祖先の霊と病気

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第1章 本書の目的 ( 1 / 1 )

 一見しただけでは大変に非科学的なタイトルですけれども、長い間にわたって受け継がれてきた先祖伝来の叡智というものは、単に『習慣だから!』として受け継がれてきたものではないと思います。人間お心理にそぐわないものであれば、長い間には棄却されてしまって当たり前ということではないでしょうか。しかし、意味も分からずに受け継がれてきているということがあるとき、これは、受け継がれてきているということ自体が、実は、人間の深層心理を表現しているからであると考えられるかと思います。ここでは以上のような考えに基づいて、伝統文化と近代科学の接点について考え、架け橋となるものを考えてみたいと思います。
 昔から人が住んでいる地域には、人トが生きて行ける地域の特性とも言えるものが文化として根付いているものです。日常生活や子育ては、この文化の中で行われるのが通常です。特に子育ては、人類の存続を可能にする最も基本的なことですから、文化の基本はここにあると考えても大げさなことではないと思います。文化は、言い換えれば、昔からの言い伝えの集合体といったものであるのです。しかし、文化が主張することと近代の学問が主張することに大きな隔たりがあるときには問題が生じます。
 筆者の研究によれば、祖先崇拝という文化が主張することには、近代科学的に理解できることが多かったということがありますので、伝統文化と近代科学の両面から、あるいは好みによってどちら側からでもアプローチが可能なように出来れば、大変によろしい結果を得ることになるのではと思います。
 私達に悩み事や困り事、病気などが発生するとき、その原因を近代科学で明らかにすることが出来ない場合には、これは「先祖の祟りではないか?」と考えられることがよくあります。これは日本各地に共通のことと思われるのですが、外国でも同様であるようです。かつて沖縄県立公害衛生研究所で研究員を対象に講演をさせていただく機会がありましたけれども、中近東諸国からの研究員は、先祖の祟りに相当することを accursed disease と呼んで認識しておりました。 
 本章で知って頂く事柄は、次のようなものです。これは、筆者が居住している沖縄という地域だけの特徴ではなく、全国的なことと言ってもよいかと思うのです。悩み事や困り事、病気が発生したときには、これは先祖事だ!と認識されるようです。沖縄では、仏教による文化の抑圧がない為に、未だに祖先崇拝という伝統文化が活き活きとしており、広く普及した考え方であるというだけのことだと思います。
 
(1)昔からの言い伝え(文化)は広範囲に知られていることが多く、したがって多くの
      人に「心の病」の予防法と対処法の基本的考え方を知ってもらう。
(2)昔からの言い伝え(文化)における迷信と精神の区別ができるようになる。
(3)日本文化としてのアニミズム、シャーマニズム、祖先崇拝(脚注)の特徴と性質を
      理解し、日常生活に応用する力を身につける。
(4)世間でいう、摩訶不思議な現象を科学的に理解する能力を身につける。そして人
      間関係、特に親子関係をよりよい方向に導く力を養う。
(5)ユタ・神女(脚注)の存在意義を科学的に認識して、ユタ買いをする人は意味と効
      用、限界を知った上で行えるようにする。ユタ買いをしない人はユタ無しでもなる
      たけ自力で解決できるようにする。

           (脚注)ユタという言葉は、筆者が沖縄に居住していて、沖縄の人たちを対象に家族
               療法の臨床に携わっている関係で使っていますが、現代では全国的に知ら 
               れた言葉となっていると思います。本土では霊媒、霊能者、拝み屋さんなどと
               呼ばれる人達です。
 

第2章 霊とは何か( 1 / 1 )

 さて、それでは本題に入って行きましょう。昔からの言い伝え(文化、民間伝承)の中の用語と概念を科学的に理解し、科学用語(主として医学と心理学)と対応付けていくことといたします。筆者個人としてはどちらの立場(伝統文化か近代科学か)を採用しようと一向にかまわないのですが、家族の中で立場の分裂が生じますと、同仕様もなく相互不理解に陥りがちですので、このような対応を考えておくことは、「家族」というものの枠組みの中ではとても大切な事と思います。沖縄では、年配者は昔からの言い伝えで、若者は科学の用語で理解しようとする傾向が顕著に見られます。相互理解が不能となり、家庭内のいざこざの原因となっていることが多いのです。家庭内だけのことではなく社会においても事情は同様で、今までのトートーメー論争やユタ論争は、このこと、つまり、伝統文化(昔からの言い伝え)と科学(医学、心理学)の架け橋がなかったことによるものであったと断言して過言でないところがあるのです。
 ある人が口腔内の外科手術を受けることになりました。その人はまぶい分析学の学徒ですが、手術前に、手術を受ける病院が建っている地の御嶽に、手術をうけること、主治医、執刀医が正しく行えるよう、自分を律することができるようにと祈りました。医師達の名前も報告するのが普通なのですが、そんなことは私達は薦めない!と教えてくれなかったのでそのようにありのままを報告しました。結果、その人は無事手術が終了し、治りが早いと医師達も感心し、退院も普通の倍も早かったそうです。いつもこううまく行くとは限らないとは思いますが、うまくいく場合もあるということだけでも大きな収穫です。

第1項 「霊」とは  
「霊」とか「霊魂」とかよく言われますが、その実態は不明と言ってよいでしょう。信じる、信じない、といった次元の問題であると考えてよいでしょう。心霊写真といったものも存在しますが、嘘ではないかどうか確かめよう、といったことがあるくらいで、まだ体系的に理解されるように放っていません。また、「火の玉」は、早稲田大学の大槻義彦教授によって、その実態はプラズマであることが明かされた。まぶい分析学は「科学」の立場を取りますので、この例についても明確に定義する必要があります。次のようにすることで、ほとんどの人間の心の問題や家族の問題に対処できるようになります。
 もし仮に「霊」というものが存在するのであれば、少なくともそれが人間に与える影響を知ることが出来れば、日常生活を送る上では充分であると言えるでしょう。こんな観点から色々と考えてみますと、

 「霊」とは、人間の心に影響を与える力を持ったもの、あるいは、人間の心に影響を与える
ちからそのもののこと。

と定義して良いことがわかりました(又吉正治著:琉球文化の精神分析第1巻~第3巻、月刊沖縄社刊(絶版)は、まぶい分析学講義第1巻~第3巻(上)、東洋企画印刷㈱刊してリニューアルされています)。言われてみれば簡単なことですが、学問的な内容から実際問題に対して、適切に適用していけることが確認されました。これをもう少し、諸賢にはくどいと思われるかも知れませんが、少し丁寧に説明させていただくことにいたします。

例 筆者は今Onkyoという会社のパソコンを使っています。この文書を書いています。この
筆者が愛用しているパソコンですが、これは鉄やアルミニウムなどの金属、シリコンという
半導体、プラスチック、・・・、といった物体を巧妙に加工し、組み合わせてそれなりの働きが
できるように作られたものです。このパソコンに「霊」はあるのでしょうか?

 こんな質問をすると、「う~ん!?」となった挙句、「あると思う」「いや無い!」といったことになり、詰まる所、信じるか信じないかの問題になってしまうことが多いのです。それでは宗教的になってしまいます。我々は宗教ではなく科学の問題として扱わねばなりません。科学は「信じる」ことではなく「理解する」ことに原点があります。このことを科学的に考えるのであれば、先述の定義を適用して、これは「私のパソコンに、人の心に影響を与える力は宿っているかどうか」ということを検討してみれば良いわけです。次のような思考実験を行えば、直ぐに解答、結論が得られます。
 まず、私が使っているこのパソコンが壊れた(あるいは壊された)としましょう。そうしますと、私の心は穏やかではありえません。まず、例えばこの執筆という作業も不可能になってしまいますし、仕事ができなくなってしまいます。影響力は甚大です。自然故障ならば諦めも付きましょうけれども、壊されたとなると「いったい、誰が!畜生!・・・」となります。このような意味で、明らかに私の心に私のパソコンは影響を与える智可等を持っていることが解かります。これは「私のパソコンには霊が宿っている」と言って良いことになります。
 また私が死んだ時、子供が形見としてもらったとしましょう。おそらく私の子はこのパソコンを見るたびに、良きにつけ悪しきにつけ私のことを思い出すのではないでしょうか。するとこのパソコンは、私の子にとっては、他のパソコンとは異なった意味を持つことになります。このパソコンには私の思い出がくっついているというか、想起させられますから。つまり、このパソコンには私の霊が付いている、憑いている、宿っているということになります。このように考えるのであれば、「霊の定義」を次のようにしても構わないのではないでしょうか。

     霊の定義  霊とは、人間が価値を見出した物体(生命体であろうとなかろうと)が持つ
             影響力のことであり、これは、すなわち、人間にとっての価値そのものも霊
     として考えて良いということである。すなわち、価値を有するものには霊が存在する、と
     考えて良いのである。

 

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