三島由紀夫と官僚の系譜

祖父平岡定太郎

祖父平岡定太郎樺太庁長官と退官以後

 どんな歴史にもその歴史の主役と脇役がいる。

 もちろん主役と脇役とはあくまでもある種の無責任な後世の史観によって分類されたものだ。ここでは、主役とは日本をグランドデザインしていった岸信介を官僚のメインストリームと一応してみているわけだが、そうした場合、三島由紀夫の祖父平岡定太郎の傍流ぶりは際立っている。

 そして一高、東京帝大、農商務省とずっと岸信介と同期だった父平岡梓もはっきり言ってパッとしない官僚だ。岸が当時私淑していた大物政治家が、なんで君のような優秀な人間が内務省や大蔵省にいかないのか、と農商務省にこだわる岸の翻意を促したが、岸は経済官僚こそが自分の野心を満たす進路であると考えそれを譲らなかった。
 一方たいした野心もなく農商務省に入賞した平岡梓は、事あるごとに予算を握られている大蔵省の役人にいじめられ、鬱鬱とした感情をいだいていた。息子こそは大蔵省に入れようと、まるでプロ野球選手になれなかった草野球の監督のように息子を叱咤激励した。もちろん農商務省が草野球であるはずもなく、現に岸信介は大蔵省や内務省とは違い、経済を牛耳る省庁出身だからこそ、満州での経済政策を40歳をを過ぎたばかりの時に、総責任者として全幅の信頼を背負って遂行する。いわば入省時の目論見通りのコースを歩んでいたのだ。

 平岡梓は三島由紀夫に至る三代の系譜を誇らしげに”官僚一家”と言うのだが、祖父、自分、そして息子を含めてこの一族の官僚ぶりは権勢を誇るお上というイメージから程遠いし、清貧の国士の気概も感じられない。

 ありていに言えば、あまりカッコの良いものではなかった。



 戦後の知事は有権者によって選ばれるが、当時の知事は内務大臣によって任命されていた。原敬以前は薩長藩閥政治の情実で大した能力もないのに昔の大名のような感覚でその地位を与えていたという。

 原敬が第一次西園寺公望内閣で内務大臣になってからはこれが一変した。

「原が任命した知事は、平岡もそうだが、旧体制にあっては出世を望めない立場にいた若手である。氏族でも藩閥でもなければ重用されなかったし、ましてや平岡のような平民出身者には出世のチャンスは限られていた。
 原は彼らの心情をよく知っていた。」
猪瀬直樹『ペルソナ三島由紀夫伝』P35


 目的はズバリ政友会の選挙基盤と政治献金基盤を確立するためである。

「中央政府の政策を県政と結びつけ、政府資金の支出を伴う学校、公園、鉄道、ダム等の建設契約を政友会の党利に従って配分し、任免権を使って地方官僚中の反対分子を追放した。また特に政友会の弱い地盤で同等の選挙基盤を培養し、総選挙の際には、同党を公然と支持したのである」

『原敬 政治技術の巨匠』テツオ・ナジタ


 だから「祖父が植民地の長官時代に起こった疑獄事件で、部下の罪を引き受けて職を退いてから」『仮面の告白』というのは、いかにも起きるべくしておきた事件だということができるのだ。

 平岡定太郎は原敬の期待に答えるべく、かなり危ないことを色々やっていた。あまり知られていないが後藤新平がつとめた初代万鉄総裁の地位は中村是公といういわばリリーフ的な人物によって引き継がれていたのだが、原敬によって第三代総裁として平岡定太郎が強力にプッシュされていた。実際に就任内定と新聞が報道したりしたのだから、樺太庁長官として平岡定太郎は政友会の党利に極めて貢献の厚い人物とみなされていたはずだ。

 しかし・・・。平岡の樺太での裏金作りを握る人間によって潰されてしまった。

 その後平岡定太郎は闇の世界に入っていくのだ。

 戦国時代の武将上杉謙信が発見したという銀山伝説を求めて、江戸時代から山師が群がっていたが幕末には打ち捨てられたという山に銀を掘りに行ったという記録が残っている。
「いかがわしい取り巻き連の持ってくる絵地図に誘われて、祖父は黄金夢を夢見ながら遠い地方をしばしば旅した」と三島が言うのはこの銀山である。

 また、二年余に至った第二次大隈内閣から寺内正毅内閣まで政友会はずっと冷や飯を食わされていたのだが、大正6年の総選挙で政友会は、過半数には足りなかったが第一党になった。次の選挙で政友会の完全復権を狙った原敬は平岡定太郎にある密命を渡す。

 大正八年の大晦日、停車中の大連駅の満鉄車内で、初老の一人の日本人元高級官僚が税関官吏と警察巡査から持っているトランクを開けるように命じられた。出てきたのは44キログラムの密輸アヘン。末端価格一万二千円は今日の金額に換算すると1億円。

 運び屋の名前は、かつて第三代満鉄総裁に内定していた平岡定太郎といった。



 

官僚三人三様

三人三様のニヒリストたち

 原敬暗殺は実はあるルートから平岡定太郎の耳入っていた。親分にそれを伝えに行ったが、原敬は話しだけ聞いてあまり真剣にはとらなかったようである。

 果たしてその定太郎の情報は的中した。原は帰らぬ人となって、原の子飼いだった人間たちはまさに死屍累々という風で、殉死というわけでもないのだが、不承不承に歴史の波に飲まれるように失脚していったのだった。

 豪放磊落というにはどこか間が抜けている感じに見えなくもない定太郎には、名家の出の夏子との間に一子があった。

 平岡梓である。

猪瀬直樹氏の文章をひいてみよう。

「平岡梓は、とらえどころのない、信念を明確にしない男だった。消極的ニヒリストと称したらよいのだろうか。彼のニヒリズムは両親の定太郎や夏子から反面教師として学んだ結果と見るほかないのである」
猪瀬直樹『ペルソナ三島由紀夫伝』


ニーチェによればニヒリズムは二つの態様があるという。
平岡梓のそれはニーチェの言う受動的ニヒリズムに相当するといってよい。

「何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度。」ウィキペディア


 もっとも、ひとつだけ補足が必要のようで、平岡梓が何も信じられなくなるほど何かに打ち込んだ形跡はこれといって残っていない。小市民が常にそうであるように、単に状況に軽度に、しかし当人としては大きく、正確には大げさに絶望していたということだろう。

 自ら「平々凡々」と称していた梓は岸と同じ農商務省といっても、岸が日本の将来の要は経済にありという理由で農商務省の商に入省したのに対して、農商務省の「農」に進んだ。理由は単純でこの人らしく、役人として幅をきかすことができるかもしれない定太郎の培った利権や人脈が、森林やパルプ工業に残っていたからである。

 その役人ぶりを同じ職場で間近で見ていた、梓の7年後輩で岸信介の同志であった楠見義男は平岡梓をこう評している。

「退庁時間が近づくとそわそわするような人だった。岸さんも、”あいつは駄目だからなあ”と放ってました」
猪瀬直樹『ペルソナ三島由紀夫伝』


 こうしたエピソードも貴重なのだが、彼が書いた『倅・三島由紀夫』なる本を読めば上記の人となりの印象をいっそう確かにできる。しかし多分三島由紀夫が好きで三島をもっと知りたいとあの本を手にすることとなって、最後までそのまま読み通した人はそう多くないのではないだろうか。このブログでのあの本の引用はやめておく。

 どんな雰囲気の本かというのを少しだけ・・・。

 岸信介が産業統制法の確立・強化に向けて獅子奮迅の働きをしているころ、大蔵省の役人に官費でご馳走し、出された料理がまずいということで嫌味を言われたので他の予算を流用したところ、次年度からその流用した予算が不要とのことで農商務省の予算がカットされて憤慨したりしたことが書いてある。

 今で言う官官接待はよろしくないとかいったことではない。

 もちろん三島由紀夫とも関係ない。

ではなんのためだろう・・・。

 まことにもって不明なのである。



 三島は生涯で三人の代表的なニヒリストを観た。その第一は父親である。

 三島が見たニヒリストのもう一人。その人については三島自身の描写を引用しよう。

「記者クラブのバルコニー上から、大群衆というも愚かな大群衆に取り囲まれている首相官邸の方を眺めていた。門前には全学連の大群がひしめき、写真版のマグネシウムがたかれると、門内を埋めている警官隊の青い鉄兜が、闇の中から不気味に浮かび上がった。官邸は明かりを消し、窓という窓は真っ暗である。その闇の奥のほうに、一国の宰相である岸信介氏がうずくまっているはずである。私はその真っ暗な中にいる、一人のやせた孤独な老人の姿を思った。(略)民衆の直感というのは恐ろしいもので、氏が”小さなニヒリスト”であるということは、その声、その喋り方、その風貌、その態度、あらゆるものからにじみ出て、それとわかってしまうのである」
毎日新聞昭和35年6月25日


 終戦を経て安保闘争に首相官邸で対峙する、小市民ニヒリストの父親とは全く異質の、農商務省の同期官僚の進化型、昭和の怪物がそこにいた。

 その怪物はもちろん大蔵省を9ヶ月で辞めて文人となった自分ともまるで違う。

 しかし三島もまた別のニヒリストであった。


 三島のニヒリズム、それは紛れも無くニヒリズムには違いないが、二人のニヒリズムとは全く異なるものであった。
 父の小市民的受動的ニヒリズム、戦中戦後の明と暗のメインストリームに常に存在感を表し、その結果としてニヒリズムをまとうに至った不気味な小さなニヒリストの底しれぬ大きなニヒリズムでもない。

 三島が観た三人目のニヒリストは三島自身だ。

 明晰を絵に書いたような人三島由紀夫は、自分自身のニヒリズムをどのように扱ったのだろう。 



滅尽争という無理心中

 三島由紀夫の「戯曲の誘惑」という小文にこんな一節がある。

「学生時代、新関良三先生の本で、”滅尽争”(フェルニヒエル・カンプ)という言葉を知ったときに、この言葉は私を魅してやまなかった。破局(カタストローフ)という言葉と、この言葉の記憶は今日なお私の悲劇的理念の、何とも言えない奇妙な支柱になっている。というのは、私は積み木の瓦解が好きなのである。
 均衡と同じくらいに破壊好きなのである。正確に言えば、ひたすら破滅に向かって統制された組織の均衡の理念が、私の劇の理念、ひろくは芸術の理念になった」

 この芸術の理念は例えばこんなふうに結晶する。

「どうして私が滅びることができる。とうの昔に滅んでいる私が」『朱雀家の滅亡』

「私は決して夢なんぞみたことはありません」『薔薇と海賊』

「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば」『彩の鼓』


 これはいずれも三島戯曲の最後一行、つまりひたすら破滅に向かって統制された小説という絢爛たる美の組織のカタストロフの極点である。

「私は楽天的に、とにかく演技をやり了せば幕が閉まるものだと信じていた」『仮面の告白』

 この一文は三島の全創作の出発点である。

 1945年8月15日。

 演技をやりおおせたはずの三島の、時代と共に天才少年として、そう、三島自身がそう希ったように、日本のラディゲとして夭折する夢は敗戦と共に無様な形で消散した。

 故障して途中で落ちるのを停止した緞帳は役を終えた俳優たちを、舞台の上に滑稽な晒し者のように取り残したのだ。

 信じていた舞台の幕はおりなかった。

 であれば、その幕は自らの手で降ろさねばならない。

 1970年11月25日。

 天才三島にして、もういちど滅尽争の幕を下ろすには実に25年の歳月が必要であった。

 その意味で、三島には他の作家のように円熟へと向かう晩年というものはない。45歳という芸術家としてはまだ若い年齢で自決したからではなく、三島にとっての戦後は起きるべくしてついに起きなかったハルマゲドンを虚構の中で生き直すという舞台に過ぎず、それはただただ、自分の芸術的理念と生のまったき合体というフィクションの亡霊に、つまり”二重の虚構”に過ぎなかっからである。

 ここで、ウィキペディアからニヒリズムの定義をもう一つひいてみよう。一つ目は前回書いた平岡梓的な小市民的ニヒリズムである。ニーチェによれば、あるべきニヒリズムとは以下のようなものの方である。

「すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度」


 積極的に文学という仮象を生み出し、一瞬一瞬その虚構を虚構として生きること。

 こう読むならば、一見するとまるで三島由紀夫のために用意されたような定義ではないだろうか。

 これが平岡梓のそれと大違いなのは一目瞭然であるが、三島が見抜いた岸信介のニヒリズムはこれとどう違うのであろうか。

 再度三島の言葉を引用する。

官邸は明かりを消し、窓という窓は真っ暗である。その闇の奥のほうに、一国の宰相である岸信介氏がうずくまっているはずである。私はその真っ暗な中にいる、一人のやせた孤独な老人の姿を思った。(略)民衆の直感というのは恐ろしいもので、氏が”小さなニヒリスト”であるということは、その声、その喋り方、その風貌、その態度、あらゆるものからにじみ出て、それとわかってしまうのである

 この小さなニヒリストに一番近い人物は、政治家ではないがその心性としては『鏡子の家』の誠一郎である。

 「深淵だの、地獄だの、悲劇だの、破局だのというやつは、青春特有のロマンチックな偏見」

 この三島自らが記した誠一郎のセリフは、いうまでもなく三島美学の全否定である。

 岸信介にとって、帝国主義によって世界が激動したその深淵は、世界大戦というその現実の地獄は、大日本帝國の瓦解と無数の民衆の悲劇は、決して滅尽争とともに消してしまいたいような自分のみすぼらしい生を有耶無耶にするようなアリバイではなく、官僚としてそれらすべての苦しみをあたかも他人ごとであるかのように切り離し、外科医が患者に感情移入することを自ら禁じ、手術室でオペを行うがごとくに、政策の一つとして対処していくことなのだ。

これが岸信介の真っ暗な首相官邸で背中を丸めて行う、外科医的ニヒリズムの実践ではないだろうか。

 だとすると、三島のニヒリズムは一見するとニーチェの定義とそっくりであっても、その動機の部分にあるのは、自分の人生を大きな物語の中で正当化したかった、戦争という大舞台の中で散っていった天才少年という、戦中という劇空間における手前勝手な無理心中とみなすことができなくもない。

 三島の戦後に対する呪詛は、この生き残ってしまった無理心中の片割れに対する、理不尽極まりない身勝手なもう一つの片割れの愚痴だといえる。

 だとすれば、そのやり方には様々の毀誉褒貶があるにせよ、戦前、全中、戦後の日本を”生きていく伴侶”として選びぬいた岸信介に対して、その夫婦生活が他人からどのように言われようともある種の動かしがたい確かさをもって、無理心中の成れの果ての三島に突きつけられたことは想像に難くない。

 岸信介の小さなニヒリストとしての老人の体躯、その怜悧と引換とも言える豪傑的な磊落さの完璧なまでの欠如は、時代という大きなニヒリズムから出発し、その能力をもって常にそれと能動的に寄り添うことが可能であった不世出のリアリストの持つ不気味な存在感となって亡霊としての戦後を生きざるを得なかった三島を直撃したのではなかろうか。


「私は決して夢なんぞみたことはありません」


 岸信介と三島はこの言葉は共有できただろう。

 ただし岸信介は深淵だの、地獄だの、悲劇だの、破局だのといった夢をみたことはなく、三島は伴侶と一緒に日本の将来の夢を観たことがなかったという意味においてである。


「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば」


 岸のニヒリズムは決してこのセリフを吐くことはなく、三島のニヒリズムはこのセリフの如き異様な、そして完璧な虚構世界の宗教的な美として結実したのである。











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ゆっきー
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