆に取り囲まれている首相官邸の方を眺めていた。門前には全学連の大群がひしめき、写真版のマグネシウムがたかれると、門内を埋めている警官隊の青い鉄兜が、闇の中から不気味に浮かび上がった。官邸は明かりを消し、窓という窓は真っ暗である。その闇の奥のほうに、一国の宰相である岸信介氏がうずくまっているはずである。私はその真っ暗な中にいる、一人のやせた孤独な老人の姿を思った。(略)民衆の直感というのは恐ろしいもので、氏が”小さなニヒリスト”であるということは、その声、その喋り方、その風貌、その態度、あらゆるものからにじみ出て、それとわかってしまうのである」
毎日新聞昭和35年6月25日
終戦を経て安保闘争に首相官邸で対峙する、小市民ニヒリストの父親とは全く異質の、農商務省の同期官僚の進化型、昭和の怪物がそこにいた。
その怪物はもちろん大蔵省を9ヶ月で辞めて文人となった自分ともまるで違う。
しかし三島もまた別のニヒリストであった。
三島のニヒリズム、それは紛れも無くニヒリズムには違いないが、二人のニヒリズムとは全く異なるものであった。
父の小市民的受動的ニヒリズム、戦中戦後の明と暗のメインストリームに常に存在感を表し、その結果としてニヒリズムをまとうに至った不気味な小さなニヒリストの底しれぬ大きなニヒリズムでもない。
三島が観た三人目のニヒリストは三島自身だ。
明晰を絵に書いたような人三島由紀夫は、自分自身のニヒリズムをどのように扱ったのだろう。