芸術の監獄 ワシリー・カンディンスキー(前編)

ワシリー・カンディンスキー(前編)

「絵が好きです」という言説それ自体は、いかなる意味を指すのだろうか?細かく分けるときりがないが、ほぼ次のようなことを推察できるだろう。

1 「私は絵画を見る(鑑賞する)のが好きです」

2 「私は絵画を自分のものにする(所有する)のが好きです」

3 「私は絵画を描く(制作する)のが好きです」

 

勿論、どれか1つのみを語っているとは限らず、2つ以上の意を込めていることもありそうなことで、私などは3つとも該当しているのだが、あいにく経済力がないので、2はなかなか実行できない。ポストカードと画集でささやかに喜んでいる。やがて、「気に入った絵が手に入らないのなら、その雰囲気を持った絵を自分で描けばいいのだ」と悟ってデッサンの教室に行き、修練の甲斐あって、自宅の棚や壁を飾るには「まあ合格」のモノを描けるようにはなった。

「嫌だねぇ、この筆者は自慢してるのかよ」と思われそうだが、もう少しだけ続ける。私が言いたいのは、「絵を所有する喜び」というのは結構はかないものだということだ。「はかない」では分かりづらいですね、「長続きしない」というべきだろう。

 

「美しい絵を自分のものにして、それに飽きが来るなんてことがあり得るのか?」と反論されそうだが、それには私は「美しさの構成要素によります」と答える。全部説明するにはエッセイではなく論文にしなくてはならないので、

おおざっぱに書いてしまうが、絵画の美しさには、「色彩、線の構成が視覚的に快楽をもたらす美」と、「絵から読み取れる物語性が、人の心に快楽をもたらす美」とがあると私は考える。そして傑作と賞賛される絵は、双方の美を兼ね備えていることが多いが、前者の美を無視した絵が成り立つかどうかは普通に考えればお分かりいただけるであろう。

 

そして「視覚的な美」ほど、人を酔わせるがすぐに醒めるものもないのだ。その証拠に「美人は3日見ると飽きる」ということわざがあるではないか。「飽きる」という語が極端だというなら、「なじむ」と言うべきかもしれない。美しい絵は「なじんでしまって有り難みが薄れる」と私は思う。有り難みが薄れないためには、「この絵のお姫様は、何を夢見ているのかしら」と想像したり、「この美しい青はヒマラヤの空? エーゲ海の海?」と語ってみたり、「画家の人生はこの絵によって変わったのかしら」と空想したり、はたまた「この技術を使えば見る人にこんな効果を与えるのか!」と勉強(?)してみたり、見る人がアタマを働かせるしかないのだ。

 

そこでカンディンスキーの絵が登場する。彼の絵画が視覚的に「美しい」かどうかは意見が割れそうだ。


kandin2.jpg



     カンディンスキー「花嫁」1903年。レーンバッハハウス所蔵。


  上段の絵は異論なく美しいですね。これを見る人(特に女性)はみな、目をハート形にして「綺麗!」と言う。私も全く同感である。だがひねくれ者の私は同時に、「飽きが来そう」とも思わないでもない。下段の絵は、私が人生で最初に見たカンディンスキーの作品(言うまでもなく「図版」だが)である。


kandin3.jpg



   カンディンスキー「コンポジションVIII」1923年。グッゲンハイム美術館所蔵。


大学1年の9月か10月だった。図書館で「美術図鑑」を引っ張り出したのだと思う。ミロやクレーの絵も載っていたはずだが、私にはこの「コンポジションⅧ」が衝撃的だったのだ。今でも覚えている。

 

「この絵が欲しい!」18歳の私はそう思ったのだ。「私はこの絵が好き!トランプの絵柄にしたい!」トランプの絵柄という発想はわれながら突飛だが、そのときは心からそう思ったのだ。私はこの絵を前に、にこにこと眺める自分を空想し、ついでこの図柄のトランプで友人と「ばば抜き」に興じる自分の姿を思い浮かべた。バラ色の空想だった。

 

それから私は、この画家が「抽象絵画の父」と呼ばれているらしいことをつきとめたが、画集を買いに走ったりはしなかった。理由は単純で、女子大生にはやることがたくさんありすぎて一人の画家に真剣に向き合う気分は生まれなかったためだ。(要は気まぐれだったのね)あらためて「私はこの画家の絵が好き」と思うようになったのはそれから7年もたってから。そのときから、ポストカードなどを集めるようになり、じーっと見つめて「なぜ私はこの絵を見て快感を覚えるのか? なぜ落ち着くのか?」を考えるようになった。無論結論はすぐには出ず、仮説を立てた。たとえば「コンポジションⅧ」は、私には東京タワーと、ピラミッドと、その前でオーケストラを指揮する人に見える。大小の円形は何だろう。太鼓や小太鼓かな?


案外、人が輪になって踊っているのかな? で、左にある黒い円は太陽で、これは「永遠」の象徴だ。「太古」と、「現代都市」と両方を睥睨しているのだ。勿論これが正しいと主張するつもりはないが、そんなことを考えるととても楽しい。中には「コンポジションⅥ」や「コンポジションⅦ」のように明らかに「阿鼻叫喚」や「大争乱」を表している絵もあるが、「この色は欲望の色?」とか「この形は斧? それとも弓?」と絵解きしてみる。当たっていなくてもいいのだ!と開き直るのがコツだ。

 

本当は「絵解き」は、画家自身が著作(「芸術における精神的なもの」、「点・線・画抽象芸術の基礎」その他)のなかでやっているのであるが、私はまだ読んでない。読みたい気分よりは、「読むと手品の種明かしをされたみたいになるかも」という気分のほうが今のところ強い。カンディンスキーは最初は、法律学者であったくらいだから、論理展開力と弁論術は相当な水準と思われるが、それだけに彼の著作などを読んだ日には「はい、あなたの理論が立派なのは分かりました」と辟易しそうで、怖いというか、楽しくなさそうな予感がするのだ。

 

不遜と思われそうだが、私は、カンディンスキーと自分とは「似たもの同士」ではないかと少し疑っている最中である。どんなものにでも因果性があると考え、原因と結果の法則をねちねちと探り、口が達者で人を煙に巻き(!)、「芸術一筋」で、人に迷惑をかけても「これも芸術家のさだめ」とか言って開き直り、周囲は離れていくかあきらめるかどちらか。

 

もちろん、そんなことを記した資料はないけれど、年表をつぶさに見ると、「この人って、家族や恋人にとって迷惑な人だったのでは??!」と感じざるを得ない節があるのだ。彼は実に多作な芸術家で、それは心から尊敬する点だが、どうやら他の人が眼中になかったからこそ、作品にうち込めたのではないかと言う気が私にはするのだ。確証はない。あくまでも私の想像(妄想?)だが。こんな「抽象画の父は、はた迷惑な冷血人間であった」仮説を抱くようになった経緯は、次回で語ります。

(続く)



深良マユミ
芸術の監獄 ワシリー・カンディンスキー(前編)
0
  • 0円
  • ダウンロード

1 / 1

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント